白の無垢・黒の無意識


 
 
 この記事が、最後の更新になるかもしれない。
 以下の記事が世間の目に触れることになった、翌日か、翌々日、――ひょっとしたら、当日のうちに――、このブログは私には覚えのない「管理者側の都合」により閉鎖されているかもしれない。あるいは、私自身が、社会から抹殺されているかもしれないからだ。
 それでも私は、真実を書く。
 猫社会に君臨する巨大企業を、全く無名の猫飼いである私が、実名で告発するとなど、とても正気の沙汰ではない、と人は言うだろう。また、その実態を暴くことが、総体として、どんな社会正義に貢献するのか、問われても私には答えることができない。
 だが――、人には、知る権利がある。
 猫飼いとして、猫社会の影の部分を知ることは、権利であるだけでなく義務でもある、と、私は言いたい。自分たちの愛する猫を守るために。そして、その愛する猫たちの生きるよすがである、自分自身を守るために。“影”はじわじわと、猫飼いの生活に忍び寄り、気付かぬうちにその生活を侵犯していくのだから。
 すべての猫飼いは、真実から目をそむけてはならない。そのために、私はここに、日本中の猫飼いに向けて警鐘を鳴らす。
 
 
 ことの始まりは、アタゴロウであった。
 彼の出自が謎に包まれていることは、これまでに何度も書いた。年端もいかぬチビネコが、なぜ、山のてっぺんなどにいたのか。そして、これ見よがしに、駐車場をうろついてなどいたのか。疑問は尽きない。
 しかも、彼は、明らかに、人間の家庭に入り込むことを狙っていた。何としてでも人間に飼われるつもりだったらしい。「鳴き過ぎて声が涸れていた」という証言がある。
 紆余曲折を経て、彼は私の家に来た。「甘えん坊のチビネコ」は、数日後に訪れた客人(母と姉)の心をもあっという間に蕩かし、ついでに姉のジーパンでハナミズまで拭かせてもらったことは、今でも語り草となっている。
 チビネコはその後、これも謎めいた全身カビを発症して収監され、遊びたい盛りの時期に、狭いサークルの中で不自由な生活を送ることを余儀なくされた。
 かわいそうに…、という思いが、私の中で働かなかったと言ったら嘘になる。
 こうした経緯が、私のアタゴロウに対するささやかな引け目となり、結果的に彼を甘やかす方向へと導いたのだ、と、今となって私は自身の行動を分析している。
 やがて、よく分からないうちに、何となくカビが完治した彼は、サークルを出、その直後から暴れ出した。「遊ぶ・甘える」が、彼の日常となった。彼の暴れっぷりに、最初は少々驚いた私も、きっと男の子はこういうものなのだろう、と、いつの間にか慣れてしまっていた。
 そして、何事もなく時は過ぎた。――少なくとも、表面上は。
 
 
 そのアタゴロウのお気に入りは、「ねこじゃらし」である。
 猫飼いの家には必ず一つはある「ねこじゃらし」。新しい猫が来て、何かおもちゃを買ってやろうと思った時、最初に購入するのが、たいていこれである。猫を初めて飼う人には、最初に思い付くおもちゃであろうし、猫と遊んだことのある人にとっては、とりあえず一番無難なセン、といったところか。
 我が家にも、「ねこじゃらし」が二本あった。
 多分、最初にミミさんを我が家に迎えた時に、二本パックを購入した。その一本目を歴代の猫たちが使っていたのだが、ミミさんはネズミ(アンドレア氏)、ダメは釣り竿式の鳥の羽根、ヨメは輪ゴムと手袋(?)と、それぞれ別のおもちゃが好みだったので、「ねこじゃらし」は、一本目の穂が多少くたびれて柔らかくなった程度で、きちんと原形を留めたまま、受け継がれてきたものである。
 ところが。
 アタゴロウは、ひたすら「ねこじゃらし」に執着する。
 先輩三匹が使った一本目は、彼の手でほどなく崩壊した。推定八年を経てようやく日の目を見た二本目も、やがて穂先と柄とに分解された。
 アタゴロウは、その、穂先のない柄を引きずり回して、しつこく遊び続けている。
 そんな少年を不憫に思った私は、近所のペットショップに立ち寄り、「ねこじゃらし」を求めた。
 先述のとおり、「ねこじゃらし」は極めて基本的なおもちゃである。そのとき私は、「ねこじゃらし」を買うのがおよそ八年ぶりであったにも関わらず、こんなものはどこの店にでもあるだろう、と、高をくくっていたのであった。
 が。
 なかった。
 正確に言えば、「ねこじゃらし」はあった。ただ、私が思っていたような基本的なもの、つまり、それまでアタゴロウが使っていたものと同じ製品は、その店にはなかったのである。
 とはいえ、そもそも「ねこじゃらし」は単純なおもちゃである。穂の色や柄の材質に多少の違いがあったとしても、形は同じだし、その性能に大した差があるはずもない。そう思って、私はその“類似品”を購入した。その“類似品”も、やはり二本パックであった。価格は、安かったか高かったか、覚えていない。
 しかし。
“類似品”は、二本続けて、あっという間に崩壊した。本当に早かった。穂の部分があっけなくむしり取られ、おまけに、アタゴロウの奴は、先の二本と違い、穂のとれた柄に、全く興味を示さなかった。高かったにしろ安かったにしろ、どのみち買っただけ無駄だった、というのが、私の正直な感想である。
  
  

  
  
 そのころ、猫を飼ったことのない友人が、家に遊びに来た。
 客の側も猫の扱いに慣れていないし、猫の側も、人見知りする連中である。だが、我が家のアトラクションと言えば猫くらいしかないので、一計を案じた私は、友人に「ねこじゃらし」を渡し、アタゴロウを釣り上げる術を教えた。
 隠れて様子を窺っていたアタゴロウは、「ねこじゃらし」の魅力に、ついに姿を現した。さすがに警戒心が勝ったのか、いつものようにノリノリではなかったが、不慣れな客が振り回す「ねこじゃらし」に戸惑いがちながらも攻撃を仕掛けたので、一応、「猫と遊んだ」と言える体裁は整った。友人も満足してくれたことと思う。
 一段落したところで、友人は手にした「ねこじゃらし」をしげしげ眺めながら、実に素朴な疑問を、私にぶつけてきた。
「これって、幾らくらいするものなの?」
「さあねえ。買ったのはずいぶん前だから、値段なんか忘れたわ。二本パックで、四百円とか五百円とか、そんなもんじゃなかったかしら。」
「ふうん…。」
 友人は、「ねこじゃらし」を縦にしたり横にしたりして軽く振りながら、いっそう不可解そうな顔をした。
「でもさ、これって多分、原価は十円とか二十円とか、そんなだよね。すごい『ぼってる』ってことにならない?」
 私は、言葉を失った。
 考えてみたことも、なかった。
「これ作ってるのって、どういう会社?」
「知らない。A・O社かな?U・C社かもしれない。」
 単に、その場で思い付いたペット用品の大手メーカー名を並べたまでである。
「ふうん…。」
 友人は、つと、「ねこじゃらし」を放り出して、笑いながら付け加えた。
「どこかに『ねこじゃらし御殿』が建ってたりしてね。」
 つられて私も笑いながら、だが、有り得ない話ではないな、と、頭の隅で考えていた。
 
 
 近所のペットショップを何軒か覗いてみたが、意外に見つからない。外出先でも、ペットショップを見かけると立ち寄ってみるのだが、アタゴロウ愛用の「ねこじゃらし」は見つからなかった。
 分類的に「ジャラシ」と呼ばれるものはある。ただし、その穂の部分が、ラビットファーの球体であったり、リボンや羽がついていたり、ネズミの形になっていたりなど、豪華な発展形であり、シンプルな基本形がない。グフもゲルググアッガイもいるが、肝心のザクがいないのである。
 以前、「ねこじゃらし」を購入したのは、どこだったろう。
 ほとんど記憶はなかったが、おそらく、勤務先の本社近辺にある、大手のペットショップではなかったかと推測した。当時、私は本社勤務で、そのペットショップは通勤経路上にあったのだから。
 あのペットショップの他の支店が、私の普段の行動範囲のどこかになかっただろうか。
 そんなことを考えだした折、本当に偶然である。本社に研修に行くことになった。
 私が狂喜乱舞したことは、言うまでもない。
「明日は、『ペットの×××』に行く日ですから。」
「『研修に行く日』でしょ。」
 という会話が、何度繰り返されたことか。
 して。
 あったのだ。
 さすが大手。その「ペットの×××」には、ゲルググアッガイと並んで、黄色と赤(正確には濃ピンク)の二本セットのザクが、堂々と商品棚を飾っていた。
 よかったなあ、アタゴロウ。
 感無量であった。
 
 
 帰宅して、アタゴロウにその一本目(赤)を与えると、目を輝かせて喜んだ。
 
 
 初日。
  
  

  
  
 十日後。
   
  

  
   
 三週間後。
  
  

  
  
 後日発見された穂先。
   
   

   
  
 一本目の寿命はおよそ三週間であった。
 その後、アタゴロウはしばらく、その残った柄で遊んでいたので、飽きるまで放っておこうとそのままにしているうちに、何となく二本目を出しそびれていたのであるが。
 先日、別の会議で、また本社に行く機会があった。
 私の中では、すでに「本社に行く=『ねこじゃらし』を買う」という構図が出来上がっているので、帰途、迷わず「ペットの×××」に立ち寄り、二パック目を購入した。
 これでストックができたのだから、そろそろ、前回の二本目を出してやろう。
 ちなみに、一本目が壊れたのは五月半ばである。すでに三ヶ月以上を経過している。
 ちょっと出し惜しみし過ぎたな、と、アタゴロウに申し訳なく思いつつ、買ってきた新しいパックは物入れにしまい込んで、前回購入分の二本目を彼にプレゼントした。
 そして。
 現在、彼はその黄色い「ねこじゃらし」を、心の友としている。
 彼ももう、いい大人である。そろそろ「ねこじゃらし」にも飽きたかも…という懸念(期待)が、購入時にちらりと頭をかすめたのだが、全くの杞憂であった。
  
  

 

 

 
  
 だが、猫は「ねこじゃらし」の、何に魅力を感じるのだろう。
 あのフサフサの穂先を小動物に見立てていることは、想像に難くない。だが、それが本物の小動物でないことくらい、彼等は知っている。
 だったら、同じような大きさの、同じような触感のものなら、同じように興味を示すかと言えば、そうでもない。現に、「ねこじゃらし」の柄から穂先がちぎれてしまった後、アタゴロウがおもちゃにするのは、むしろ柄の方である。穂先の方にはあまり関心が向かないらしい。
 素直に考えれば、彼等が「ねこじゃらし」をおもちゃと見なすのは、それが人間の手によって動くからである。つまり、フサフサ・フワフワしたその感触と併せ、その「動き」を小動物のそれに見立てているのではないか。
 しかし。
 アタゴロウに二本目の「ねこじゃらし」を与えてみて、私はおかしなことに気付いてしまった。
 アタゴロウの目の前で「ねこじゃらし」を振ってみせると、彼は攻撃してくる。遠くに投げれば、ダッシュで取りに行く。落ちていれば咥えて引きずり、結果的にゆらゆら動く柄や穂先にじゃれつく。それは自然な反応だ。
 だが、例えば、私がただ「ねこじゃらし」を持って、そのまま静止しているとき。
 私が「ねこじゃらし」に触れた瞬間に、彼のヒゲは、一斉に前を向くのである。
 それは実に、恐ろしいほどの、前向き加減である。
 ダメちゃんが釣り竿式の羽根のおもちゃで遊んでいる時、彼のヒゲも前を向く。だがそれは、もともと横向きに生えているヒゲが前を向いたに過ぎない。それに対して、「ねこじゃらし」を見た瞬間のアタゴロウのヒゲは、ほとんど、最初から前を向いて生えていたような、急角度の前向きなのである。
 そして、アタゴロウの目。
 ふだんはちょっと吊り気味のまん丸目で、おっとりと可愛らしい印象を与える目が、急に、愛らしさを削ぎ落した凄味のあるそれに変わる。
 あまりにも、露骨な変貌ぶりだ。
その「お約束」の反応は、まるで何者かによってプログラミングされた、いわば機械仕掛けの変化のようだ。毎日その様子を眺めているうちに、私には、どうにもそのようにしか見えなくなってきたのである。
 
 
 かつて、フランク・シナトラが主演した「失われた時を求めて」という映画があった。私はそれを観てはいないのだが、内容は聞いたことがある。
 戦時中、捕虜となったアメリカ兵が、洗脳の実験台にされる。戦争が終わり帰国した彼は、知らぬ間に、「ハートのクイーンを観ると夢遊状態に陥り、その時に言われた言葉どおりに行動を起こす」という暗示をかけられており、政治的に利用されて、意識のないまま、政府の要人を狙撃する。
 似たような推理劇やサスペンスドラマは、幾らでも見出すことができるだろう。
 ベルを鳴らすと唾液を垂らす。パブロフの犬だって同じことだ。それはもしかしたら、非常に身近に行われているトリックなのかもしれない。
 身近なところ――例えば、目の前の猫にさえも。
 動いてもいない、ただそこにあるだけの「ねこじゃらし」に反応する。大人しく愛らしい猫が、その瞬間、凶暴なテロリストに変貌する。
 だが、何故――?
 アタゴロウは何のために、いや、誰のために、破壊活動に走るのか。
 アタゴロウの破壊活動によって利益を得るのは、一体誰なのか?
 幼いアタゴロウを洗脳し、刺客として愛宕山に放った人物とは、一体何者なのか――?
 
 
 ふと、思い当ることがあり、私は未開封の「ねこじゃらし」のパッケージを取り出してみた。
 すると――、
  
  

  
  
 何と。
 アタゴロウ愛用の「ねこじゃらし」のメーカーは、A・Oでも、U・Cでもなかった。
 専門企業だったのである。
 
 
 ――どこかに『ねこじゃらし御殿』が建ってたりしてね――
 
 
 私の脳裏に、広々とした野火止の大地に、朝日を浴びて燦然とそびえ立つ、「ねこじゃらし御殿」の威容が浮かぶ。
 高い石塀。輝く御影石の玄関。堂々たる屋根には、黄金のシャチネコが、まるで生きているかのようにトラジマのしっぽを振りたてている。
 そして、五百坪はあろうかという広い庭園は、見わたす限り、色とりどりの「ねこじゃらし」に埋め尽くされ、風が吹くたび、さながら秋の穂波のように、一斉にフサフサの頭を傾けている――。
 
 
 そう。
 これでようやく、すべての糸が繋がるのである。
 愛宕山のてっぺんに突如として現れた謎の仔猫は、N社の破壊工作員であった。
 彼に、罪の意識はない。彼は幼いころに洗脳され、その記憶は、すでに無意識の闇に封印されているのだから。
 その洗脳が解ける日まで、彼は「ねこじゃらし」を破壊し続ける。「ねこじゃらし」を目にするたび、彼のプログラミングされた疑似本能は始動する。「ねこじゃらし」を破壊し、その柄にまで異様なほどの愛着を示し、それでいて、他社製品には一切の興味を示さない。(任務のために破壊はする。)そんな彼を溺愛する人間は、可愛い猫のため、あくまでN社の「ねこじゃらし」を探し求め、破壊されても、破壊されても、限りなく買い与え続ける。
 恐るべき錬金術ではないか。
 確証はない。だが、そのシナリオが示唆するのは、彼が甘やかされるきっかけとなった、あの謎の全身カビでさえ、もしかしたら、仕組まれたものだったかもしれない、ということだ。
 だが。
 繰り返す。アタゴロウ自身には、何の意識もない。
 であるから。
 私には、彼を責めることはできない。むしろ、私がそれに気付いてしまったことが、彼の「失敗」とみなされ、然るべき制裁が科されるという展開を、ひたすら懼れるのである。
 
 
 と、いうわけで。
 ここでひとつ、読者のみなさまにお知らせが…。
 
 
 この話はフィクションであり、実在の(有)猫じゃらし産業さんとは、関係はあるけど単なる言いがかりです。 
 (有)猫じゃらし産業さん、ごめんなさい。

 
 
 でもね、ホントに。
 ここから先は、真面目に。
 やっぱり、たかが「ねこじゃらし」と言えど、製品の良し悪しというのは、あるのですわ。
 本文に書いたとおり、他の製品を買ってみて分かった。(有)猫じゃらし産業さんの「ねこじゃらし」はやはり、専門企業だけあって、優秀なのである。
 壊れにくい。(アタゴロウがギリギリ噛んでも、三週間は保つ。)
 柄のしなり具合が絶妙。
 大きさと、重さ。特に、穂の部分が日本猫にちょうど良いサイズで、振った時の揺れ方も、いかにもそそる感じである。
 ついで、その「壊れかた」であるが、穂の部分が猫の爪で引っ掛けられて少しずつほころび、牙でギリギリ噛まれてちぎれる。これは、布製である以上、避けられぬ宿命である。それよりむしろ、そうなるまで、穂が柄から外れないことを評価したい。
 この文章を書く前に、(有)猫じゃらし産業さんのHPを覗いてみたのだが、本当に、「ねこじゃらし」および付属品以外のおもちゃは二種類しかなく、それも、「ねこじゃらし」の応用とも言うべきもの。代わりに、「ねこじゃらし」には実に様々な色がある。その染料も、猫が噛んでもいいように、無害な染粉を使っています、とのこと。
 実にこだわりの専門企業なのだ。
 
 
 そして、もう一つ。
 HPを見て、衝撃の事実を知った。
 何と、(有)猫じゃらし産業さんの「ねこじゃらし」には、「猫じゃらしソング」があるのだ!!
 一番から三番まであって、それぞれ、終わりに台詞がついている。このブログをお読みの方、ぜひ、(有)猫じゃらし産業さんのHPを検索して、聴いてみてください。
(リンクを貼りたいけれど、貼っていいか分からないので、お手数ですが「猫じゃらし産業」で検索してください。)