BASSHI BUT…



 

 私は途方に暮れていた。
 十月十四日土曜日の昼前。冷たい霧雨が降るか降らないか、危うい空模様の街角。
(私は、どこに行けばいいのだろう…。)
 足早に行き交う駅前の人混みの中、無情にぴたりと閉ざされたガラス扉の前で、私はひとり、ただ立ちつくす。
 馴染みのスーパーが、数日前に閉店してしまったのだ。
 いや、閉店したことは知っていた。閉店した日の夜に前を通って、自分の目で確認もしていた。だから、もうそこで買い物ができないことは十分承知していたはずなのだが、いざ買い物をしようと思い立つと、じゃあどこに行こうか、と、やはり途方に暮れるのである。
 私は普段、食材を生協で購入している。だから、スーパーで買い物をしなくても、基本的に食べるに困るようなことはないのだが、
(でも、今日はどうしても、買い物がしたい。どうしても買いたい。)
 端的に言えば、酒を、である。
(だって今日は、祝杯を上げるのだから。)
 そう。
 今日はアタゴロウの抜糸の日なのだ。
 
 
 金曜日のはずの抜糸が、土曜日になった。
 その主な理由が、カビの培養検査のためであることは、前回書いた。
 金曜日であったら休みを取らなければならなかったので、この変更は、ある意味、私にとっても都合のよいものであったのだが、いかんせん、急な話であるため、私はすでに土曜日の午前中に予定を入れてしまっていた。
 しかも、培養検査の結果が出ているかが、かなりきわどいところである。そんなわけで、その気休めを兼ねて、動物病院には午後の診療時間に行くことにしていた。
 午後の診療は四時からである。休日だから混むことを予想して、四時を過ぎたら間もなく病院に飛び込み、抜糸を終えて、五時か、遅くとも六時には帰宅する。カラーが取れて元気いっぱいのアタゴロウを写真におさめ、「抜糸完了!」の簡単な報告をブログにアップして、あとはお風呂上がりの美味しい一杯をいただきます、というのが、私の計画であった。
 恨み事を言うわけではないが、実は、私はその前の週の金曜日、職場の人たちと、新宿のホテルで食事会の約束をしていた。(ちなみに幹事は私である。)大変楽しみにしていたのだが、アタゴロウの退院と被ってしまったため、泣く泣くキャンセルしたものである。そのささやかなリベンジも含めて、アタゴロウの抜糸の日には、家でひとり祝杯をやろうと決めていたのだ。
 結局、駅ビルの中の高級系スーパーに立ち寄り、散々さまざまな商品を眺めて楽しんだ後、結局、変わりばえしないのだが、いつもの「澪」の三百ミリ瓶と、お惣菜を一品、それにチーズとスイーツを買って帰宅した。
 こういう買い物は、楽しいものである。
 この勢いで、自宅にある食材で、料理も楽しくできちゃうだろう。家呑み万歳、である。
 白状すれば、この時点で、当のアタゴロウくん自身にも美味しいものを食べさせてあげたいという、普通なら当然考えるべき優しい心遣いに、私は一切、思い至らなかった。
 だが、いいじゃないか。どのみちアタゴロウは療法食しか食べられないのだし、エリカラが取れて自由の身になるだけでも、相当嬉しいはずだ。
 私自身はむしろ、大玉サンドの労働から解放されることが嬉しかったのである。 
 
 

(抜糸直前)
 
 
 動物病院は、空いていた。
「猫山さん、奥の診察室へどうぞ。」
 実は、どこの診察室か聞き逃したのだが、聞かなくたってもう分かっている。院長先生は、いつも奥の診察室にいるのだ。
「こんにちは。」
 診察室に入ると、院長先生がにっこりと微笑んで迎えてくれた。私ももう、すっかりお馴染みさんである。いや、先生的には、何をしにきたか分かっている患者だから、気が楽だっただけなのか。
 しかし。
 こうして見ると、この先生、けっこうイケメンじゃないの。(一部サイトでは、最初から「イケメン獣医師」と書いてある。)
「どうですか。元気ですか?」
「はい。もう、すっかりマイペースでやってます。――あの、培養検査はいかがでした?」
 先制攻撃で、まずそこを突っ込む。大事な点である。
「今のところマイナスです。ただ、このところ寒いですから…。」
 それだけ聞けば、充分である。私の中ではすでに、カビ男は「シロ」の判決なのだ。
「痒がってますか?――いや、カラー付けてるから分からないかな?」
「特にそこを気にしている様子はないです。」
 院長先生はまず、その「皮膚炎」の部分を検分して、
「どうやら、剥がれてきそうですね。このまま自然に剥がれてきたら、まあ、悪いものが取れたと思ってください。」
 前回、カビの疑いとされた部分は、その剥がれそうなカサブタ状のものの辺縁部である。これは単に、カサブタの縁が乾いてカサカサしているだけではないのか。
「良かった。もしカビだったら、まだカラーを付けておかなければならないんでしょう?」
 以前、かかりつけの先生のところで聞いた知識である。カビは猫自身が患部を気にして舐めてしまうことで、全身に広がってしまう、と。
 ところが、院長先生は、私が思ってもいなかったことを口にした。
「あ、いずれにしても、今日、カラーは取れませんよ。まだ数日、付けておいてください。」
 え…!?
 抜糸したら、カラーは取れるんじゃなかったのか。
「うん。傷口は順調に綺麗になってますね。じゃあ、抜糸できるところまで取ってみましょう。」
 ついでに、抜糸も終わらないかもしれないのだった。
 
 
 そして、待合室で待つことしばし。
「猫山さん、どうぞ診察室へ。」
 再び診察室に入ると、アタゴロウはすでに、キャリーの中だった。
「糸は全部取れました。でも、糸のあったところに穴が開いていますからね。穴がふさがるまで、一日か二日、まだカラーは付けておいてください。」
 へえ、そうなのか。
 ムムの避妊手術の時も、玉音の誤飲による開腹手術のときも、抜糸と同時にカラーは取れたように記憶しているのだが。穴があるのは同じだと思うけど。
 ま。
 場所が場所だけに、慎重にならざるを得ないのかもね。
 そういえば、かかりつけの先生も、「カラーが取れたとたんに、舐めて舐めて、血が滲んじゃった子もいる」という話をしていたし。
「二日くらいしたら、外していいんですね?」
「ええ。いいですよ。」
「あの、培養検査の結果は…?」
「ああ、それなら、電話してくれればいいです。四〜五日したら電話してください。」
「あ、はい。分かりました。」
 電話、くれるわけじゃないんだ。
 いや、かかりつけの先生もそうだったけど。
 今にして分かる。玉音の培養検査のとき、電話がかかってこなかったわけ。
 培養検査であるから、生えてきて初めて「カビだ」と確定できる。生えてこなければ、いつまでも確定には至らないわけだ。「シロでしたよ」という連絡は、なかなかしづらいものと思われる。
 と、いうことは。
 多分、院長先生も、内心ではシロだと確信しているのだろう。
「ありがとうございました。」
 いつもどおりに挨拶して、アタゴロウの入ったキャリーを背負って、診察室を出た。
 
 
 しばらくしてから、気が付いた。
 そうか。
 もう、この先生と、会うこともないんだな。
 もうちょっと、ちゃんと挨拶しておけばよかった。
 せっかく(少しは)仲良くなったのに。惜しい気もする。イケメン獣医師だし。
 八百屋お七の気持ちが、少しは分かるだろうか。いや、分からないな。
 次にこの先生に会う時は、うちの連中の誰かが、大きな病気をした時だ。ちょっとそれは、ご勘弁願いたい。
 そう考えると、高度医療の病院の先生というのは、ほんの少し、切ない商売なのかもしれない。常に出会いと別れの連続なのだから。それが良い別れであれ、悪い別れであれ。
 
 

(抜糸後)
 
 
 帰り道。
 自転車を漕ぎながら、真剣に考えていた。
(砂を戻してもいいか、訊くの忘れた。)
 そう。
 一番大事な(?)ことを、確認し忘れていたのである。
「穴が開いている」というのは微妙な状況である。そんな小さな穴くらい、気にしなくていいだろう、という気もする。だが、そもそも崩れる木の砂を禁止された理由は、細かいおがくずの粉が傷口に付着すると取れないから、である。小さな穴でも、粉が付着する可能性はあるのではないか。
 結論が出ないままに、家に到着した。
 リビングに入り、キャリーの蓋を開けて、最初にびっくりしたこと。
 カラーの色が、変わっていた。
 いや、カラーが変色したわけではない。新しいカラーに付け替えられていたのである。
 もしかしてこれは、アタゴロウが入院中に付けていた二重カラーの片割れなのだろうか。まさか。そのためにわざわざ取っておいたりはしないよね。
 と、いうことは。
 新品か。
 たった二日のために?今までのカラーだって、充分、まだ使えたのに。
 お大尽だなあ。さすが猫専門病院。(それは多分、関係ない。)
 キャリーから飛び出したアタゴロウは、いつになく私を警戒しつつ走り去った。多分、抜糸が不愉快だったんだろうな、と思った。
 それでも、少し時間をおくとアタゴロウも落ち着いたらしく、姿を現して、いつもどおり、私に甘え始めた。
 頃合いを見計らって膝の上に抱き上げ、抜糸後の状態を確認する。
 穴って、どのくらい目立つものなのだろう。塞がったとか塞がらないとか、容易に肉眼で分かるようなものなのだろうか。
 ところが。
 興味津々で覗きこんだ私の目に飛び込んできたのは、違うものであった。
 抜糸前の傷口は、血が固まった真っ黒なカサブタに、途切れ途切れに覆われていた。カサブタは当初、全体に繋がっていて、糸もその中に埋もれて見えなかったのだが、日が経つにつれ少しずつ剥がれ落ち、すでに糸が露出していたものである。
 抜糸前の残ったカサブタの中に、ひときわ大きな塊があった。
 その大きなカサブタは、抜糸の都合であろう、取り除かれていた。
 お陰で抜糸は完了したわけだが、その大きなカサブタを取った痕が赤くなり、わずかに濡れた色をしていたのである。
 院長先生の名誉のために一応断わっておくが、赤くなっていたと言っても、血が出るほどではない。自分でもちょっとした怪我のカサブタを、ついつい気になって剥がしてしまい、あ、しまった、まだ早かった、と、後悔することがあるが、そのヒリヒリ状態だと思ってくれれば良い。
 いずれにしても。
 糸の穴どころではない。その濡れたような赤い色を見てしまった以上は、トイレ砂の交換は、とても非現実的に思われた。
(少なくとも今は、替え時じゃないよね。)
 糸の穴が塞がるのには「一、二日」と、院長先生はおっしゃった。この赤みが消えるのにも、二日くらいはかかるだろう。それまで、砂の交換はお預けである。
 と、いうわけで。
 
 
 ああ。
 結局。
 今日という日が過ぎても、抜糸が終わっても、日常生活上、何も嬉しい進展はなかった。
 私にとっても、アタゴロウにとっても。
 
 

カサブタの痕。十月十五日撮影。一日経ってこんな感じ。)
 
 
 すっかりやる気をなくした私は、ブログ更新を翌日回しにし、半分やけになりながら、大玉サンドのトイレを掃除した。
 そこで、やる気をなくしたお陰で、翌朝、まさに踏んだり蹴ったりのことになるのだ。
 つまるところ、出掛ける前はすっかり大玉サンドとお別れする気でいたため、トイレの傍にペットシーツを一枚しか用意していなかった。そう。トイレの前に敷く分を忘れたのである。
 そんな私の痛恨のエラーを狙っていたかのように、翌早朝、大治郎氏は久々に、ホームランと見紛う大ファウルを放った。
 しかも、ご丁寧に、多分彼自身だと思うのだが、そのファウルボールを踏みつけにしていたのである。
 
 
 ところで。
 あれほど楽しみにしていた一人祝杯は、どうしましたかって?
 ええ、そりゃ。予定どおり遂行しましたよ。祝うことは何もなかったけど。
 だって、スイーツ買っちゃったもん。これはその日のうちに食べないと。
 スイーツと酒は関係ないだろう、とか、細かい突っ込みは、この際、ナシにしてもらいたい。
 まあいわば、やけ酒に近い形となったわけだが、お陰で、いい気分になって眠りにつくことができたのだから。(翌朝、悲劇が待っているとも知らず。)
 酒屋お澪のお陰で、八百屋お七にならないで済んだ。そういうことに、しておこう。
 
 
 

(抜糸一日後)