園子は腹を舐めすぎる


  
 
 越智への恋情が、生理的に雨宮の肉体を拒否したのかと、さすがに私は慄然とした。じぶんの不安をひとりで持ちきれず、私は雨宮の手にすがりつくと、口にしてしまった。
「越智さんが好きになってしまったの。こんな気持ちはじめてなの」
 雨宮もとび起き、私の肩に両手をかけ、激しくゆすぶった。私が夢でもみているのかというふうに――。
 私は震えながら涙を流していた。
「越智は、越智はどうなのだ」
 それは私がききたいのだ。越智と私がふたりだけで話したこともないとわかると、雨宮はすっかり安心した。
「会社の事務員にも、越智のファンが何人もいるらしいよ。あんな男のどこがいいんだろう。女たらしってああいうのをいうのかな」
瀬戸内晴美『花芯』より。以下同)

 あれは夢だったのだろうか。
 アルコールの後の二度寝。秋の澄んだ夜気は明け方の肌寒さを予感させるものの、慌ただしく済ませたシャワーの火照りで、体はけだるく蒸し暑さを感じている。遠浅の海のように、なかなか深い眠りに至らぬまどろみの中、私は目を閉じたまま、ぼんやりと猫たちの気配を感じていた。
 ダメがいる。私の枕の右側の定位置に。
 誰かが掛け布団の上に飛び乗った。あれはアタゴロウだ。いつものように、私の脚の間に陣取って、体を舐め始める。
 そして。
 もう一匹、猫が来た。
(玉音ちゃん…?)
 そう。玉ちゃんだ。
(珍しいな。)
 玉音は通常、私と一緒には寝ない。起床時には布団の周りにいるが、就寝時には、たいていリビングの片隅か、押入れの中にいる。寝る時はいつもひとりなのだ。
 その玉音が自分から私の布団に乗り、眠る私の様子を窺いながら、そっと私の右側を、頭の方へ向って進む。そして――
(…え。)
 座ったのだ。私の枕のすぐ横に。ダメの大きな体と枕の間に無理矢理潜りこむようにして、玉音は枕の下に半ば埋もれながら、顔を上げて私の方をじっと見つめた。
 猫は飼い主に対する信頼度が高いほど、頭の近くに寝るという。
 まさか玉音ちゃんが。それも、ダメを押しのけて。
 これは夢だ。夢に違いない。
 押しのけられたダメは、私の胸の横に移動し、掛け布団の上の私の腕を舐め始めた。ひとしきり、別の場所を探すかのようにもぞもぞしていたが、やがて諦めたように、玉音の隣、私の枕から猫の体一つ分離れた場所に戻った。私はそのまま、意識を失った。
  
  
 玉音の腹ハゲに気付いたのは、一年ほども前だろうか。
 もともと玉音は、始終ハゲを作っている猫だった。ふと気が付くと前脚の毛が、直径五ミリ程度だろうか、ごっそりと抜けて、ふかふかの毛皮に穴が開いている。最初に疑ったのは、夫であるアタゴロウのDV(要するに、ケンカ傷)であった。それから、カビ疑惑が持ち上がったのだが、培養検査を経て、その疑惑も否定された。
 そうこうしているうちに、これまでにない大きなハゲがお腹にできていたのである。
 昨年の八月二十七日の記事にそのことを書いているので、発症時期はほぼ間違いない。ただし、その後、九月十八日に「夫唱婦随」で病院に行った時の記事には腹ハゲの記述はないし、さらにその後、十二月十七日に玉音自身の予防接種のため通院した際にも、特に腹ハゲを診てもらった記憶も記録もない。その時点では、いったん、ハゲは解消していたのか。
 だが、いずれにしても、根本的解決には至らなかった。玉音のお腹は今もって皮膚のピンク色を垣間見せし、さらにこの頃は、それが内腿にまで広がっている。そのほかに、断続的ではあるが、前脚や後脚にも、時折、例の毛皮の穴ができているのである。
(なぜ、こんなことに…。) 
 ネットで情報を漁ってみた。人に訊いたり、もちろん、獣医さんにも相談した。
 それら情報を総合すると、猫のハゲは、ほとんどが「アレルギー」もしくは「ストレスによる過剰グルーミング」、あるいは、小さいものなら「ケンカ傷」のいずれからしい。獣医さんははじめからストレスではないかと言っていたが、私はどうにも納得がいかなかった。
 玉音はもともと、臆病な猫である。神経質と言えないこともない。だが、それは今に始まった話ではなく、むしろ、家の中でさえびくびくしていた彼女も、少しずつ環境に慣れ、室内でものんびりとくつろげるようになりつつあるのだ。家の環境自体も、別に、近所で工事の騒音がするとか、頻繁に人が訪ねてくるとか、彼女のストレスになるような変化が生じているわけではない。それなのに、なぜ今更…という感が否めないのである。
 むしろ、アレルギーではないのか。
 頭に浮かんだのは魚アレルギーである。そこで、フードを全て肉系に替えてみた。ついでに、たまたま友人からアレルギー対応のフードをもらったので、それも試してみた。
 だがどうやら、関係なかったらしい。
「アレルギーなら顔に出ますからね。お腹だったら、ストレスでしょう。」
 獣医さんには、再三、そう言われていたのだ。
「痒がってますか?」
「いいえ…。」
 では、やっぱりストレスなのか。
 ストレスでハゲると言っても、人間のような円形脱毛症とは違う。過剰グルーミングにより被毛を取り過ぎてしまう、ということなのだが。
「でも、そんなに始終グルーミングしているようにも見えないんですけどね。」
 言い終わって気が付いた。そもそも彼女は、ご飯時以外は、見えるところに居ること自体が少ないのである。これでは、過剰グルーミングしていたって、私が気付くわけがない。
 
 

 
 
 そんな玉音ちゃんであるが。
 それでも、彼女はこの一年の間に、劇的な進歩を見せているのだ。
 どうやら、ようやく野良の誇りを捨てて、飼い猫になる気になったらしい。
 私を見ても、反射的に逃げることはなくなった。逃げるべきか逃げざるべきか、数秒考えてから行動するようになったのである。
 そして。
 そう。冷静に考えていただければ、たいていの場合は、逃げる必要なんてないのである。私が彼女に接近するのは、「ご飯をあげるとき」と「撫でるとき」と「たまたま通りかかったとき」だけなのだから。
 おそらく、彼女にとって思案のしどころとなるのは、このうち「撫でるとき」であろうが、あろうことか彼女は、撫でられること自体が好きになったようなのである。
 いや、この言い方には語弊があるかもしれない。彼女はもとより、撫でられることが嫌いではなかった。ただ、撫でるために私が接近してくるのが怖かったのである。だから、後ろから手を近付ければ背中やお尻は撫でさせたし、一度手を触れてしまえば、撫でる範囲を広げても、別段、抵抗もしなかった。あるいは、遠くから手を伸ばして触る分には、別に不満も述べなかった。
 それを敢えて、好きになったようだ、と言うのは、時折、自分からそれを望んでいるのではないか、と思わせる行動が増えてきた、という意味である。
 これもまた誤解を招きやすいが、彼女はもとより、撫でられることより「腰パン」好きである。同じスキンシップでも、「腰パン」なら以前から要求されていた。
 決まって私がお風呂に入る前、洗面所で歯を磨いていると、「時間ですけど…」と言わんばかりに、何かを期待するまなざしで覗きに来る。早く寝たい時などは内心甚だ迷惑なのだが、せっかく甘えに来てくれたものをそう無下にもできない、ということで、これまでも時間のある限りは付き合ってやっていた。
 それがこの頃は、腹ハゲに絡むストレス疑惑があるから、どんなに眠くても、断れなくなってしまったものである。ストレスの原因が特定されていない以上、「引っ込み思案で甘え下手な玉音ちゃん」の、勇を鼓しての甘え行動を無視するなんて、飼い主として失格だ、という謎の強迫観念のようなものが生じてしまったのだ。
 何だか、玉音ちゃんにいいように振り回されているなあ、と思う。まあ、それは、私が彼女にメロメロだから仕方がないのだが、彼女の方も、むしろ悪気がない分、そこそこ悪いオンナであるような気がする。
 だが、良くも悪くも、こうして甘やかしていると、彼女の方もさらに甘える勇気を持ち始める。(調子に乗るとも言う。)
 結果。
「要求」の場面が、もう一つ出来た。
 起床時の布団の上である。
 ここも、もとより、数少ない「玉音ちゃんが平気で私に寄ってくる場所」である。と言っても、元は単に布団の上に乗ったり、時には、掛け布団越しに私の体の上に乗ったりするだけだった。それがこの頃は、私の至近距離にうずくまって背中を出し、私の方をちらちらと振り返っては視線を送ってみたりするのである。
 どう見ても「撫でろ」と言われているようにしか見えない。
 事実、手を出して撫でてやると、全く逃げるようなこともなく、そのまま撫でられているのである。嬉しいには違いないが、これのお陰で、私は朝食を食べ損ね、パンを引っ掴んで出勤することも、あったりするのだ。
 夜中に「お尻を叩いて」と要求されたり。
 朝は朝で、ベッドに引きとめられたり。
(この娘っ子は、実はヤバい女なんじゃなかろうか…。)
 いずれも、わざとではない。だがこの場合、むしろ彼女自身にその自覚が全くない辺りが、“本物”なのである。
 
 

 
 
 ところで、その間、他の二匹はどうしているのかと言うと。
 ダメちゃんは一緒に布団の上にいる。彼は基本的に、私を起こして朝飯を出させるのが最終目的なのであるが、玉音がそうして甘えていると、やきもちを焼くのか、時折、玉音を追い払うように間に割り込んで、これ見よがしに背中を差し出す。私がその背中を撫でると、大きな音でゴロゴロ喉を鳴らす。押しのけられた玉音は、私から一歩離れたところに留まって、今度はダメの頭の匂いを嗅いだりする。
 シャッターチャンス!と、私はすかさずスマホを拾い上げる。
 何しろ、相手が誰であれ、玉音ちゃんともう一匹とのツーショット写真を撮れる機会は、なかなかないのだから。
 そうして撮った写真のうちの一枚がこれ。
 
 

  
 
 この写真を、猫好きの先輩にLINEで送ったら、
「可愛いー」
 と、返事が返って来た。続けて、
「仲良しって感じ」
 うーん。
 いや、偶然並んだだけだと思うんだけどな。だいいち、玉音の夫はアタゴロウだし。
 あれ…。
 そういえば、アタゴロウは?
 そういえば、玉音が甘え始めたのに反比例するように、最近、アタゴロウは、起床時間帯に私の布団に来ることがなくなった。就寝時には必ず掛け布団に乗ってきて、私の脚の間で寝るのに――。
 
 
 六月三十日。
 アタゴロウの予防接種の際に、玉音も一緒に連れて行った。そして、一年越しの腹ハゲを、実際に先生に診てもらった。
「ああ、これはストレスですね。」
 先生は断言した。
「ほら、短い毛が残ってるでしょ。それに場所が、自分で舐められるところだけですよね。明らかにグルーミングのし過ぎです。」
「でも、ストレスの原因が、特にないんですけど。」
 私は弱々しくも、必死の抵抗を試みる。
「むしろこの頃は、凄く懐いてきているんです。部屋の中でも、最近はずいぶんくつろげるようになって。猫同士も、別にトラブルはないですし。」
「まあ、ね…。」
 私の反論に、先生と助手さんは、顔を見合わせ、意味ありげに笑った。
「いろいろあるんですよ、猫の世界にも。」
 
 
 雨宮は漸く私に暴力を振るうようになった。暴力で私を犯すことの浅ましさが、雨宮の自尊心を傷つけた。持ってゆきばのない鬱憤を、所かまわず擲(なぐ)りつけてまぎらわした。そうした後、傷だらけになった私をかき抱いて、雨宮は男泣きに泣いた。
「園子、どうしたんだ園子、そのこう・・・・・」

 
 

(イケメンじじい=女たらし)
 
 
 深夜三時。
 玉音に自分の場所を取られ、私の腕を舐めていたダメ。
 あれは、私に何かを訴えていたのか。玉音を追い払え、とでも?
 だが結局、彼は私の胸の横を離れ、玉音の隣に落ち着いた。彼の巨体と、私に対する強い執着と、そのボス猫、もしくは私のナンバーワンキャットとしての揺るぎない自信は、その気になれば、自ら彼女を追い払うに一瞬の躊躇も必要としないはずなのに。なぜ彼は、自分の特等席を玉音に譲ったのか。
 もしかしたら。
 そう、もしかしたら。
 彼が元の位置に戻ったのは、私に二番目に近い位置を確保したのではなく、玉音の隣に戻ったということなのかもしれない。玉音は玉音で、ダメと枕の間に潜りこんだのは、私の隣に来ようとしたのではなく、私とダメを引き離し、自分がダメの隣で寝たかったということなのかもしれない。
 となると。
 ダメが私の腕を舐めにきたのは、単なる「お世辞」だったのか。
 俺は玉音と寝るから、あんたはひとりでイイコにしてな、という――。
 だが。
 それは駄目だ。断じて、駄目だ。
 だって玉音ちゃん、あなたはアタゴロウの妻でしょう。
 親が勝手に決めた結婚とはいえ、彼は優しくて、優秀で、あなたにとっては幼馴染でもある、申し分のない夫じゃないの。彼のDV疑惑だって、もうとっくに晴れているのだし。だいいち、ダメおじさんは、そんなあなたの夫の上司じゃないの。
 ダメちゃん、あんただって、いい歳して人妻を誘惑なんて、してるんじゃないよ。この女たらしが。
 今なら私にも、北林未亡人の気持ちが分かるような気がする。
 ダメは私のもの。でも、玉音ちゃんのことも、可愛くて仕方がない。
 そして、可哀想なアタゴロウ。愛しいアタゴロウ。キミはいじらしいオトコだ。
 
 
 ――あ。
 もしかして。
 玉音ちゃんのストレスって…。
  
 
 たそがれの光は、もう夜の灯に変っていた。私は無意識に微笑んでいた。
「きみほどの女は、しらない。」
 男は低い声で、ひとりごとのようにつぶやいた。
「私は世界もずいぶん歩き、さまざまな女をしっているつもりだ……。しかし、きみほどの女はしらない」
 男は繰りかえしていった。大きな掌が言葉の伴奏のように、私を愛撫した。「きみのこんな女らしさ、女の完璧さは、私のように、人生のほとんど終りに近づいた者の目には、怪しくみえるより、痛々しい……。きみはおそらく、きみの恵まれた稀有な官能に、身を滅ぼされるよ。それが私には見える。それだけに、きみがいじらしくてどうしてあげてよいかわからないのだ」
 老いた男は、もう一度私を、それ以上優しく扱えまいといったふうに抱きよせた。私の胸に、柔かな白髪の頭をうずめ、うわごとのように囁いた。かすかな、気配ほどのひくい声であったけれど、私は聴いてしまった。
「かんぺきな……しょうふ……」
 いきなり、全身の皮膚をはぎとられる、痛みと寒さが、私を襲った。
 

 
 猫の場合、「全身の皮膚」は、「全身の被毛」、だろうか。
 
 
 おい、ダメじいさん。
 あのときキミは、玉音ちゃんの脇腹にくっついて、一体何を囁いていたんだ!?