そして彼女は途方に暮れる

 

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写真はイメージです。本文とは関係ありません。

 女は小さくため息をつくと、ひとくちだけ口を付けた飲み物を、脇へ押しやった。

 雨の夕暮れ時。雑居ビルの中にしつらえられた、小さなカフェーの一角である。

(どうしてわたしは、ここにいるのだろう。)

 六月の日暮れは遅い。だが、雨雲に閉ざされた窓の外は、まるで初冬のような薄暗さだった。

 女はテーブルの上に置いた自分の手に目を落とした。マニキュアの剥がれを、反対の手の爪で軽く押し戻す。塗り直さなければならない。だが、まだ、家に帰る気にはなれなかった。

 女は一人暮らしだった。散らかった家の中に、彼女を待つ者は誰もいない。

 彼女の愛した男は、一年前にこの世を去っていた。長い闘病の果ての別れだった。彼女は働いて家計を支えながら、昼も夜も、ただ彼のために尽くしたのだ。自身の身のまわりを顧みることもせず。

 潤沢だと思っていた貯えは、いつのまにか底をついていた。看護に明け暮れる日々の中で、友はひとり、ふたりと去って行った。ようやく弔いが済んで、方々への挨拶やら支払いやらが一段落したところで、女は愕然とした。がらんとした部屋の中で、彼女は一人だった。あの苦しい、だが甘美な時間が過ぎた後、彼女には何も残っていなかったのだ。

 カツカツカツ、と、雨粒が窓ガラスを叩く音がする。

 店の中には、彼女のほかに二、三人の客しかいなかった。周辺のビルで働く人々は、すでに満員電車にゆられ家路を急ぐ頃だ。この時間にここにいる人たちはみな、自分と同じような独り者なのだろうか、と、女はぼんやりと考えた。このひとたちには、家で自分の帰りを待つ者はいないのだろうか。あるいは、彼等はむしろ、この店の中に自分の居場所を見出しているのか。

 女は見るともなしに店の中を見渡した。悪い店じゃない。彼女は胸の中でひとりごちた。簡素だがこざっぱりと整えられた内装。店員たちはおおむね愛想がよく、それでいて口数は多くない。盛りを過ぎた女が、ひとりきりで物想いに耽っていても、誰にも何とも思われない場所。慌ただしい都会の雑踏の中で、そこだけが時間に忘れ去られた、淀みの中の小さな島。

(今、わたしがここにいることを知ったら、彼はどう思うかしら。)

 亡くなった男は、名門の出だった。陽気で気さくで、甘え上手な三男坊は、その出自に似ず、何事にも無邪気に関心を寄せる男であったが、その彼が唯一、こだわりを見せたのが食事だった。出来合いの安い総菜や、怪しげな添加物の入った料理を、彼はあからさまに嫌悪した。だからこそ彼女は、どんなに疲れていても、彼のために、毎食きちんと手をかけた食事を用意していたのだ。一方、この店に、そうした手づくりのメニューがないことは明らかだった。

 だが、もう、彼はいない。

 わたしは自由なのだ。女は小さく声に出してつぶやいた。もう、何でも自分の好きなようにやっていい。夜遅くまで酒場でふざけていてもいいし、旅行にだって行ける。仕事の後、好きな映画を観て帰ったっていいのだ。彼には充分尽くした。もう、これからは、自分のためだけに生きるのだ。

 それなのに――。

 何故、わたしはここにいるのだろう。

 女はふたたびため息をついて、腕時計を見た。もう帰ろうか。いや、もう少し。まだ雨音が聞こえている。

 ガチャン、と、何かが壊れる音がした。ほんの少しのざわめき。慌てた様子もなく、客に非礼を詫びる低い声。

 ありきたりな初夏の夕暮れだった。雨はいつ小降りになるだろう。ひっきりなしに窓ガラスを流れ続ける冷たいしずくを眺めながら、女は誰もいない我が家を思った。

 

 

 苛立ちを抑えながらフロアを足早に横切ろうとしていた男は、窓際の席に目をやって、ふと足を止めた。

(また、来ている。)

 ここ二ヶ月ほどだろうか。最近になって頻繁に見かけるようになった女だった。いつもああして、何をするでもなく、陰気な表情で窓を眺めている。

 若くはない。だが子供のいる様子でもない。服装は垢抜けていて、いかにも仕事をしている女という印象である。だが、それ以上のことは、その固い表情からは読み取ることができなかった。

 この時間にいつも一人ということは、仕事帰りに一息入れに来ている、といったところだろうか。

 だが、男の目には、彼女はむしろ、ここで誰かを待っているように見えた。それも、来るか来ないか分からない、あてのない約束の相手を。

(分からない、都会の女は。)

 彼は頭をふって再び歩き出した。客のいる空間を抜け、彼ら従業員のために衝立で仕切られた休憩場所に入る。ワイシャツの前を開けると、窓からの光を頼りに、鎖骨の上の切り傷を治療しにかかった。

(全く、どいつもこいつも。面倒ばかり起こしやがって。)

 内心で悪態をつきながら、傷口に滲んだ血を拭きとり、ワイシャツの裂け目が分からないよう、襟を押さえながら身頃を整える。

「兄貴。」

 顔を上げると、心配そうな目が、衝立の向こうから彼の方を覗きこんでいた。

「ああ、何だ、お前か。」

「ご迷惑かけて申し訳ないです。怪我までさせちまって。」

 男は蝶ネクタイを結び直しながら、ぶっきらぼうに答えた。

「こんなのはかすり傷だ。気にするな。それより、マダムに謝ったか。」

「はい。」

 若い同僚は、殊勝な面持ちで頷いた。

「あまり面倒ばかり起こすと、お前、しまいには馘になるぞ。そうしたらお前、行くところがあるのか。」

「いいや――すみませんです。」

「俺に謝ることはない。それより店に戻れ。ちゃんと片付けとけよ。」

「はい。」

 若者の顔が衝立から消えると、男は立ち上がり、小さなテーブルの上の水差しから、コップに水を汲んでひといきに飲み干した。怒りは消え、ただ漠然とした虚しさだけが残っていた。

(しまいには馘になるぞ、か。)

 それはむしろ、彼自身に対して言うべき言葉だった。

「ここはね、あなたみたいな男が、いつまでもいる場所じゃないのよ。ここにいる間に、ちゃんと一生食べていける仕事場を探して、早く一人立ちするのよ。」

 店に初めて出た日、マダムはそう言った。だが、彼は未だにその約束を果たしていない。彼がここに来てもう一年半になるが、マダムの言う「一生食べていける仕事場」が、見つかるあては、今のところ全くなかった。

 仕方ないじゃないか。男は自嘲気味に自身に反論した。俺には、鳥やけものをとるよりほかに、何の能もない。若くもないし、愛想もない。そんな男を欲しがる雇い主がいるか。

 男は、日に一度しか船の通わない、都会から遠く離れた小さな島で生まれた。平穏で幸せな子供時代、だが、彼は学校に通ったことがない。戸籍もない。彼の一族は、山の中に隠れ住む密猟者の家系だからだ。

 彼等の祖先は、島の開発の際に連れて来られた名もない労働者たちだという。事業が終わり、多くの労働者たちが都会に戻る中、そのうちの何名かが「脱走」して山の中に潜伏した。彼等はそのままそこに棲みつき、里の人々の暮らしとは一線を画したまま、密猟で生計を立てるようになった。

 島民たちはもちろん、この密猟者の存在を知っていた。だが、彼等が島の開発に力を尽くした功労者だという恩義もあってのことだろう、彼等の行為は黙認された。人々に危害を加えたり作物や家畜を奪ったりしない限り、里人は彼等の共存を許し、いつしか「山の中の密猟者」は、島民の間では、あたかも大昔からそこにいたかのような、当たり前に見過ごされる存在となっていた。

 転機は、男が大人になり、すでに中年にさしかかったころに訪れた。当局が密猟者の摘発に乗り出したのだ。島の野生動物を保護するため、というのが、その名目であった。

 密猟者たちにとってみれば、晴天の霹靂であった。反論する間もなく何名かの仲間が捕らえられ、そのまま本土に連行された。男もそのひとりだったのである。

 彼等を島から連れ出すのは、処罰するためではなく、密猟をしなくても生きていけるよう、教育と仕事を与えるためだ――彼等を捕らえた人たちは、怒り狂う密猟者たちにそう説明した。教育と仕事。男はその言葉を噛みしめた。だが、この歳になって、それが何になろう。違う生き方など、いまさら出来るはずもない。しかし、いずれにしても、彼等にはもはや、他に生きのびる手段はないのだ。彼は悄然として船に乗った。もう二度と戻ることのない、彼の楽園に別れを告げて。

 都会に着いた彼は、紹介されるままに、小さなカフェーの住み込み店員になった。

 カフェーのマダムは篤志家ともいうべき人で、彼のような男女を何人も雇い入れていた。ほとんどが彼と同様、教育を受けておらず、都会で暮らすための常識も身につけていない、無頼の者たちだった。当然、仲間内――特に若い者同士――には、小さな喧嘩が多発する。いつしか彼は、こうした喧嘩の仲裁役として、ひとかどの役割を担うようになっていた。

 そんな彼を慕う若者たちは、早々に都会で生きる社交術を身に付け、カフェーの客に気に入られては、次々と店を辞めていく。マダムの思惑のとおりに。

 だが、彼自身は――。

「あなたがいてくれるから、実際、助かるわ。」

 マダムはそう言って評価してくれるが、その瞳の奥に困惑の影が走るのを、彼は見逃さない。だけどあなたは、いつまでもここにいるべきではない、マダムの目はそう言っている。彼が本来、カフェーの店員には不向きであることは、誰も目にも明らかだった。彼のような男こそ、早く自分に合った働き口を見つけて去っていくべきなのだ。マダムがそう考えていることは、言われなくても分かっている。

 それに、彼自身、この生活に疲れてきた。

 マダムに対する恩義から、喧嘩の仲裁役を自ら担ってきたが、それはやはり、基本的に損な役回りである。彼自身が巻き込まれ、恨みを買うこともある。理不尽な言いがかりを付けられることもある。その都度、腹立ちを抑えてやり過ごしてはいるが、どうにも怒りを抑えきれずに、自身が手を上げてしまうこともある。今日も仲裁に入ったつもりが、つい、売り言葉に買い言葉となって、激昂した相手に物を投げつけられた。

 彼はコップを置くと、投げやりな表情で、雨の降りしきる窓の外を見やった。

 いつまで、この生活が続くのだろう。いや、続けられるのだろう。

 

 

「兄貴。」

 呼ばれて我に返ると、先刻の若者が、いつの間にか衝立の中に入ってきていた。

「何だ。まだいたのか。」

 若者は思い詰めた目をして、男をじっと見ている。

「何だよ。」

「兄貴。おれ、兄貴に――」

 男は軽くいなすように、若者の言葉を遮った。

「おいおい、気にするなって言っただろ。あまりしつこいと、殴るぞ。」

 冗談めかして、若者の脇腹を軽く小突いたが、若者は固い表情を崩さなかった。

「違うんです。俺、兄貴に、訊きたいことがあって。」

 男はちょっと眉を上げ、訝しげに若者を眺めた。それを見て、若者はしばし、言葉を探すように唇を舐めていたが、やがて堰を切ったように、早口に喋り始めた。

「兄貴、兄貴は何だって、いつもそんなに我慢してられるんです?あいつ兄貴に、あんな生意気な口叩いて、皿まで投げやがって。俺、我慢できねえ。一発殴ったくらいじゃ、治まらねえですよ。叩きのめして喉笛に噛みついてやる。」

「馬鹿なことを言うな。」

 若者はさらに頬を上気させてまくし立てた。

「何でですか。兄貴はいつも、なんでも我慢し過ぎじゃないですか。俺は腹が立って見てられねえ。だいいち、兄貴は、こんなところにいるようなひとじゃねえですよ。そりゃ、マダムはいい人だけど、客の中には俺たちを畜生以下に扱う連中もいる。兄貴、口惜しくないんですか。やってらんねえですよ、こんな仕事。俺たちみたいな男がする仕事じゃない。」

 男はふっと短く笑った。あまりに舌足らずで混乱した怒りとはいえ、若者の気持ちは痛いほど理解できた。その真っ直ぐな純真さが愛おしかった。

 若者の目から、どっと涙が溢れた。

「兄貴は島の出でしょ。こんな酷い目に遭って、どうして平気でいられるんです?無理矢理こんなところに連れて来られて。俺は島に帰りてえ。島に帰って、また、鳥を獲って暮らしてえ。島の仲間たちに会いたいよ。」

 男は微笑んで、ちょっと荒っぽいほどの無頓着さで、若者の背中を撫でた。若者は洟をすすって、嗚咽を押し殺した。

「何でそうやって、笑ってられるんですか、兄貴――。」

 沈黙が流れた。ほんの一呼吸ほどの間、男の目は空間を彷徨った。まるで、遠い故郷の幻影の中に、その答えを求めているかのように。

「過ぎたことだからさ。」

 やがて男は、低い声で言った。

「過ぎたことを言ってみても始まらねえ。終わったことは終わったことだ。先のことは、先のことだ。俺には、今しかねえ。」

 若者は息を殺して、このいかつい中年男の、短いモノローグを聞いていた。男はニヤリと笑うと、傍らにあったナプキンを掴んで、若者の顔を乱暴に拭った。

 

 

 嗚咽の音を、聞いたような気がした。

(誰か泣いてる?)

 女は耳をそばだてた。女の席から少し離れたところに、「PRIVATE」という札の掛かった衝立がある。声はその中から聞こえてくるようだった。

 二人の男が話している。一人は若者で、もう一人はもっと年配の男――多分、ここの古参らしい、あの強面の中年男だ。無口で、あまり愛想のない。

 ぼそぼそとした話し声から会話の内容は聞き取れなかった。やがて、声は止んだ。ややあって、中年男の低い声が、今度ははっきりと聞き取れた。

「終わったことは終わったことだ。先のことは、先のことだ。俺には、今しかねえ。」

 ――終わったことは、終わったことだ。

 はっと胸を衝かれた。その言葉に、女の心は締めつけられた。彼女は一年前のあの日――彼女の愛する人がこの世を旅立った、あの日を思った。そう。終わったことなのだ。あのひとはもういない。もう全ては、終わってしまったことなのだ。

 あのひとは逝ってしまった。輝かしい愛の思い出と、そして、かけがえのない二人の未来を道連れにして。

(わたしも同じだ。わたしにも、今しかない。)

 過去も未来もない。今だけを生きることで、人は強くなれるのだろうか。

 微かに物音がして、衝立の陰から若い男が出てきた。きゅっと唇を引き結び、頬には良く見ると泣いた跡がある。ややあって、もう一人の男も出てきた。たった今、あの一言を言い放った男だ。女は思わず、彼の顔を凝視していた。

 男が女の視線に気付いた。男が彼女を見る。二人の視線が初めて交差した。

「あの…」

 つい声に出してしまったものの、彼女は言葉に詰まった。話すべきことを何も用意していなかったからだ。男は足を止め、沈黙したまま目で続きを促した。

 そのとき、女の視界の端を何かが掠めた。何か赤いもの。それも、どきりとするほど、鮮烈に赤いもの――。

「あ…。」

 女の目の動きに気付いた男は、その視線を追って、自らの肩口を顧みた。白いワイシャツの肩に、ごく小さな、だがはっきりとした輪郭を描く染みがある。それは血だった。彼は自身の耳に手をやった。切れている。鈍い痛みがあった。気付かぬうちに、破片が耳朶を傷つけていたのだろう。ゆっくりと滴り落ちた血が、ワイシャツの肩にまるい染みを作っていた。

「すみません。」

 男はそれだけ言うと、踵を返して衝立の後ろに戻ろうとした。

 女は思わず立ち上がった。

「待って。」

 女の指が男の肘に触れる。男の体がピクリと動いた。女はハンドバッグからハンカチを取り出すと、黙ってワイシャツの染みを押さえ、続けて耳朶の傷にそっと触れた。

「いや大丈夫です。失礼しました。」

 男は顔を背けてその場を立ち去ろうとしたが、一瞬早く、女の手がその動きを制した。男の目が訝しげに女のそれを捉える。女はじっと、その瞳を見つめ返した。

 何と美しい瞳だろう、と、彼女は思った。怪訝そうにすがめたその瞼の奥には、彼女がこれまで見たこともないような、えもいわれぬ澄んだ瞳の輝きがあった。それは、褐色と言うより深い緑色を秘めた、神秘のものがたりを沈める湖の色だった。まるで深い森のように、自然の厳しさと優しさを湛えた、その静寂の奥へと人を誘う輝きだった。 

 先に目を背けたのは、男の方だった。

 男は触れられることにも、見つめられることにも慣れていなかった。女の指が触れた肘先と耳朶とに残る、こそばゆいような感覚が、男をひどく居心地悪くさせた。あけすけなほど無心に自分を見つめてくる女の眼差しに、男はたじろいだ。だが同時に、驚嘆もしていた。それほどまでに、彼女の瞳は雄弁だった。人を捉えて離さない真っ直ぐな視線は、今にも彼女のこれまでの人生の全てを語り出すかのようだった。

 これがあの、陰気で無表情な女だろうか、と、彼は思った。彼女の周囲を覆っていた透明な殻は破られ、その全身に生き生きとした血が流れているのが、はじめて見てとれた。彼女の指先のあたたかさは、その人柄のあたたかさと、そして、彼女が生来持っている情愛の深さを示していた。だがそれらは男にとって、素直に受け止めるには、あまりにも馴染みのないものだった。

「失礼しました。」

 もう一度言いおいて、彼は本当に立ち去ろうとした。女の手から自らの体を引き剥がすかのように、一歩、二歩、後ずさった男は、その瞬間、女の眼差しが不安気に揺れるのを見た。その頼りない、今にも泣き出しそうな表情は、ほとんど童女のそれであった。

「待って。」

 女ももう一度、同じ言葉を繰り返した。男の動きが止まる。そのがっしりとした首筋に、女は無意識のうちに白い腕を投げかけていた。

「お願い。そばにいて。」

 男は首を捩って、自らの肩の上に置かれた細く長い腕を見た。その腕からなだらかにつながる、女の薄い肩を見た。女はうつむいていた。うつむいたまま、彼女の震える唇は、次の言葉を探して彷徨っていた。

「わたしは、ひとりぼっちなの。」

 男はふっと短く息を漏らした。顔を上げた女の目に、自らを見下ろす男の瞳が映った。男は微笑んでいた。まるで聞き分けのない若い同僚をたしなめるときのような、優しさと、少しの分別臭さを含んだ、大人の男の微笑みだった。

 彼女は、男の低い声が、ゆっくりと自分に囁きかけるのを聞いた。

「こんな男で、いいのか。」

 返事の代わりに、彼女は男の肩に顔を埋めた。それは彼女自身がいちばん訊きたいことだった。何故。何故なのだろう。何故、この男なのだろう。亡くなったひととは余りにも違いすぎる。彼女はこの男のことを何も知らない。そして、二人の間には、何の共通点もない。出自も、生い立ちも、生きる世界も。ただ孤独と、そして、陽射しに彩られる明るい未来への、ほとんど祈りにも似た強い希求のほかには――。

「ねえ、」ため息まじりに、女は囁き返した。「あなたの名前を教えて。」

「名前か。――いや、俺に名前なんて言えるほどのものはない。何でもいいよ。あんたの好きなように呼べばいい。」

「わたしの好きなように…。」

 女は目を閉じた。そう。男の言うとおりだ。言葉を介さず語り合おうとする自分たちの間に、名前など不要だ。そこは一人称と二人称の世界であって、世間に言う名前などというものは、ここではただの記号に過ぎない。そのとき、彼女は突然理解した。そう、それが理由なのだ。自分が他の誰でもなく、この男を必要とすることの――。

 この男は、わたしの全てなのだ。過去も未来もない、「今」という時間しか持たないわたしの。そして同じように、わたしはこの男の全てなのだ。ただひたすら、今だけを見つめて生きる、この孤独な男の――。

 雨の音が聞こえる。

 女は目を開いた。男の唇が、微笑みながら彼女に問いかけた。

「それで、あんたは? あんたの名は、何と言うんだ。」

「わたしは――。わたしは、そう、さくらよ。さくらと呼ばれているの。」

「いい名前だ。」

 女は笑った。男はそれ以上尋ねなかった。女は果樹園の広がる故郷で、さくらと共に過ごした少女時代を思った。木登りの上手だったさくら。我儘で、気まぐれで、無愛想で、だがどうにも憎めない、彼女の愛したさくらの白い横顔を思った。

 

 

  と、いうわけで――。

 

  

 友人さくら宅に、新猫が来た。

 

 

 この男である。 

 

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 そして彼女は途方に暮れる――。

 

To be continued)

   

 

 

 

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「あまりにもキャラがこっぱずかし過ぎる!」と、本人は激おこだけどね。