アタオとチャトレット
その後の茶トラくんであるが。
七日目の今日も、ケージに絶賛引きこもり中である。
ケージの覆いは、いったんフルクローズに戻した。何しろ、ガチの引きこもり青年である。一部でもオープンすると、布で隠れていない部分には近付こうとしないのだ。
我が家のケージは、三段ケージの棚板を増やして、四階建てにしてある。間取りは下記のとおり。
上から、
四階:サンルーム
三階:ベッドルーム
二階:リビングダイニング
一階:ユーティリティ(レストルーム・ネイルサロン・一杯飲み屋)
となっている。
前回の記事の時点では、一階と二階をオープンにしたのだが、そうしたら、三階から降りてこなくなってしまった。三階と四階は行き来しているのだが、それより下には頑として降りようとしない。
そうなると、二階のダイニングに置いたドライフードは食べないし、何より困ったのが、一階に降りないため、トイレに行かない・水も飲まないという状況になってしまったことである。
さすがにまずいと思い、やむを得ず再びクローズした。
だが、そうは言っても、いつまでも覆いの中というわけにもいくまい。今は様子を見ながら、少しずつ布に隙間を作り、彼が隠れつつも外の世界を覗けるよう、方法を試行錯誤しているところである。
以下は、この一週間の、彼の歩みである。
一日目。ちゅーるを皿に出しておいたら、夜、私の見ていない間に食べる。二本完食。ドライフードも少し食べた模様。トイレは使用せず。
二日目昼。正午頃、トイレ初使用。大のみ。このとき水を飲んでいる音もした。
二日目夜。半日完全に放置して(覗き見もしないで)、夜七時頃、ちゅーると黒缶を盛り合わせにして出す。ちゅーるだけ食べた。黒缶は食べない。ドライフードを二階に置くが食べない。ただし、ちゅーるは、私の見ている前で舐めたので、多少は余裕が出てきたらしい。
深夜十一時頃、初オシッコ。このとき、水も飲んだ様子である。
この初オシッコの後、ご飯もお水も、トイレも大小両方クリアしたことだし、じゃあ、そろそろ外を見せようかな、と思いついた。
このときは、布の下部(水を置いてある側)を、ほんの少し持ち上げて隙間を作ったのだが。
しばらく経って、ふと見ると、茶トラくんが一階に降りてきて、暗がりから様子を窺っているではないか。
彼も、そのときは少しばかり勢いがついていたのだろう。
ヨシヨシ。じゃあここで、アタ様とご対面を。
と、思ったらタイミング良く、「お呼びで」と言わんばかりにアタゴロウ登場。
ケージから五十センチくらいの位置で立ち止まるアタゴロウ。二匹はケージ越しにしばし見つめ合った。その間、一分足らずだろうか。
ほどなく、アタゴロウが唸りだしたので、
「はい、そこまで。」
布を留めていた洗濯バサミを外し、すとんと閉幕して、強制終了した。
茶トラくんは上階に戻り、アタゴロウもケージから離れて、その後は何事もなかったかのように、あっさりと初顔合わせは終わった。
ケージの布をハーフオープンにしたのは、翌朝、つまり三日目の朝である。
そうしたら。
降りてこなくなった。
結局、次にトイレを使ったのは三日目の夜、私が寝た後である。寝る前に布を下ろし、フルクローズにしておいたら、夜中にオシッコだけしてあった。どうやら、真っ暗、かつ、隠れた状態でないと、安心してトイレが使えないらしい。
翌日(四日目)は平日だったので、ケージの布をハーフオープンにして出勤した。
帰宅して確認すると、トイレの砂紋は朝のまま。二階に出しておいたドライフードにも、口をつけた様子がない。
冒頭に書いたとおり、どうやら、昼の間、一度も三階から降りてこなかったものと思われる。
布をフルクローズに戻したら、やはり、私が寝た後に、オシッコだけしてあった。ついでに、ドライフードの器も空になっていた。
五日目。
実家の用事で仕事は休み。覆いをフルクローズにして実家に行き、夕方、帰宅してからトイレを確認したが、成果物はなし。
ただし、砂に足跡がついている。
ミツコ先生に電話した。
「便秘みたいですけど、何日くらい様子見て大丈夫ですかね。」
糞詰まり三日目である。砂の上の足跡は、立って踏ん張った痕跡と見た。
「水も飲んでいるか微妙だし、放っておいて巨大結腸症にならないか、心配なんですけど。」
「まだ若いんでしょ。ウェットフード食べてるなら、もう少し様子見て大丈夫だと思いますよ。」
じゃあ、とりあえず週末まで様子を見るか、ということにした。
なお、ちなみにこの時点で、彼の食事は、メインが「黒缶のちゅーる和え」で、デザート及び間食がドライフードである。
果たして、その夜。
私の寝入りばなに、爆弾投下の音がした。さらに、爪を研いでいるらしい音も聞こえた。
(また、夜中か。)
常に私が寝てから活動する。結局のところ、彼は、夜の男なのだった。
その五日目の出来事で、特筆すべきこと。
ついに、アタゴロウと茶トラくんが、正式に対面した。
二匹の夕ご飯を済ませ、私が茶トラくんの水を替えようとしたときのことである。
先に説明しておくが、布ですっぽり覆われている茶トラくんのケージは、実は、前日から、扉を全て開放してある。一見、外界と遮断されてはいるが、出入りしようと思えば出来る状態なのである。
茶トラくんは、おそらく、新しい環境に少し慣れて、ケージの外の世界が気になり始めていたのだろう。私が布を持ち上げて水鉢を出そうとしていると、ふいに三階から二階に降り立ち、首を伸ばして周囲を見渡し始めた。
(お、進歩したな。)
内心ニンマリしながら、私がそっと見ていると。
アタゴロウが、現れた。
無言である。
アタゴロウは、ケージの扉が開いていることに気付くと、のっそりと足を踏み入れて、私が正に取り出そうとしている水鉢から、ぴちゃぴちゃと水を飲んだ。
茶トラくんが、アタゴロウを見る。
水を飲み終えたアタゴロウも、顔を上げて茶トラくんを見た。
そのまま。
二匹はじっと見つめ合っていた。アタゴロウは一階から、茶トラくんは二階から。
さながら、ロミオとジュリエットの「バルコニーの場」である。
お互い、ウーもシャーもなかった。ただただ、見つめ合っていた。
どのくらい、そうしていただろう。
やがて、アタゴロウがケージを出た。が、今度は離れたところから、じっと茶トラくんを観察している。茶トラくんは引き続き、二階からアタゴロウを凝視している。
こうして、遠くからしばし見つめ合った後、ようやくアタゴロウが歩み去り、二匹の長い対面は終わった。
その後、二匹は接触することなく一夜は空け、その間に、茶トラくんの便秘が解消したことは、既述のとおりである。
六日目は特筆することなく、本日、七日目。
以後、二匹の接触は見られないものの、アタゴロウは、新入りに興味があるらしい。
時折、布の下をくぐってケージに不法侵入を企てるようになった。と言っても、一階部分をぐるりと見て歩くだけで、二階以上には登らない辺りが、なかなか心得たところである。
凄いのは、それ以外は、彼が完全に平常運転なところである。
茶トラくんの方も、相変わらずの引きこもりで、彼は彼で、ある意味、平常運転と言えるかもしれない。
アタゴロウに対しては、拒否的な感情はなさそうだが、かといって、積極的に探している様子もない。それでいて、時々、ひとりぼっちが寂しいのかな?と思わせるときがある。
彼は果たして、アタゴロウと仲良くなりたいと思っているのだろうか。
カフェで相談したとき、茶トラくんの性格は
「人も猫も好き」
という触れこみであった。
他猫との関係については全く問題がない。むしろ、寂しがり屋さんであるらしい。
お迎えに行ったときは、朝から一匹だけでお店のケージに入れられていたらしく、
「出せ出せって言ってます。(笑)」
とのことであったが、それはもしかしたら、閉じ込められていることより、一人ぼっちにされていることが不満だったためかもしれない。
他の猫たちも、ケージの中の彼が気になるようだった。
病気でもないのにケージインしていることが、不可解だったのかもしれない。あるいは、大人の猫たちらしく、状況を察していたのか。
午前中から、次々に、いろいろな猫がケージに寄ってきていたという。
とはいえ、私たちが訪れた時は、その波も落ち着いた頃だったらしく、ケージ付近には一匹だけだった。ツヤピカの黒猫くんである。目の前のキャットタワーの上に座って、ケージの中の茶トラくんをじっと見つめている。
あまりにも微動だにせず凝視しているので、何だか可哀想な、申し訳ないような気分になった。
「猫山、あの子も連れて帰れば?」
さくらが無責任なことを言う。
さすがに二匹いっぺんに連れ帰る気はないものの、どうにも気になって、店長さんに尋ねてみた。
「あの黒猫ちゃんは、仲良しなんですか?」
だが別に、そういうわけでもないらしい。
そのうちに、出発の時間が迫ってきたこともあって、集まってくる他の猫に「お別れをさせる」ことになった。要するに、ケージの扉を開けて、一匹ずつ入れてやるのである。
茶トラくんも、朝から一人きりで寂しかったのかもしれない。何匹かの猫が順番にケージに入ったが、それぞれ挨拶するように戯れていた。中でも一匹、同じ茶トラ模様の、彼より一歳年下の男子猫が入ってくると、明らかに喜んで、体を擦りつけ合ったり、匂いを嗅ぎ合ったりしていた。
「やっぱり、茶トラ仲間がいいのかね。」
何だか嬉しそうだね、と、他のお客さんも微笑ましく眺めながら、写真を撮っていた。
そこへ、件の黒猫くんである。
ちょっと不器用な子なのか、ケージと天井の間に入り込んでしまったりなど、見当違いの場所をうろうろした挙句、ようやく店長さんに抱き上げられて、ケージの中に入れてもらった。
ところが、である。
茶トラくんは、彼を見ると、いきなり猫パンチを繰り出したのだ。
「え?」
「あらら、可哀想に。」
「酷いじゃない。優しくしてあげなよ。」
「一番心配してくれてたのに。」
ギャラリーからは非難の嵐であるが、茶トラくんは構わず、寄ってくる黒猫くんを追い払い、ケージから追い出そうとする。
別に、もとから仲が悪かったわけでもないようだが。
「やっぱり、茶トラ同士がいいのかねえ。」
先程の茶トラ仲間とは、あまりにも、対応が違い過ぎる。
やがて、ギャラリーから、茶トラくんの台詞のキャプションがついた。
「お前、茶トラじゃねえ、って。」
そこまで酷い塩対応をされたのはその黒猫くんだけだったが、他の猫に対しても、割合あっさりしたお別れであった。本気で別れを惜しんでいるように見えたのは、その茶トラ仲間だけであった。
残ったもう一匹の茶トラ猫の方は、元気いっぱいで遊び好きのタイプらしい。きっと、引き続きカフェのお客さんに遊んでもらいながら、他の猫たちと仲良く、楽しく暮らしてくれることと思う。
件の夜の、アタゴロウと新猫との邂逅の件を実家に知らせると、翌朝、姉からLINEが届いた。
「昨夜、挨拶を交わして、お近付きになったのかな。
『よろしくな。』『よろしくお願いします。』
てな感じで(笑)。」
まあ、ね。
私には、ただ見つめ合って、互いに値踏みしているようにしか見えなかったけど。
でも、姉の言うとおり、あれは猫同士、人間には分からない言葉を使って、会話をしていたのかもしれない。
大人の猫は、自らの置かれている境遇を理解するという。茶トラくんも、すでにこの家に来て五日である。自分が、これからここで生きていくんだな、ということは理解していたと思う。また、この家に、自分の他には、人間一人と猫一匹しかいないことも、認識していただろう。
たくさんの猫に囲まれていたカフェの環境から、他の猫が一匹しかいない家へ。ここでは相棒を選ぶ余地はない。今いるこのオジサン猫が、自分の運命の相手なのだ。
だが。
残念ながら、その猫は、茶トラではない。
あの夜。
バルコニーの上のチャトレットは、地上から見上げるアタオに対し、こんな台詞を投げかけていたのかもしれない。
「おお、黒白さん。なぜあなたは、黒白なんですか。」
ところで。
そんな感動的な運命の瞬間を捉えた写真が一枚もないのは、一体どういうことなんだ、って?
だって、仕方ないじゃない。
その間ずっと、私は二匹を代わる代わる横目で眺めながら、両手でケージの布を捧げ持っていたのだから。
舞台を支える裏方さんは、タイヘンなのである。