全田一姑の事件簿 vol.3「悪猫塔」

 

 
 
 お待たせしました。
 久々の全田一シリーズです。
(って、誰も待ってないか…)
 
 
 すごーく長くなってしまったので(でも、内容は皆無なので)、ヒマつぶししたい方だけお読みください。
  
 
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(中略)
 この屋敷に滞在するようになってから、全田一は悪夢に悩まされていた。奇妙な寝苦しさがあって、夜中に何度も目が覚めてしまう。そんなときはきまって、すぐ近くに、何者かの気配を感じる。耳元に息遣いさえ聞こえてくるように思えるのに、寝室の暗がりに目を凝らしても、室内に人影はない。
 一度、あまりの寝苦しさにベッドを降り、廊下に出ようとしてみたこともあった。が、足が床についたとたん、思わず声を上げてしまった。
 何か、生温かいものが足に触れたのだ。
 反射的に足をひっこめてから、身を乗り出して床をじっと眺めてみたが、床板の木目が、窓からほのかに射し込む庭園灯の薄明りにぼんやりと浮かび上がって見えるだけで、そこには何もなかった。
 これが、猫山夫人の言う「邪悪なもの」なのだろうか、と、全田一はぼんやりと考えた。猫山家に取り憑いているとされる怨霊……まさか。有り得ない。だが、まるで明晰な思考が見えない圧力に封じ込められてでもいるかのように、目は冴えているのに、考えはとりとめもなく広がるばかりで、他に何の説明も思いつかないのだった。
 この屋敷には何か邪悪なものが住んでいるのです、と、猫山夫人は、うつろな眼差しを窓に向けたまま、うわごとのようにつぶやいた。恐ろしいほどの悪意が渦巻いているのです。あたくしには分かります。あたくしを狙っているのです…。
 夫人の言動には、はじめから、明らかに常軌を逸したところがあった。突然、何かに追い立てられているかのようにせわしなく活動的になったかと思えば、次の瞬間には、ぐったりとクッションの上に体を投げ出したまま、食事にも手をつけないことがある。また、時には、人と会うのを極度に嫌がって、奥の部屋に閉じこもってしまったりする。
 最初に全田一が招かれた晩餐の席でも、夫人は、最初の皿を目にした途端に、理由も告げずに立って食堂を出て行ってしまった。そして、皆が食事を終えたころにふらりと戻ってきて、非礼を詫びるでもなく、今度はがつがつと貪るように、冷めた料理を食べ始めたのだった。
 彼女は何かにひどく怯えているようだ、と、全田一は直感した。それは、食後、夫人が人目をはばかるようにしてささやいた、次の言葉で確信に変わった。
「どうぞお帰りにならないで。ここに泊まってください。あたくしは一人なんです。」
 それは奇妙な言葉だった。猫山夫妻の仲睦まじさは、近在で誰一人知らない者がない。特に、当主の猫山大治郎は、歳の離れた後添いの妻を、それこそ舐めるように可愛がっているという評判だった。事実、家の中でも夫婦は常に寄り添い、静かに語り合ったり、子供のようにふざけ合っている姿さえ、全田一は目にしていた。
 夫人は一体、何に怯えているのだろうか、と、全田一は考えた。あたくしは一人なんです、という言葉が、何か引っ掛かる。一見幸せな家庭の中で、彼女は孤独を感じているのだろうか。彼女の夫は、その理由を知っているのか…。
 翌朝、散歩の途中で、全田一は猫山大治郎をつかまえた。医者から太り過ぎを指摘されている猫山は、毎朝日課として、屋敷の敷地内を散歩する。多忙を極める彼と二人きりで話ができる機会は、その時しかなかった。
 猫山屋敷の広大な敷地の東南の隅には、西洋風の古い塔がそびえている。西向きの壁に取り付けられた大時計はもう何年も前から止まったままで、すでに事実上、廃墟と言って良い。このため、危険を理由に、家人にも使用人にもこの塔には近付かないよう厳命してあるのだ、と、以前、全田一は、大治郎自身の口からから聞いたことがある。しかし、当の大治郎は、時折、こっそりとこの塔に昇って、母屋の方を眺めるのを密かな楽しみにしている、と、これも彼自身が、悪戯めいた微笑を浮かべながら、全田一に打ち明けたのだった。
 全田一が声を掛けたとき、猫山大治郎は、庭園内のベンチに座って小休止をとっているところであった。ここからは件の塔が、曇り空を背景にくっきりと浮かび上がって見える。
 とりとめもない朝の挨拶を交わした後、ところで奥様は何かを恐れておいでのようですが、と、全田一は単刀直入に切り出した。
「ああ。あれは、恐怖というより、被害妄想のようなものではないかと、私は考えているのですよ。」
 猫山大治郎は、不躾な質問に気を悪くした様子もなく、穏やかに応じた。
「あれを悩ませているのは、言ってみれば、先妻の亡霊です。イギリスの小説だかに、ありましたね。何しろ、もともとこの家には、幽霊屋敷の噂がありますからな、ここには前の妻の亡霊がいて、家の者を束縛していると。そのために、自分がよそ者扱いされていると感じる。一種の被害妄想ですよ。」
 猫山家の当主は、幾分、憐れむような微笑を浮かべつつ続けた。
「だが、それは被害妄想にすぎない。わたしはあれを、亡き妻と比べてみたことなど、一度もない。ただ、わたしには、前の妻の存在を、常に意識し続けなければならない、理由があるのです。」
 猫山大治郎は、言葉を切って全田一の方に顔を向けると、全田一の表情を窺うように、ゆっくりと言った。
「それはつまり、わたしが今の地位にあるのは、全て先妻の威光によるものだから、なのですよ。虎の威を借る狐なのです、わたしは。」
 全田一はようやく、股田日警部の話を思い出した。猫山大治郎は入り婿であった。慈善家でもあった先代が、孤児院にいた彼を見出して書生とし、やがて、一人娘とめあわせたのだ。その後、大治郎は正式に先代の養子となり、最初の妻が若くして世を去った後は、名実ともに猫山家の当主として、猫山カンパニーを統率している、ということだった。
「あなたが、虎の威を借る狐、とは、とても思えませんが…。」
「あなたにはお分かりにならないでしょうな。ですが、猫山一族、いや、猫山カンパニー全体を支える求心力とは、つまるところ、先祖の代から君臨してきた、猫山本家の血統に対する畏怖に過ぎない。彼等が暫定的にでもわたしをトップと認めるのは、わたしが亡き三冬の夫であるから、ただそれだけなのです。わたしが三冬を忘れたとなれば、必ずや誰かが、わたしをお払い箱にして、別の当主を立てようと言い始めるでしょう。そうなれば、猫山一族はバラバラになります。もともと、いがみ合っている人たちですから。」
 猫山大治郎は、ニヤリと笑った。
「実を言えば、養母もわたしと同じ立場なのです。巷では、母が亡き自分の娘を溺愛するあまり、嫁いびりをしているということになっているようですが、そもそも、猫山の親戚筋を説得してまで、わたしに再婚を勧めたのは母自身です。生まれた子に家督は譲らない、という一文まで入れてね。今の妻だって、母が探してきたのですよ。」
 大治郎は、そこでちょっと言葉を切った。
「それに、本当のことを言えば、あの人も、三冬の実の母親ではありません。だからこそ、事あるごとに三冬を立てるのです。それが他人には、嫁いびりというふうに映るのでしょう。要するに、今、この猫山屋敷には、猫山本家の血筋に連なる者は一人もいない。それがゆえに、全員が本家の亡霊に仕えている、というわけです。どうです、おかしいでしょう。」
 そう言って、猫山大治郎は自身がさも可笑しそうに笑った。全田一は不可解な思いに捉われた。猫山家の血統についての事情はさておくとして、夫人の病的な態度に対する大治郎の説明は、説得力に欠けるように思えた。彼の説明は、一応筋が通ってはいる。だが、夫人の言う「邪悪なもの」が、亡き先妻の亡霊であるとは、どうしても思えなかった。それよりは、言い伝えのとおり、猫山一族に滅ぼされた某家の怨霊に悩まされているのだという方が、よほど本当らしく思える。
「まあ、そうかもしれませんね。何しろ、あれは信じやすい女ですから。」
 猫山は、微笑とともにあっさりと認めた。巷間に囁かれる「幽霊屋敷」「呪われた家」といった不名誉な噂さえも、彼は全く意に介していない様子であった。
 だが、そこにも矛盾はある。仮に、夫人の恐怖の対象が本当にその怨霊だったとして、大治郎の話が事実なら、もうこの屋敷内に、猫山の血をひく者は存在しない。猫山の血は既に滅びているのだ。夫人がそれを知らないわけがない。彼女がもともと怨霊というものの存在を信じていたにしろ、いなかったにしろ、猫山の血とは全くつながりのない彼女が、かほどまでに、その影に怯える理由があるのか。
「しかし、家は残っている。」
 猫山大治郎は静かに答えた。
「よろしいですか、全田一さん。わたしは現実主義者だ。怨霊の存在など、信じていない。だが、猫山一族が代々、数え切れないほどの人の恨みを買ってきたことも事実だ。そうした人々にとって、重要なのはむしろ、猫山という『家』が、依然として栄華を誇っているということでしょう。彼らを踏みつけにしてね。怨霊は存在しないかもしれない。だが、悪意は、確実に存在するのですよ。それこそ、恐ろしいほどの悪意がね。」
 彼はつと、立ち上がると、全田一に背中を見せて歩き始めた。
「私は猫山家の人間ではない。今は当主だが、猫山の名前にも財産にも、何の執着もない。ただ、先代がわたしを引き上げてくれた、その恩に報いたいだけだ。時が来たら、わたしは後継となる者に、喜んで全てを譲り渡すつもりです。そのとき、わたしに子供があろうとも、なかろうとも。」
 全田一は思わず、その背中に問いかけた。
「それならなぜ、今、あなたは、そうやって自分の地位を守ろうとするのです?奥さんを追い詰めてまで。」
 猫山大治郎は、立ち止まると、静かに振り向いた。
「さきほど申しあげたでしょう。今、私が失脚すれば、猫山カンパニーは崩壊する。このご時世、それはこの日本が崩壊するということと、同義語なのですよ。」
 全田一は彼をまじまじと見返した。温厚なだけで小心者だ、腰が低すぎて威厳がない、などと揶揄される、彼の柔和な顔。だが、年齢と肥満によるたるみを差し引いてみれば、猫山大治郎はかなりの美男子であると言えた。穏やかで優しげに見える双眸の奥には、意外なほどに鋭い光があった。瞬時、全田一は、彼の別の顔、本当の顔を、垣間見た気がした。
 そのときだった。
「あ…」
 全田一は、思わず声を立てた。
「何か?」
「いえ、別に…。」
 猫山の肩越しに見える塔の、上から二段目の窓に、人影が動いたように見えたのだ。だが、次の瞬間、影は大時計の陰に隠れて、見えなくなってしまっていた。
 今のは、目の錯覚であったのか。
 だが、全田一の直感は、あそこに確かに人がいる、と告げていた。そして、ちらりとしか見えなかったその黒っぽい衣裳は、猫山夫人が普段身につけているもののように思えた。
「でもまあ、全田一さん、あなたのおっしゃることは分かります。わたしだって、妻のことは心配なのです。何か不吉なことが起こらなければよいが、と、いつも案じているのですよ…。」
 次の瞬間、それはもう、目の錯覚などでは有り得なかった。大時計の周辺を凝視していた全田一の目の前で、黒い人影が、あたかも見えない手に引き寄せられたかのように、窓から落下したのだ。塔の白い壁を背景に、黒い衣裳が翻るのを、全田一は見た。
 そしてもう一つ、奇妙なものを、全田一は見たのだ。
 黒い人影が落下した、地上の植え込みの辺り。人影が灌木の茂みに吸い込まれた次の瞬間、やはり黒っぽい人影が、植え込みから走り出て、すばやくその場を走り去ったのである。第二の人影は、建物の角をまわって、あっという間に見えなくなってしまった。
 全田一は、叫び声を上げて立ち上がった。
「どうしたのです?」
 猫山大治郎の静かな声に、全田一は我に返った。
 猫山はそんな彼から目を離さずに、ゆっくりとした口調で、こう、続けた。
「何か、見ましたか?」
 全田一は改めて、猫山大治郎の顔をじっと見た。気遣うような微笑みを浮かべるその口許に、微かな違和感を覚えたのは、ただ、気のせいなのか。だが、どれほど注意深く覗き込んでみても、猫山の落ち着いた眼のいろからは、何事も読み取ることはできなかった。
(後略)