縁側考

 

  
  
 夏目漱石の「吾輩は猫である」の世界に憧れている。
 と言っても、別に、苦沙弥先生と奇特な友人たちとの人間模様を模倣したいわけではない。単に、苦沙弥先生みたいな日本家屋に住んで、猫を内外飼いしてみたい、というだけである。
 猫に関する私の夢は、三つある。一つめは、大猫を飼うこと。二つめは、サビ猫を飼うこと。この二つは、一応実現している。
 そして三つめ。それは「ボス猫を飼うこと」である。
 近所の猫たちが揃って一目置く、堂々たるチャンピオン猫。大きくて、頭がデカくて、不敵な面構えと百戦錬磨のケンカ傷。耳なんか、先っぽが裂けていたりして。
 いつも、肩をいからせてのっそりと歩いて来る。常に自分の気の向いたところに座り、人間の思惑なんか歯牙にもかけない。ちょっとでも触ろうとでもしようものなら、思わず心臓が冷たくなるくらいの怖い目でジロリと睨まれ、その迫力に気押されて、伸ばしかけた手が、つい、止まっちゃうような。
 そんな猫が、たまにメシを喰いに帰ってきて、顔に似合わぬ可愛い声で「ニャーン」とか言いながら、足首に体を擦りつけてきたりしたら…
 もう、ハート、ドキューンである。
 ああ、そんな体験をしてみたい。
 
 
 まあ、ボス猫とまではいかなくても、家の内外を勝手に出入りする自由猫と暮らしたい、という夢は、割とリアルに持っている。
 そのためには。
 やっぱり、日本家屋、である。
 実家の初代猫のジンは、当初、内外飼いであったが、我が家は普通のツーバイフォー住宅であったので、猫の出入りのたびに、ドアを開けてやる必要があった。即ち、彼女は外に出たい時には、家にいる人間に「ドアを開けろ」と命令し、帰って来ると、玄関ドアのレバーに飛びついてガチャリと鳴らし、帰宅を知らせたのである。(お陰で、彼女が深夜の散歩に出かけると、母はリビングで居眠りしながら、いつまでも就寝できずに、帰宅を待つハメになるのだった。)
 そんな猫様ぶりも楽しいが、夢はやっぱり「猫が勝手に出入りする住宅」である。
 だから、日本家屋なのだ。
 日本家屋には、縁側がある。猫には、縁側を通って、勝手に座敷に入ってきてほしい。
 風のない小春日和の午後には、縁側で長時間の毛づくろいをしてほしいし、縁側に布団や座布団を干した日には、当然、ど真ん中で昼寝をしてほしい。婆さん(になった私)が、近所のババ友達と、縁側で茶飲み話をしているときには、ふらりとやって来て、膝に乗ってくれたりしたらすばらしい。
 夏は微風に揺れる釣りしのぶの下で、日陰の冷たい木床に長くなる猫。秋は、迷い込んできたこおろぎを追いかけてバタバタと走り、春には、風に舞う桜の花びらが、ぶちやトラの毛皮の上に、うすべにいろの斑点を染め上げる…
 古き良き日本の風景が、そこにある。
 そう、猫には縁側が似合うのだ。
 
 
 厳しい自然と対峙してきた西洋に対して、比較的気候が温暖な日本の文化は、自然と共存型だと言われる。このため、日本家屋の構造も、外界と室内を厳しく遮断する西洋家屋と違い、内と外との境界が曖昧になっているのだと、聞いたことがある。
 その曖昧なる境界線上に位置するのが、縁側であるように思う。
 そこは、外でもあり、内でもある。
 そして、猫という動物。
 彼等には、様々な文明において人間に飼われてきた、長い歴史がある。そのくせ彼等は、現代に至ってさえ、野性の本能を決して失わない種族だ。野生(野良)の猫たちはもとより、生まれた時から人間の家に住んでいる、我が家のヨメみたいな飼い猫でさえ、ハンターの本能をちらつかせる。そして、そんな猫の野性味を、野性を忘れた人間どもは、「魅力」とさえ呼ぶ。
 猫という動物、その存在自体が、いわば、自然と文明の中間に位置している、と言ったら過言であろうか。
 猫には、縁側が似合う。
 それは、両者がいずれも、人間社会と自然との接点に位置するものであり、また、それらをつなぐ抒情的な役割を担うものだからではないか。
 猫の居る縁側の風景とは、自然と共存し、その恵みを享受することで文明を築いてきた、いわば、人間と自然との「蜜月」に対する、日本人の憧憬の象徴に他ならない、と思う…。
 
 
 …と、思う。
 そして…、
 そして、それから、ええっと…
 
 
 あああ。
 駄目だ。
 どれほど、美辞麗句を並べ立てて、自分を誤魔化そうとしても。
 自分を騙すことなんて、できない。
 
 
 あの日から、あの光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
 だって、私は見たのだ。
 正真正銘の、「猫のえんがわ」を。
 
 

  
  
 ダメちゃん…。
 
 
 キミ、一体、どうするつもりさ、それ。
 
 
 動物病院から出頭命令(予防接種のお知らせ)が、来てるっていうのに。
 
 
 

 
そんなこと、言ってません!!