愛しのゴッドファーザー


  
  
 お陰様で、玉音はすっかり元気になった。
 熱が下がった後もしばらくくしゃみをしていたので、結局、また一週間、ケージの中に隔離したままにしておいて、土曜日に病院に連れて行った。そのころには、目やにも治まり、くしゃみや鼻水も出なくなっていたので、もういいでしょうということで、ワクチンの二回目を接種してもらい、晴れて他の二匹と一緒に暮らす“許可”が下りた。
 ああ、よかった。
 前にも書いたとおり、ケージを置いていた北側の部屋は陽が当たらず寒いので、いくらカイロと湯たんぽで保温していると言っても、これ以上気温が下がってはと、気が気ではなかった。
 それだけではない。
 玉音は元気になった。そして、また大きくなった。今回の体重測定では、すでに1,250グラムに達している。
 となると。
 彼女にとって、すでに、ケージは狭い世界なのである。そして、淋しく退屈な世界なのである。
 誰もいない昼間は寝ているのかもしれないが、少なくとも、私が覗くと、始終、彼女は暴れている。ケージの中を駆け回り、編みぐるみネズミのコーズケノスケに容赦なく攻撃を加え、ケージのファスナーやらマジックテープやら、とにかく、目に付くものは全てつついたり齧ったりの対象になる。水もカリカリもひっくりかえして散らかすし、水こぼし対策にと床に敷いたペットシーツは、引き裂いてボロボロにし、中のパルプを掻き出して、さながら雪でも降ったように、辺りを綿ごみだらけにする始末。
 私がケージの中に手を入れると、大興奮でじゃれついてくる。
「こらこら。おとなしくしなさい。」
と、叱りながらも、どうにも不憫であった。
 仔猫だもんね。
 思いっきり遊びたいよね。
 ずっとひとりぼっちで、淋しいよね。退屈だよね。
 まあ、仔猫が大人の猫をつかまえて思いっきり遊び始めたら、ダメちゃんにはひたすら災難なわけだけれど。アタゴロウは若いから、一緒に遊ぶだろうけど。
 ただし。
 玉音が来て二週目は、リビングから北側の部屋までの扉を開けたままにし、男子チームが自由に行き来できるようにしておいたのだが、その後、玉音がくしゃみをし始めたため、再びドアを閉めた。もうすでに、再隔離して二週間が経つ。いくらあの時、お互いフーシャー言わない程度まで馴染んだと言っても、猫たちの間で、その記憶はもはや葬り去られているのではないか。
 そんな私の危惧は、半ば当たり、半ばはずれ、といったところか。
 結論から言うと、男子どもはまだ玉音を受け入れていない。家庭内に平和が訪れるまでには、まだ数日かかりそうな気配である。
 
 

  
  
 動物病院から帰って来て、私が最初にしたことは、リビングの掃除である。
 実はこのところ、ずいぶん長い間掃除をサボっていた。また、掃除をサボるくらいだから、部屋の模様替えに至るわけもなく、リビングには未だに夏物の藺草ラグが、ダメちゃんの「エ」の痕跡を残したまま、敷きっぱなしになっていた。
 半分荷物置きと化していた安楽椅子を北側の部屋に引っ込め、藺草ラグを撤去し、広くなった床に掃除機をかける。続いて、北側の部屋にある玉音のケージを掃除し、敷物を換えつつ、リビングの中に移動させる。
 位置は、かつてアタゴロウを収監していた場所と同じである。
 ケージの中にトイレを設置していると、アタゴロウが近寄って来た。
「アタちゃん、懐かしい?」
 懐かしいもんかい。
 アタゴロウにしてみれば、思い出したくない日々かもしれない。ムショ暮らしの少年時代なんて。
 だが私は、ケージに立ち入ることなく、ひたすら中を覗きこんで匂いを嗅ぐアタゴロウの姿に、復讐を終え、かつて自分が投獄されていた土牢を「見学者」として訪れる、モンテ・クリスト伯のそれを重ね合わせていた。そこで彼は、あの十年間の苦しみと屈辱とを思い出し、自分の成し遂げた復讐が「正義」であったことを確信するのである。
 明るく思いやりに満ちた青年であったエドモン・ダンテスを、非情な復讐者に変えたのは、暗闇と絶望に支配された独房生活であった。
 初対面の人間のジーパンでハナミズを拭いてしまうような、天真爛漫な仔猫だったアタゴロウ。そんな彼を、温和なおじさんに見境なく暴力をふるう粗暴少年に変えたのも、孤独な獄中での日々である。
 粗暴少年は、大人になった。
 ムショ帰りの少年に、世間の風は冷たい。平凡でささやかな、ごくあたりまえの幸福への希望さえ断ち切られた少年が、世の中への恨みを胸に、「それなりの」道を歩き出していたとしても、何ら不思議はない。
 
 

  
  
 玉音はその日一日、リビングに移動したケージの中で過ごした。私自身はその後、三時間余り外出しただけで、あとは家にいたのだから、出してやってもよかったのだが、ワクチンを打ったばかりなので、大人しくさせておいた方が良いと判断したためである。また、いきなり外に出すと、男子チームが戸惑うだろう、という配慮もあった。
 ダメとアタは、ケージの近くまで匂いを嗅ぎに来たが、割合平静であった。たまに小さな声で唸ってはいたが、三週間前のように、シャーシャー言ったり、ケージの周りで警戒態勢に入ったりすることはなく、基本的に無関心であった。
 このチビッコの存在を、覚えてはいたらしい。
 これなら、まあ大丈夫だろう、と、一夜明けた今日は、玉音をケージから出してみることにした。
 猫どもの朝食が終わり、落ちついたところで、玉音のケージのメッシュ窓を全開にする。
 しばらくその状態で、カメラを手に見張っていたのだが、玉音はなかなかケージから出ようとしなかった。
 アタゴロウが少し離れたところから、じっと様子を窺っているが、こちらもケージの中に入って行こうとはしない。
 なかなか動きがないので、私は諦めて、他の家事をするため、その場を離れた。
 数分経って、リビングに戻ってみると、玉音がケージの外にいた。
 しまった、出る瞬間を逃した、と思ったが、それはまあ、大したことではない。
 問題は、アタゴロウである。
 アタゴロウの奴、玉音に向かって、ウーシャー言っているのだ。
 玉音は、部屋の南東の隅の、積み重ねた座布団と壁との隙間にすっぽり体を埋めて、どちらに行ったものか思案に暮れている。一方のアタゴロウは、その座布団の山の上に陣取って、あろうことか、玉音にパンチを繰り出そうとしているのである。
 これで、過日の彼のDV疑惑は、決定的となった。
 それにしたって、玉音は現在、1,250グラム、アタゴロウは4.5キロである。自分の四分の一強しかないコドモに向かって鉄拳を振り上げるなど、あまりにも大人気ないと言うものではないか。
 ダメちゃんは遠くから、一部始終を見守っている。
 やがて玉音は、掃き出し窓の窓枠に沿って部屋の南辺を走り、南西に置かれたオープンラックの下に走り込んだ。そこはもともと、プラスチックのケースを差し込んである場所なのだが、そのケースを抜いて玉音のベッドに使っているので、半分以上が隙間になっている。玉音はその小さな隙間に潜りこんで隠れた。
 隙間が狭すぎて、アタゴロウはそこに入ることができない。彼はオープンラックの前で、シャーシャー言いながら、玉音を脅しにかかった。
 と。
 ダメちゃんがやってきた。
 彼は、アタゴロウの後ろに立ち、やがては横に回り込んで、アタゴロウとふたり、玉音の脱出口を封鎖し始めたものである。
 
 

  
  
 ダメちゃんは玉音に手を出さない。
 自分から、玉音に近寄って行くこともない。シャーもあまり言わない。玉音の方が近くに来てしまうと、低い声で唸るのみである。
 ただ、その唸り声が、本当に低くて怖い。地獄の底から響いて来るようだ。
 そういえば、ムムのときも、アタゴロウのときも、ダメちゃんは決して、仔猫に手を上げることはなかった。だからこそ、アタゴロウが玉音に手を上げた時、そんな彼の態度が、あまりにも大人気なく見えたのだ。
 そのダメちゃんが、アタゴロウの後ろから、玉音に歩み寄って行く。
 玉音にしてみれば、その悠然たる歩みは、ダッシュで追いかけてくるアタゴロウのそれより、どれほどの迫力を備えた恐怖であったことだろう。
 
 
「何しに来た、このアマ。失せろ!さっさと失せろ!!」
 突然姿を現した少女に、愛宕朗はかっとなって怒声を張り上げた。
「ここは猫山一家のシマだぞ。お前なんかが入っていい場所じゃない。オイゴラ、聞こえねえのか!」
 少女は目を見開いたまま、呆然と立ち尽くしている。それでも、出ていく気配はない。愛宕朗は、怒りで体が熱くなるのを感じた。
「なめとんのか、このアマ!!」
 激情のままに降り上げた拳が、無防備な少女の顔面に炸裂しようとしたその刹那、突如、彼は背後に気配を感じた。振り返るまでもなく、そこに誰がいるのか、彼は文字どおり体で理解した。その圧倒的な存在感。体じゅうの力を吸い取られるような、その不気味に冷たい静けさ。大物の醸し出す貫録は、味方と知ってさえ、底知れぬ恐怖を感じさせるものだった。
愛宕朗。」
 抑揚のない声が、彼の動きを奪った。
「お前は血の気が多すぎる。そんな年端もいかないお嬢さんに、やたらと手を上げるものではない。」
「で、ですが、親分、」
 愛宕朗は、弱々しく反論を試みた。
「こいつは、厚かましくも親分のシマに…」
「下がれ。」
「…え!?」
「下がれ。聞こえないのか。」
「親分…。」
 不満と屈辱にまみれ、なおも少女をねめつける愛宕朗の肩を、有無を言わさぬ巨躯が脇へと押しやる。感情を表さぬ冷たい双眸が、今度は、少女のか細い全身を捉えた。
「お嬢さん。」
 丁重とも言えるほどの、静かな口調だった。
「ここはあんたのような、若い娘の来るところじゃない。悪いことは言わない。家にお帰りなさい。」
 少女は口もきけずに、ただ、「親分」の目を見返した。帰れと言われても、少女に帰る家はない。怒鳴られても、追い立てられても、ここにいるしかないのだ。だが、それを説明できるだけの勇気も、冷静さも、彼女は持ち合わせていなかった。それでいて、金縛りにあったような強い恐怖の中で、彼女は奇妙にも、目の前の大男が大変な美貌の持ち主であることに気が付いていた。
「帰れ!!」
 突然響き渡った怒号に、傍らで事の成り行きを見守っていた愛宕朗は、びくりと体を硬直させた。恐ろしい落雷が、激しい雷鳴とともに、その場の空気を容赦なく引き裂いたように感じた。我にもなく体が震え、全身にびっしょりと汗をかいていた。思わず閉じた目をそっと開いて見ると、親分の背は、何事もなかったかのように微動だにしない。少女はどうしたろう。彼にはそれを見届けるだけの度胸すらなかった。あの「雷」が、自分に向けて落とされたものでないことに、彼は感謝の念さえ覚えていた。
 
 
 …と、いう物語が、そのとき、私の脳裏にひらめいたのだが。
 現実は、ちょっと違ったらしい。
 まず、玉音であるが、怖がって逃げ回っているようだが、良く見ると、しっかりアタゴロウに反撃を試みているのだ。
 アタゴロウに追いかけられて逃げていたはずが、こんどは、前を走るアタゴロウの後に付いて、駆け戻って来る。
 セオリーどおり、アタゴロウより高いところ、高いところを探しながら、ちびっこい前足を振り上げて、文字どおり、猫パンチを繰り出そうとしている。
 ううむ。仔猫の考えていることは、よく分からん。
 しっぽを膨らませて、いかにも怖そうにしているのに、結局、遊んでもらっている認識なのか。
 そして、ダメちゃん。
 低く唸るだけで手を出さないところがかっこいい、と思ったのだが、それでも玉音が近付いて行くと、遠慮なくシャーも言う。手を出さないだけアタゴロウより大人だと思うが、やはり、幼児相手にシャーは、いかがなものかと思う。
 もとより、先住猫が新入りの猫に攻撃的になるのは、どういうわけなのだろう。単純に、本能が命じる縄張り意識ということなのだろうか。だが、もしそうなら、やがてお互いを見知った後には、何故、普通に共同生活ができるのか。
 それよりも、人間と同様、感情的な問題だと考えた方が、納得がいく気がする。
 食事やお気に入りの場所、飼い主の愛情。そういった「既得権」が侵害されるという危機感。その防衛のため、新入りを排除しようとするのだと。
 今日のダメちゃんは、何だかちょっと甘えん坊な気がする。
 私の「最愛猫」の座を奪われるという、危機感でも感じているのかな?
 
 
 そんな彼が、今日、洗面所で洗濯物を片付ける私の前で見せた、珍しい行動。
 
 
 近付いて来る玉音に、遠雷のような低い唸り声を響かせていた彼が、ふいに、風呂場にやって来ると、風呂蓋の上で二声、遠吠えのように長鳴きしたのだ。
 
 
 その瞬間、考えたくない可能性に、気が付いてしまった。
 
 
 まさか。
 まさか、ダメちゃん…。
 
 
 まさか、アンタの方が、チビタマにビビっているわけじゃ、ないでしょうね!?