怒る前に食べようよ
昨夜は麻酔から覚めず、ボーっとしていたヨメ。
一夜明けて、さすがに少しは元気になっただろう、と期待して、動物病院へ。
着いてみると、ちょうど朝ごはんを食べさせ始めたところだった。
「口に入れても、いやいやして、器用に舌で出しちゃうんですよ。」
助手さんがスプーンで、ゆるく溶いたフードを食べさせているのだが、肝心のヨメ自身が、あまり協力的ではないらしい。
「この子の好きな物って、何ですか?」
訊かれて、答えに窮した。
何でって。
我が家は、メシに文句なんかつけさせない主義である。「嫌なら喰うな」がモットーだ。
人間の食べ物は、一切与えない。
フードは、カリカリだけでなくレトルトも私が通販でまとめ買いしているので、レパートリーは、大して、ない。それも、もともと、ダメちゃんのダイエットのために、カロリーの低さを基準に選んだものなので、最初から、ヨメの嗜好も都合も、考えたことなんかないのである。
(註:仔猫時代は、ダメちゃんと同じレトルトに、猫ミルクを混ぜていました。)
「うーん、どちらかと言えば、お魚系が好きですね。まぐろとか。」
言い換えれば、ささみ原料のフードの時の方がカキカキ率が高い、それだけである。
「何でも食べる子なんですね。」
それも、分からない。
そんなにいろんなものを、出したことが、ない。
「ちゃんと食べなきゃ。ごはん食べられるようにならないと、おうちに帰れないんだよ。」
と、一応、飼い主らしく撫でながら諭してみたものの、
「ちょっと怒ってますね。」
昨日から、意に沿わぬ不快なことの連続で、ご機嫌斜めになっているヨメ。
昨夜と同じように横になったままで、首しか動かさないが、目から怒りのオーラを発している。
もちろん、噛みもしないし、猫パンチを繰り出すわけでもない。
麻酔が切れているので傷口が痛いだろうし、点滴につながれているし、エリザベスカラーはつけているし、だいいち、食べていないから力が出ない。動きたくたって、動けないのだろう。
「熱は下がりました。久しぶりに平熱です。」
膿をとったから、お腹もすっきりしたことだろう。頭の中は明晰なはず。
しかし、その割には、シャーもウーも言わない。
「アンタ、怒ると静かになるタイプなのね。」
先生の、何気ない一言。なるほど。
だが、それって。
一番コワい、鬼嫁のタイプではないか。
(覚えてろ、覚えてろ、覚えてろ…)
久々に、身の引き締まる思いを覚えた姑ではある。
そして、夕方。
午後の診療時間を待って、再び動物病院へ。
「ちょっとムムの様子を見てくるわ。」
と、ダメには気軽に言い残して、ぶらぶらと出かけたのであるが。
「あ、猫山さん!すみません、ちょっと待ってて下さいね。」
他の猫が診察中だったので、待合室で待たされたのだが、助手さんから妙に愛想よく迎えられた。
見舞いの飼い主って、こんなに歓迎されるものなんだろうか。
普通は、一日に二回も、見舞いになんて来ないものなのかな?いや、そんなことはないだろう。
などと、思いめぐらしながら待っているうちに、先に来ていた猫の診療が終わった。
と、助手さんが、ソファーに座っている私におもむろに近付いて来て、さらに、わざわざしゃがみこんで、深刻な顔で打ち明けたものである。
「実は、ムムちゃんがちっともごはんを食べてくれないんです。口に入れてもペッて出しちゃって…。」
続く言葉を聞いて、絶句した。
「怒っちゃって…。」
あああ。
またか。
何でこいつは、こう、無駄に怒るんだろう。
「だから、おかあさんに抱っこしてもらって、食べさせてもらえれば…」
へ!?
そりゃ無理だわ。
抱っこはできるけど、私が口に入れたって、食べない方に3000点。
だいいち、あたしゃ、母じゃなくて姑だし。
と言っても、そんな言い訳は、動物病院では通用しないので、その点については「おかあさん」を「お義母さん」と、脳内変換することで折り合うことにした。
「でも私、そんなに愛されてないですけど。」
「まあまあ。」
と、いうわけで、家庭の事情はさておき、「お義母さん」はヨメを抱っこすることになり、と言っても、抱っこのままでは食べにくいので、
「降ろして。」
という先生の指示で、診察台に乗せられたヨメ。「お義母さん」は、抱っこの代わりに、後ろからヨメをがっちりホールドする。
「あ、ぺろぺろしてるわ。」
ヨメが口のまわりを舐めている。お腹は空いているのだ。
ほら、やっぱりおかあさんがいると違う…という雰囲気が、先生と助手さん二人の間に、静かに盛り上がる。
が。
ほらね。
私がスプーンを口に近付けたって、ヨメの奴、頑として食べやしない。
結局、先生がシリンジで、口に流し込む方式となった。
ヨメは必死に吐き出そうとするが、その辺はさすがプロである。時々、うっかりしたのか根負けしたのか、ゴックンと飲みこんでいるのが分かる。
「ゴックンした?…ヨシヨシ、偉い偉い。良い猫だねえ。――こんなに褒められたこと、ある?」
「ありません。」(即答)
「はい、口開けて。アーン、ヨシヨシ、食べて食べて…」
「あ、また出しちゃった。」――以下略。
結局、
「10ccくらいは食べたわね。」
というところで、一応終了となり、憤懣やるかたないヨメはケージに戻って行った。
で。
戻った途端に、怒っていた目がトロンとし。
「疲れちゃったんだねえ。」
「怒り疲れたんじゃないですか。」
と、私。
だったら、素直に食べなさいよ。お腹すいているくせに。
と、思うのは、私だけではないだろう。
何のプライドだか、意地張っているんだか。
「この子、ずっと怒っていたんですか?」
「いや、そんなことはないですよ。私たちが、ちょっと動かそうとしたりとか、何かすると怒るという感じで。」
まあ、ね。
いくら何でも、そんなに怒り続けてもいられないか。
「それ以外の時は、何て言うか、怒りを内に溜めているとでも言いましょうか…。」
…って。
結局、ずっと怒っていたってことやん。
昨日までは、「おとなしくていい猫だ」って、言われていたんだけどなあ。
「それとちょっと、言えないようなこともありまして…」
先生と助手さんたちが、ちらりと笑みを交わす。
おいっ!
オマエ、何をしでかしてくれたんだ。
「すみません。」
とりあえず謝っておいたが、それ以上は、怖くて追求できなかった。
そういえば。
こいつ。
初めて来院したワクチン接種の時は、先生と、当時の助手さんが、二人とも爪で怪我をした。
避妊手術の時は、術後、「怒って暴れてます」という電話だった。(普通はお腹が痛くてじっとしているものらしいが。)
そして、今回。
アンタよっぽど、病院がキライなんだねえ。
いや。好きな猫なんて、いないか。
と、まあ、そんなわけでして。
「明日も来てくださいね。」
と、しっかり約束させられてしまった「お義母さん」。
「私たちだけではどうにもならないですから。」
本当かなあ。
私、なんにもしてないし。
ヨメの奴、どうやら、私に対しても怒っていたし。
あ。そうか。
私がヨメの怒りの矢面に立つことで、抵抗を弱めようっていう作戦ね。
なるほど。
まあ、いいわ。今さらアンタが怒ったって、痛くも痒くもありゃしない。
それでアンタがごはんを食べるなら、それで万々歳ってものよ。
すごいなあ、私。
この寛大さ。姑の鑑と呼んでほしい。
(留守番夫の鑑。若干マザコン気味)