ファーストコンタクト

 


三日目である。

 昨夜からは栗助もご飯を完食するようになった。アタゴロウはもとより平常運転。お嬢さんの方は、初日はウェットを残していたのだが、それは食器のせいでもあったのだと思う。玉音が仔猫時代に使っていたティーカップによそっていたのをやめて、平皿で出したら、一度で完食した。カリカリの方は少しずつしか食べないが、彼女はもともと「ちょこちょこ喰い」のクチらしい。

 今朝は目が覚めたら、私の枕の隣に栗助がいた。いつもの朝である。

(栗助は大抵私の頭の横で寝ている。猫が頭に近い位置で寝るのは飼い主を信頼している証拠と言うが、彼の場合、私が目を覚ますと一目散に逃げていくので、その説が当てはまるのかは分からない。)

 で、お嬢さんの方は、というと。

 私が目覚める前、彼女が大人しくしていたのかは分からない。

 だが、彼女も、遠くから私が起きたことを察したらしい。寝起きの、ほぼ何も見えない裸眼でぼんやり眺めていると、やがて猫とおぼしき影がケージの四階から現れ、ちょっとしゃがれた声で短く鳴きながら、ケージの中をせわしなく上下運動しているらしき気配が見て取れた。

 

 

(初日撮影)

 

 

 栗助の時はかなり長いこと掛けっぱなしにしていたケージの覆い布であるが、今回は、もうすでに、ケージの四階部分を隠すのみになっている。

 そもそも、今回は覆わなくて良いかも…とさえ思っていたのだが、

「先住ちゃんのために、隠しておいた方がいいでしょう。」

という保護主さんのアドバイスにより、最初はひとまずフルクローズした。

 が。

 初日。アタゴロウは慣れたもので、さっさと布を潜ってケージを覗きに行ったものである。それもはじめから、何のためらいもなく頭を下げて潜り込んだ。

 私はちょっと驚いた。そして焦った。

 そういえば、去年、アタゴロウは「自分から布を潜る」ということはしなかった。即ち、布が掛かっていたら、それ以上、外から突破しようとはしていなかったのである。だから今回も、まさか彼が布の中に侵入しようなどとは、全く考えていなかったのだ。

 だが、よく考えれば、それは別に驚くようなことではない。彼はいつも部屋の掃き出し窓のカーテンを潜って、窓際で日光浴しているのだから。

 てことは。

 あんまり、布の意味がなかったかしら。

 いや、意味はあった。その頃はまだ、お嬢さんは四階に籠っていたので、一階の至近距離から見上げても、姿は全く見えなかったはずである。それゆえ、この時点ではまだ、猫同士の対面には至らずに済んだものと思われる。

 

 

(初日撮影)
 

 

 昨日の栗助のものぐさ説であるが、少々説明が足りなかったように思うので、ここで補足しておく。

 環境に慣れにくい栗助を、私がものぐさ認定する理由について、である。

 もちろん、栗助が日本語で説明してくれるわけでもないし、私が彼の心の中を覗けるわけでもない。

 だが。

 分かるのだ。

 なぜって、私も同類だから。

 子供の頃から、私は「臨機応変」というのが苦手だ。物事がシナリオどおりに進んでいる間は良いのだが、いったん想定外の事態に直面すると、そこで即座に思考が停止してしまう。判断力も決断力も皆無なのである。

 悪いことに、年を追うごとにそれは顕著になり、おかげで昨今は「ショッピング」というのがすっかりキライになった。

 何を買うか、どこで買うか、どの製品を買うか。最初から完全に決まっている場合はノープロブレム。だが、いざ店頭で、その商品が売り切れていたり、あるいは予想外に選択肢が増えたりすると、迷い過ぎて決められなくなる。頭の中であれこれ考えながら、同じ売り場を行ったり来たり、いつまでもそうして挙動不審なものだから、そのうち店員さんの目が気になりだす。万引き犯だと疑われているのではないか?と、心配になり、そうなるとさらに焦り、何も考えられなくなって、結果、自分の望んでいたものとはかけ離れたものを買ってしまったりするのである。

 話がそれたが、つまるところ、想定外の事態に直面すると恐慌をきたす、という点が、まずは一緒だということ。

 だが、単純に臨機応変が苦手と言う人は、おそらく、世の中にそれなりにいると思う。

 問題は、その後である。

 想定外の事態に、その場で対処できなかった場合。

 問題点を熟考し、情報を集め、他者の意見を聞き、もう一度最初に戻って対策を練り直す――というのが、正しい態度であろう。

 が。

 私のようなタイプは、もうその瞬間から、エスケープすることしか考えられなくなるのである。先程のショッピングの例で言えば、買い物自体をキャンセルしてしまいたくなるのだ。もっと言えば、その品物を「買おう」と考えたこと自体、最初からなかったことにしてしまいたくなるのだ。

 そうすることにより時間が解決する場合もある。だが、たいていの場合、それは単なる問題の先延ばしであって、放っておいても事態は好転しない。

 一週間後のお呼ばれに来ていく服がないから、お店に買いに行く。ところが、予算内に収まる商品がない。嫌になって何も買わずに帰るのは勝手だが、そうなると、お呼ばれの前日に、結局また来店することになる。だが、そのときには、もう既に一番高い服しか残っていない――なんてことは、よくあることだ。

 最初からちゃんと考えればいいのである。冷静に考えれば、それならお店にある中で一番安い服を買って、差額は何かの予算を削って切り詰めればよい。その思考を放棄してエスケープするから、結局、損をするのだ。

 この辺りが、栗助と私の共通点である。

 想定外の事態に直面したら、まずは見なかったフリをする。そして長時間経った後に、結局は行動することになるのだが、その間、問題について沈思黙考していたのかと言うと、そんなことはない。ただサボっていただけ。

 四か月もケージに引きこもっていた栗助は、こう言っちゃナンだが、ケージの中で幸せそうに引きこもり生活を満喫していた。別に彼も、一生ここにいようと思っていたわけではないと思うが、かといって、彼が悩んだり考えたりしていなかったことは確実である。先のことなど何も考えず、行動にも移さず、とりあえず現状でまあいいかと、流されるままに、日々、サボっていたに過ぎない――と、確信する。

 要するに、私も彼も、喫緊でない問題を進んで解決していくだけの精神力がないのである。ありていに言えば、分からないことは全て面倒臭いのだ。こんな言い方をしたら、身も蓋もないけれど。

 でもねえ。

 だからって。

 四か月もケージ暮らしって、そんなの、アリか?

 私が彼を「史上最強のものぐさ男」と呼ぶ理由が、お分かりいただけただろうか。

 

 

 

 ところで、本日のトピックスと言えば、アタゴロウとお嬢さんとのファーストコンタクトであろう。

 これも朝の話である。だがこのときは、私もすでに眼鏡をかけていたので、ぼんやりではなく、しかと目撃した。(残念ながら写真は撮れなかった。)

 ケージの一階に降り立っていたお嬢さんに向かって歩み寄ったアタゴロウは、ケージの金網越しに、お嬢さんに

「シャー」

と言った。そう言い捨てて、そのまま歩み去った。

 以上。

 それだけである。

 その後は、双方とも何事もなかったように平常運転である。もとい、お嬢さんの方は、そもそも無反応だった。シャーくらいでは全く動じないらしい。

 ついでに言うと、眺めていた私の方も、

(おっ)

と思っただけで、別に喜びも悲しみもしなかった。我ながらスレたもんである。

 私に言わせれば、猫同士のファーストコンタクトにおいて、「シャー」は単なる挨拶である。そんなの、言うに決まっているのだ。(言わない場合もある。)

 見るべきは、その前後の状況である。

 今回、アタゴロウは、「シャー」を言い捨てただけで、その後、怒りもしなければ不機嫌にもならなかった。そもそも、ケージに近付く時だって、普通にゆったり歩いている。おそらく、彼の目的としては、よそ者を偵察に行っただけで、威嚇して追い払おうというまでの意図はない。そんな気迫は感じなかった。

 もっとも、アタゴロウがお嬢さんに「シャー」を言う現場を、実のところ、私は今日、もう一度目撃している。その二回目は「挨拶」ではなく、明確な意味を持ったものだった。

 アタゴロウが、ケージの中にあるお嬢さんのご飯を狙ったのである。

 お嬢さんはちょこちょこ喰いをするので、皿の中にはまだカリカリが残っていた。皿はケージの二階正面、引き戸の付近にある。そこがご飯場所であることを察知したアタゴロウは、金網に前足をかけて立ち上がり、お嬢さんのご飯を横取りしようとした。

「何すんのよ、この泥棒猫!」

と、叫びはしなかったが、四階にいたお嬢さんは彼に気付き、自らの権利とご飯を守るべく、三階に飛び降りた。そこで、二階を覗き込むアタゴロウと目が合ったのである。

 アタゴロウが「シャー」を言ったのは、まさしくこの瞬間である。

 シャーも何も、泥棒はお前の方だろう。

 とにかく、そんなわけで、アタゴロウのご飯泥棒は未遂に終わり(ただし、実行したところで本当に手が届いたかは分からない)、お嬢さんは見事、泥棒撃退に成功したのだった。

 ううむ。なかなか大した度胸のあるお嬢さんではないか。

 お嬢さんが怖いもの知らずなのか、アタゴロウにそこまでの迫力がないのか、そこは定かではない。だが、とりあえず第二ラウンドまで、両者は互角に対峙している。

 

 

(初日撮影) 

  

 で。

 栗助である。

 彼も頑張った。ケージの近くまで行って、お嬢さんと目を合わせた。

 昨日まではリビングに入ろうともせず、北側の部屋か押し入れに籠りっぱなしだったのだから、これは彼にとって、月面着陸にも等しい大きな一歩である。

 栗助はただ、自分よりずっと小さなお嬢さんを、黙って眺めていた。

 お嬢さんもただ、だが幾分怪訝そうに、この大きな虎猫を見返していた。

 それだけである。

 ウーもシャーもない。互いに、近付こうとも遠ざかろうともしない。

 栗助はそのまま、のっそりと歩み去った。

 その後、栗助は私が見ただけでも、最低三回は同じことを繰り返している。

 

 

(本日撮影)
 

  

 猫が鳴き声を立てるのは、喧嘩の時を除き、基本的には母子間のコミュニケーションだけだと聞いたことがある。猫同士は通常、声で会話することはないのだと。

 ケージ越しにじっと見つめ合いながら、栗助とお嬢さんは、人間には聞こえない声で、何か会話していたのだろうか。

 いや。

 私は確信する。栗助は何も話していない。お嬢さんも、何も語っていない。

 なぜって。

 お嬢さんに近付いた時、栗助はノープランだったに違いないから。

 そしてもし、お嬢さんが栗助に何か言っていたのだったら――。

 栗助は決して、同じ日のうちに同じことを繰り返すなんてしなかったに違いない。その時点で、栗助にとって、お嬢さんとの邂逅ははじめからなかったことになっていたはずだから。

 私には分かるのである。なぜって、彼と私は同類だから。