ものぐさ男と囚われの乙女

 

 誰も住んでいなかったはずのその屋敷に異変が生じたことに気付いたのは、おそらく、クリストファーただ一人だった。いや、今にして思い返すと、アタンリーは彼より先に気付いていたのかもしれない。だが、世慣れた男は、見ないふりを決め込むことに慣れていた。だからこそ、クリストファーがその話をしようとすると、巧みに話題をそらし、あるいは、無言の圧力で彼を沈黙させていたのだ。

 釈然としない思いを抱えたクリストファーが最初に気付いたのは、屋敷の窓のカーテンがいつのまにか全て閉ざされていることだった。見れば、しばしば無造作に半開きになっていた扉にも、きっちり掛け金がかけられ、中の様子を窺うことができないようになっている。バルコニーに続く天窓も閉ざされ、日当たりの良いサンルームに置かれていたマホガニー製と思しき寝椅子も、いつの間にか室内に取り込まれたようだ。何もかもが隠され、閉鎖された屋敷は、外部の者を拒絶するような、何かいわくありげな沈黙に包まれていた。

(誰かここに越してくるのだろうか。それとも、屋敷を取り壊すのか。)

 それは得体の知れぬ、嫌な予感だった。

 彼のその予感はある意味、当たったと言っていい。

 その数日後、屋敷の近くを通りかかったクリストファーは、窓のカーテンの向こうから、微かな音が聞こえてくることに気付いた。

 衣ずれのような音。あるいは、何かを引っ掻くような音。

(誰かが、この中にいるのだ。)

 だが、窓もドアもカーテンも、陰気に閉ざされたままである。一体、誰が、どんな目的でこの中に潜んでいるのか。クリストファーは胸騒ぎを覚えた。

(盗賊か。あるいは、テロリストどものアジトなのか――?)

 ところがその翌日、遠巻きに屋敷を眺めていたクリストファーは、あっと声を上げそうになった。同時に、心臓を白い手でぎゅっと掴まれたような気分になった。

 屋敷の三階の窓のカーテンが、わずかに引き上げられている。

 彼は立ち尽くし、まるで小さな子供のように、ただ、ただ、見開いた目で、窓を見つめ続けた。

 そのわずかな隙間から、彼は見たのだ。

 小さな白い顔。彼の赤毛よりもっと明るく、やわらかくその顔を縁取る豊かな髪。彼女は大きな目をやや伏せるようにして、心細げに下界を眺めている。小さな唇が動いて、何か言葉を発したようだったが、彼の耳には届かなかった。

(助けを呼んでいるのだ。)

 咄嗟に、彼はそう思った。だが次の瞬間、彼女の姿は窓辺から消えた。あっという間の出来事だった。

 どのくらい経ったろう。

 我に返ったクリストファーは、もう一度、屋敷を眺め渡した。そこには誰もいる気配はなかった。

(俺は夢を見たのだろうか。)

 だが、夢と言うにはあまりに生々しく、乙女のたおやかな姿は、彼の脳裏に強く焼き付いていた。

 屋敷に踏み込んで、確かめてみるべきだろうか。だが、奇妙なためらいがクリストファーの屈強な体をこわばらせていた。盗賊やテロリストが怖いのではない。あの乙女に会いたいという気持ちと、会うことを恐れる気持ちがせめぎ合い、あれは夢だったのだ、夢に違いない、と、自らに言い聞かせ、彼の足を止めさせたのだ。

 

 

「また残すのかい。」

 下宿の女将は怒ったような口調で、だが少し嘲笑うように言った。

 クリストファーはよそ見をしたまま答えた。

「ちょっと気になることがあるんだ。」

 女将は唇をゆがめて笑った。

「はいはい、分かりましたよ。食事も喉を通らないってね。」

 女将は容赦なく皿を下げると、半分近くも残った魚肉をゴミ箱にぶちまけた。クリストファーは黙って席を立つと、すれ違いざまに入ってきたアタンリーに挨拶もせず、ふらりと外へ出て行った。

 呆れたように彼の後姿を見送っていたアタンリーは、振り返って女将に尋ねた。

「一体どうしたんだ、あいつは。」

「どうしたもこうしたも、若い連中にはありがちなことさね。」

 アタンリーはニヤリと笑った。

「囚われのお姫様か。騎士の血でも騒ぐのか、お坊ちゃまらしい夢だな。」

 アタンリーはテーブルにつくと、意外なほどに正しいマナーでナプキンを使った。女将はアタンリーの前に大盛りの干し肉の皿を置くと、彼の正面に立ち、手を腰に当てて言い放った。

「でも、ま、あたしの見立てでは、あれはキリキリ舞いさせるお嬢様だね。お坊ちゃまの手に負えるタマじゃないよ。」

 

 

 ああ。

 また下らないものを書いてしまった。

 

 

 

 茶白少女は、びっくりするほど早く、新しい環境を受け入れたようだ。

 さすがに初日は少なめだったが、我が家のカリカリを食べ、パウチは黒缶だから、多分、初めてではないだろうが、ためらいなく口を付け、その日のうちにトイレも(大小とも)使った。

 二日目の今日は、どうやらもう退屈し始めたらしい。悠々とくつろぎきって寝ている様子なのだが、私がケージを覗き込むたびに、

「遊んで~!」

と、有言の圧力をかけてくる。

 無言の圧力、じゃないよ。

 有言である。「ニャ、ニャ、ニャ」と、鳴いて呼ばわるのだ。

 放置していると諦めてまた寝に入るのだが、静かだなと思って様子を見に行くと、とたんにスイッチオンになる。若い猫はエネルギッシュである。

「アンタ、可愛いわねえ。」

 スリスリ体を寄せてくるのをグリグリ撫で回しながら、つい、そんな言葉が口をついて出てくる。本当に、小づくりで可愛らしい顔をしている。ただ、アレルギーで目の周りが赤く、涙目になりやすいとのことで、おかげで写真に撮ると目つきが悪く見えてしまうのが、もったいないところではある。

 だが、私は見逃さない。

「可愛いねえ。」

 という私の賛辞に喉を鳴らす彼女の顔に、

「当然でしょ。」

 とでも言いたげな、まんざらでもない表情が浮かんでいることを。

 実はこの子、自分が可愛いって、知っている方に三千点。

 

 

 

 大人しい、良い子。

 自分の立場をわきまえ、上手に身を処すことができる。人にも猫にも適切に対応できる優等生。

 そのとおりのお嬢さんだと思う。

 少なくとも、温和な子だと思う。だからきっと、うちのシャイボーイズとも上手くいく。

 でもね。

 初対面の可憐なイメージとは、若干違うような気がしてきたのも事実である。

 そろそろ地が出てきたと言うか。

 そもそも、まず、この環境の激変に、全く動じない、肝の据わりよう。

 初対面の人間にも愛想をふりまく物怖じのなさ。いや、如才のなさ、と言ってもいいかもしれない。人間の心を掴む術をしっかりわきまえてる。

 もちろん、本当に人間が好きなのだとは思うが、でも何かちょっと、気のせいか、女子らしいあざとさを感じるんだな。(そこが女子猫の魅力なのだが。) 

 よく動いて、結構元気だし、それに、もしかしたら、いたずらっ子かもしれない。

 そう思い始めたきっかけは、二つある。

 一つめ。昨夜遅く、彼女が「大」の方をしたときのこと。

 その少し前から、お嬢さんはニャンニャン言いながら一階をぐるぐる歩き回っていたのだが、私はブログ書きが佳境に入っていたので、とりあえず放置していた。

 そうしたら。

 突然、トイレに仁王立ちになったかと思うと、物凄い勢いで砂を掘り返し始めたものである。

 そこに親の仇でも埋まってるのか?という勢いで。

 ケージの前には、掘り返された砂がそれこそ雨あられと降り注いでいる。この勢いで継続したら、五分も経たないうちにトイレは空っぽになってしまうに違いない。

 だが、そうなる前に、彼女は砂堀りをやめた。そして、しとやかに思うところをなすと、すっきりした顔で、優雅に寝床に戻って行った。

 い、いまのは…。

 そ、そうだよね。ただ、砂を掘るのが好きってだけだよね。

 だがその時、

(構ってやらなかったから、キレられたのでは…)

という疑いが、私の頭を掠めたことは否定できない事実である。

 

 

 二つめ。これは今日の午前中の話。

 先に説明すると、今回は、水入れを二階の壁に取り付けてある。百均で買ったかごに同じく百均で買った容器をはめ込んだものだ。

 栗助の時は、家に二つあるヘルスウォーターボウルのうちの一つを一階の床に置いたのだが、今回は爪とぎ用にガリガリサークルを入れたので一階が狭い。スペース省略のために、また、トイレと水飲み場が近いのもあまり良くないとも聞くので、敢えて二階に設置した。

 今朝、一夜明けてケージの中を見ると、二階に敷いたマットが捲れている。敷き直そうとすると、マットも床も濡れていた。察するに、お嬢さんの体が当たって水入れが傾いたか、マットが捲れるときに引っかかったのだろう。

 あ、そうか。

 水を入れるのだから、下にペットシーツを敷くべきだったな。

 そこで、水を取り替えると同時に床を掃除して、今度はマットの上にペットシーツを重ねて敷いた。その一連の作業を、お嬢さんは、三階のクッションの上から興味深げに眺めていた。

 そして。

 私が作業を終え、ケージの引き戸を閉めた途端。

 間髪を入れず二階に降り立ったお嬢さんは、一瞬の躊躇もなく、敷いたばかりのペットシーツを引っこぬいて、まだカリカリの残っているご飯皿の上に放り投げたのである。

 え…?

 いや、これって。

 普通に考えたら、嫌がらせだよね。(まあ、遊んだのだろうが。)

 笑えるのは、そのペットシーツが綺麗に折りたたまれていたことである。やっぱり、礼儀正しい淑女には違いないのだ。

(なかなかの大物だ。)

 私はさらに、彼女が好きになった。 

 

 

証拠写真。ペットシーツの下にカリカリの皿があります。)
 

 

 そんな大物お嬢さんであるから、自分より大きな男子猫たちに凝視されても、華麗にスルーしている。

 逆に、男子たちの方が、警戒して腰が引けているのだ。特に栗助が。

 今日も暑かった。私はクーラーより扇風機が好きなのだが、リビングの温度計も三十二度に達したし、だいいち、布で覆われたケージにいるお嬢さんは暑かろうと思い、午後二時を回った後、ようやくクーラーのスイッチを入れることにした。

 クーラーを入れたら、当然ながら窓を閉める。そして、リビングのドアを閉めようとしてはたと気が付いた。

 猫どもがいないじゃないか。

 二匹とも、北側の部屋に行っていた。

 クーラーを入れないなら、北側の部屋の方が涼しい。それは分かっている。だが奴らは、普段、それでもリビングか寝室で寝ているのだ。

 つまり。

 奴らは、お嬢さんを警戒して、北側に逃げていたのである。

「アタ、クリ、こっちおいで。クーラー入れるよ。」

 呼びに行ったのだが、二匹とも頑として動かない。まあ、北側の部屋は窓を開けておけばそこまで暑くないし、とりあえずいいやと、放っておくことにした。

 こうして、ほんの一時であるが、本日我が家の猫界では、「新入り女子のみが冷房の恩恵に浴する」という異例の事態が発生したのである。

 その後、もう一度呼びに行ったら、栗助だけが戻ってきたのだが、それは奴がアタゴロウより暑がりだからではないか。ただし、戻ってきたら今度は押入れに籠ったのだが。 

 

 

 

 そうは言っても、男子どもも少しずつ、ケージに近付きつつある。

 アタゴロウとお嬢さんは、距離はあるものの、何度も見つめ合っている。即ち、お嬢さんの存在はしっかり認識されているのであるが、だが彼は変わらず平常運転である。

 ご飯もしっかり食べる。出すものも出す。甘えるときは甘える。

 問題は栗助である。

 さすがにご飯時には、アタゴロウと連れ立ってやってくるのだが、催促だけしておいて、いざ食べ始めると、急にお嬢さんが気になるらしい。一口食べては振り返り、また一口食べては振り返り、しているうちに、何かの拍子に食べるのを止めてしまう。結果、食欲はあるようだが、普段の三分の一もお腹に入っていないように見える。

 先程、私がアタゴロウのカリカリ催促に(内緒で)応じていたら、栗助がのっそりやってきた。さすがに空腹なのだろう。そこで栗助にもカリカリを一食分近く出してやったのだが。

 お腹は確かに空いていたらしい。ガツガツ食べ始めた。が、このときもやはり、突然、途中で止めて、遠巻きにケージを見に行くではないか。

 やむなく、そこに皿をデリバリーしてやると、我に返ったようにまた食べ始める。そしてまた、途中でケージを見に行く。

 これを三~四回繰り返し、ようやく完食した。

 相変わらず、手のかかる男である。

 だが、栗助はいわゆるビビリではない。神経質でもない。基本的に呑気な奴なのだが、ただ、「いつもと違う」ことが、とにかくキライなのである。

 自分のルーティンと違うことはしたくないし、してほしくない。目新しいことは「見るだけ」なら良いが、それに合わせて自分の生活習慣を変える努力は、さらさらする気がない。

 そんな彼を、私は密かに「史上最強のものぐさ男」と呼んでいる。

 綺麗な言葉で言えば、「環境の変化を受け入れるのに時間がかかる性格」とでもなるのだろうか。繰り返すが、彼はビビリでも神経質でもない。もとより大家族(多頭飼育)の中で育ち、カフェ猫として働いていたのであるから、多頭環境には慣れているはずだし、女子猫と付き合えないということも考えにくい。

 彼も少しずつであるがケージとの距離を詰めているし、最終的には仲良くなるであろうことを信じている。

 ちなみに彼も、出すものはきちんと出している。

 

 

 

 でもね。

 ここまで書けば、私の言うこと、分かるでしょ。

 賢い茶白お嬢さんと、図体だけ無駄にデカい栗助。

 まだトライアル中だから大きな声では言えないけど、あれはキリキリ舞いさせるお嬢さんだと思う。ものぐさお坊ちゃまの手に負えるタマじゃない。

 まだ祝言も上げる前に、というより、お見合いもする前に、私の中では、すでにカカア天下確定なのである。

 

 

クリストファーが乙女に会いたくなかったのも、そのへんを予感したから、なのかもね。

 

 

(例によって茶白嬢のご飯を狙うアタゴロウさん。)