紳士協定


 
  
 アタゴロウは、現在、生後11ヶ月である。
 まだ1年未満なので、キャットフードにおけるライフステージ上は「仔猫」にあたる。(たいていのキャットフードは、1歳未満の猫を「仔猫」としている。)
 で、あるから、奴には、カルカン「こねこ」用パウチと、ドライフードはロイカナの「キトン」を与えている。
 対して、ダメちゃんは、パウチが「ミオ」。ドライフードはずっと、ロイカナの「満腹感サポート」を与えていた。いずれも、万年ダイエッターの彼のために、私が知る限りでいちばんカロリーが低いものを選んだ結果である。(もっとも、ダメちゃんのドライについては、ヨメの“遺品”のユーカヌバ「減量アシスト」改め「Rアシスト」を、近頃は食べてもらっているのだが。)
 つまり、奴らの食事は、カロリーの上で天と地ほどの隔たりがあり、従って、家主の役割は、奴らが互いに相手のごはんを食べないように監視することであった。
 猫山家に来たばかりアタゴロウは、当初、ダメちゃんの皿にも構わず頭を突っ込んでいた。無理もない。大勢の中で暮らしてきたチビには、「自分の皿」などという概念はなかったのだから。
 それがいつの間にか、奴は奴の位置にスタンバイし、自分の皿を待つようになっている。盛り付ける前のカリカリの保存容器から直接食べようとすることもなくなった。
 この辺については、うちの猫どもは偉いなと思う。
 そういえば、ミミさんはもちろん、ヨメもその点は、きちんと守っていた。
 他猫の皿の物を強奪しない。
 ごはんは、よそってもらうまで待つ。
 それは、猫山家の家訓として、代々の猫に引き継がれてきている。
 
 
 別に、自分の躾の自慢をしているわけではない。
 私は、大した躾などしていない。保存容器から盗み食いしようとすればもちろん叱るし、今回のアタゴロウのように、ルールを知らずに他猫の皿に首を突っ込む奴がいれば引き分けていたが、それくらいは、どこの家でもしていると思う。それでも、「お互いの皿の物を奪い合う」というのは、通常、多頭飼いの家では普通に見られる光景ではないだろうか。
 ではなぜ、伝統的に、我が家の猫どもは、他猫の皿から奪うことをしないのか。
 家主的にも不思議に思って、しばし考えてみたのだが――。
 
 
 察するに、ダメちゃんが後輩たちを教育しているのではないか、と。
 
 

(在りし日のミミさんと)
 
  
 かつて、このブログを始める前、ミミさんがご健在だった頃、「ダメちゃんニューズレター」に書いたネタ。
 文面が残っていないので、あらすじだけを再現する。タイトルは「ぼくは『じぇんとるまん』だから」
 当時、ミミとダメは一緒にごはんを食べていたが、病気のせいもあったのか、とにかく、ミミは食べるのが遅かった。二匹同時に食べ始めるのだが、必ず、ダメが先に食べ終わる。
 しかし、彼は万年ダイエッターで食事量を制限されているため、自分の分を一気食いした後も、まだまだ食べたい気持ちでいっぱいのまま、超低スピードで食事を続けるミミさんの皿をじっと見つめている。
 それも、至近距離で。
 なぜ至近距離かと言うと。
 ミミが、ときどき、ごはんをこぼすからである。
 床にこぼれたごはんは、拾って食べてもいい。(別に私が許可したわけではないが、彼の中ではそうなっていたようだ。)
 だが、他猫の皿から強奪してはいけない。
 切ない眼差しでミミの皿を見つめながら、ひたすら彼女がごはんをこぼしてくれるのを待ち続けるダメちゃん。いかほどの葛藤が、彼の中にあったのだろう。
 そして、私は、見てしまったのだ。
 ダメがそっと、ミミさんのお皿に手を入れて、中のカリカリを一粒、掻き出すのを。
 床にこぼれたそれを、彼は拾って食べた。
 そうまでして、彼は、猫の尊厳を守り抜いた男なのだ。
 
 
 ヨメもアタゴロウも、この崇高なる志に共鳴して、彼の皿に首を突っ込まなくなったのではないか。
 
 
 なお、誤解のないように書き添えておくが、このルールはあくまで「他猫を押しのけない」ことを主眼とするものであって、皿の主が皿の前を離れたら、残りのごはんは失敬してもよいことになっている。食事時に家主の監視が必要となる所以である。
 
 
 と、まあ、そんなわけで。
 我が家の食事風景は、割合、平穏・平和的なものなのだが。
 8月に入ったころからだろうか。どうにも不思議な現象が頻繁に見られることに、私は気が付いた。
 次の二枚の写真を見てほしい。下の写真は、上の写真のわずか2分後に撮影したものである。
 
 

 

  
 
 猫が、入れ替わっている。
 私は猫にごはんを食べさせながら、同時進行で、洗面所で身支度をしていたり、台所仕事をしていたりする。従って、距離的には非常に近いところにいるはずなのだが、ちょっと目を離すと、必ずこの現象が起こっている。
 つまり、極めて静かに入れ替わっているのだ。
 揉めている様子、喧嘩している様子が、全く、ない。
 一体、いつ、いかなる経緯で入れ替わっているのか、真相が知りたくて見張っているのだが、私が見張っていると、奴等は入れ変わらない。
 明らかに、私を警戒しているのだ。
 それはまあ、無理もない。この「入れ替わり」を見つけると、私は常に怒って、力ずくで猫を入れ替え直していたのだから。(皿の方を入れ替えれば良い、という発想は、つい最近まで浮かばなかった。)
 だが、だいたい察しはつく。
 この頃、アタゴロウは、「こねこ」パウチに飽き始めている。しかも、彼は、山のてっぺんで寒い思いをしたくらいで、実際には野良のサバイバル生活をほとんどしていない(多分)ので、やはり、食べ物に対する執着が薄い。だから、ちょっと食べて気が乗らないとすぐに皿を離れるし、また、ダメちゃんの「ミオ」にも興味を持っているようだ。
 で、あるから――。
 
 
 私の書いたシナリオはこうだ。二匹の前に皿が置かれ、とりあえず、それぞれ自分のごはんに口をつける。だが、アタゴロウはちょっと食べただけで「こねこ」に飽き、フラフラとダメの皿を覗きに行く。争いを嫌うダメおじさんは、それを見て自分の皿を離れ、アタゴロウの放り出した「こねこ」の残りを食べに行く。
 争いが嫌いなだけではない。ダメちゃんには、自分のごはんが残っていても、他猫の皿に残り物があると、それを先に食べに行く習性がある。自分の皿のごはんは禁じられることはないが、他猫の残り物を食べているところを私に見つかると、即座に取り上げられてしまうことを知っているからだ。
 さらに、ついでに言えば、ダイエット経験のある人なら、誰でも知っていることだろう。ダイエッターにとって、カロリーの高い食べ物は、魔性の魅力を持つということを。
 こうして、猫の入れ替わりが完成する。
 つまり――
 アタゴロウが悪い。
 
 
 ネコヤマ・ダイジーの崇高な教えに従わないとは、猫山家の一員として失格である。
 彼の高潔さに心酔する私としては、何よりも、そのアタゴロウの傲慢さが許せない。
 ここはひとつ、彼に代わって、家主の立場から一言、言ってやらないと…。
 
 

  
  
 と、いうわけで。
 歯を磨きながら、洗い物をしながら、猫どもの様子を横目でこっそり観察し、現場を押さえる機会を狙う日々が続いていたのだが…。
 
 
 私は告白する
 私は長いこと迷っていたのだ。その顛末を、ここに書き残すべきであるかを。
 その真相が、あまりにも衝撃的なものだったゆえに。
 
 
 そう。
 先にアタゴロウの皿に頭を突っ込んでいたのは、ダメちゃんの方だったのだ。
 
 
 二匹は、それぞれの皿から自分のごはんを食べ始めた。
 と。
 ものの2分もしないうちに、ダメはさっさと自分の皿を離れ、アタゴロウがまだ自分の「こねこ」を食べている皿に、ためらいもなく頭を突っ込んだ。
 突然現れた大頭に、思わず首をひっこめるアタゴロウ。
 権力に屈した少年は、なすすべもなく自身の食事を差し出し、残された皿へと歩み去ったのであった。
 
 
 ああ…
 
 
 ダメちゃん…。
 キミは、「じぇんとるまん」ではなかったのか。
 
 
 さしずめ、ゼミの指導教授が痴漢行為で逮捕された女子大生のような気分であった。
(註:あくまで想像です。亡き私の恩師はそんなことはしていません。)
 
 

  
 
 彼の名誉のために書いておけば、その後も何度か現場を押さえたのだが、アタゴロウの方が先にダメの皿にやってくることもあった。常にダメが「主犯」であったわけではない。
 だが、問題の焦点は、確実に移ってしまっていた。
 入れ替わり行為の是非の問題ではない。かつて「じぇんとるまん」として社会的に高い評価を受けていた男が、自らその名声を失墜させるような行為に走っていたのだ。
 その事実が、社会に与えた衝撃は大きかった。
 ネコヤマ・ダイジーの名は、地に堕ちた。
 禁断の高カロリー食の代償は、あまりにも高くついた。
 
 
 そして、昨日。
 事件は極めて不完全な形で幕を引くこととなる。
 
 
 アタゴロウが、「こねこ」を、完全に拒否したのだ。
「ふりかけ」(カリカリを上にまぶす)にしたり、「ライスカレー」(カリカリの上に乗せる)にしたり、最終的には、カリカリの山の中に埋めて隠して食べさせたりと、私もずいぶん頑張ってきたのだが、ついに根負けした。というか、馬鹿馬鹿しくなった。
 何だって、毎食毎食、こいつに付きっきりでお給仕してやらねばならんのだ。
 アタゴロウだって11ヶ月、もう大人用のフードでも良いだろう。
「こねこ」は、だいたい9月末くらいに食べ終わるように数を計算して購入してあったので、20日分強、余ることになるが、その分は、今度、安暖邸さんにでもお願いして、引き取っていただけばいいではないか。
 と、いうわけで。
 奴は昨日から、ダメちゃんと同じ「ミオ」を食べている。
「ミオ」は口に合うらしく、アタゴロウも一心不乱に食べる。二匹がほぼ同時にウェットフードを食べ終わるようになったので、入れ替わり問題は自然消滅した。
 人間の味覚が大人になるにつれ変わるように、猫の食べ物の嗜好も、成長に合わせて変わっていくのだろうか。
 11ヶ月と言えば、人間年齢に換算すれば、高校生くらいだろうか。「こねこ」は、そろそろ麻雀や花札を覚え始めたお年頃の彼には、我慢できないほどに子供っぽい味だったのかもしれない。
 あるいは、彼も、ついにカロリーを気にするようになったのか。(いまどきの男子高校生らしく。)
 だが、そうは言っても、僅差でダメが先に食べ終わると、やはりおじさんは、少年のごはんにちょっかいを出しに行く。そう、問題の本質に、何ら変化はないのだ。
 加齢とともに、若き日の理想を忘れたネコヤマ・ダイジー。それとも、彼の「じぇんとるまん」行動は、対女性限定だったのだろうか。
 それも考えられる。
 だとしたら、彼はフェミニストだったのか。あるいは、恐妻家だったのか。
 
 

  
  
 しかし――
 実は、それだけでは説明できない問題が残っている。
 無遠慮に互いの皿のごはんを喰い合うことにより生じる、猫の入れ替わり現象。ただ、それはなぜか、彼等がウェットフードを食べている時にしか起こらなかった。
 前にも書いたが、我が家の猫ごはんは、まずウェットフードを食べさせ、食べ終わると続けてカリカリを出す、という手順になっている。
 アタゴロウに「こねこ」を食べさせるのに手こずると、結果的に、素直に食べるダメの方が、食事全体の終了は早くなる。先に食べ終わったダメは、アタの皿を横目にごはん場所を立ち去り、いつも静かに食後のグルーミングをしていた。しかし、決して満腹していたわけではなく、アタゴロウが皿の前を立ち去ると、さっそく戻ってきて皿を検分し、残り物があれば、きれいに平らげていた。
 つまり彼は、今までどおり、アタゴロウが食べ終わるのを待っていたのだ。
 アタゴロウも同じで、ダメより早く食事を終えると、ダメがカリカリを食べている至近距離に向かい合い、彼がこぼした粒を拾おうとしていた。
 どちらも、カリカリを食べている相手の皿には、頭を突っ込もうとしなかった。
 これは、何故なのだろう。
 ネコヤマ・ダイジー堕落説も、大治郎フェミニスト(恐妻家)説も、この点には、何の説明も与え得るものではない。
 
 
 私は確信する。やはり奴らは、私に隠れて、密かに協定を結んでいたのだ。
 
 
 
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(紳士協定締結の図)