猫本考


(※このブログ上では、上記の作者の名前が文字化けにより一文字表示されません。ご了承ください。)
 
  
 本屋に入ったら、思いがけない収穫があった。
 他の本を探してはじめて入った店で、いずれ読みたいと思っていた、ポール・ギャリコの「トマシーナ」と、内田百 の「ノラや」の二冊を、いっぺんにゲットした。猫好きの方なら、タイトルくらいは聞いたことがあるかもしれない。いずれもいわゆる猫文学である。
 もっとも、二冊揃って見つかったのは別に偶然ではなく、その書店が折よく「猫本フェア」というのをやっていたからであった。店内に足を踏み入れたとたんに、「猫本」の文字が目に入り、そのまま吸い寄せられるように書棚の前に立った。そうして、出逢った。
 その特設コーナーには、ブログ本や写真集なども、もちろん、幾つも展示されていたが、その中に、こうした文学の本が堂々と混じるところが、猫の凄いところである。思えば、文人や画家や音楽家や、今どきなら俳優や映画監督など、文化人には猫好きが多い。犬好きも同じくらいいるのかもしれないが、作品への反映度の問題なのか、圧倒的に猫派が目立つ気がする。その辺りが、猫好き一般市民の虚栄心をくすぐるところでもある。
 私はそういった「猫本」が好きだ。タイトルに「猫」とつくと、つい、手にとってみたくなる。ずいぶん前のことになるが、タイトルを読み間違えて、中身を確認もせずに、石川淳の「白描」という小説を買ってしまったという、笑える過去もあるくらいだ。
 あるいは、それは母の影響かもしれない。実家で猫を飼い始めた途端、母は猫本に興味を示し始めた。図書館に行くと、必ず一冊くらいは「猫」とつく小説やエッセイ本を借りてくる。そして、そういった本は、実に数限りなくあるらしかった。
 居間の座卓の上に無造作に置かれたそれらを手にとって拾い読みするうちに、自分もいつしか、「猫」がつく本に反応するようになってしまったらしい。
 ちなみに、その母の乱読により出会い、後日、自分で見つけて購入して、今のところ私の一番の「お宝本」となっているのが、大佛次郎の「猫のいる日々」である。大佛次郎なんてムズカシそうで、猫本でなかったら、おそらく、読んでみようなどという気はおこさなかっただろう。そう考えると、猫という連中も、たまには役に立つものである。
 
 
 買ったばかりの本を抱え、ホームで帰宅の電車を待っているそばから、待ちきれなくて、「ノラや」の表紙を開いた。
 副題に「内田百 集成9」とある。全24巻の「集成」のうち、猫に関する作品ばかり集めた巻、ということらしい。
 巻頭に収められた「猫」という作品は、すでに読んだことがある。読み返してみて、改めて奇妙な感じを受けた。
 百 作品は、私にとっては、むしろ怪奇文学のような印象が強い。この「猫」も、猫を不気味なものとして描いており、猫に対する愛情も親しみも、少なくとも表面上は感じとれない。この作者が、後に、姿を消した猫を案じて毎日涙を流す猫バカオヤジ(失礼!)と同一人物であるとは、到底、思えないのである。(百 は自ら「子供の時は家で猫を飼っていた」と書いているので、この時点では猫について無知であった、という理由ではないと思う。)
 次の「梅雨韻」然り。「白猫」然り。
 家に帰ってから、悪い癖で、中身をパラパラと開いて拾い読みするうちに、偶然、その疑問に対する答えを見つけてしまった。
「ピールカマンチャン」という随筆の中に、「実は私は猫が好きではない。」という一文があったのだ。
 またまた、強がっちゃって…と、微笑んで流すこともできる一文であるが、これはこれで、本音なのかもしれない、と、私は何となく納得した。
 そういえば、百 の師である夏目漱石も、「吾輩」のモデルとなった猫に、本当に名前をつけなかったと聞いた。「吾輩」の文中でも、苦沙弥先生は「吾輩」に、驚くほど無関心で冷淡である。だが、その割に、猫の方は先生の膝に乗り、先生が身動きするのを「険呑でたまらない」と愚痴っていたりする。
 猫に対する複眼的な視線、とでも言おうか。
 宅の猫をいっぱしに可愛がりながら、猫そのものに対する見方は、クールで客観的であったりする。あるいは、深い愛情や執着と言うものを意識に上らせることなく、ごく淡々と猫と付き合い、観察した結果、期せずして人間と同様の処遇と敬意を与えていたりする。
 これが、猫との「文化人的な」付き合い方なのかもしれない。
 というより、こんな付き合い方もできるということが、猫が文化人を魅了する理由なのかもしれない。
 
 

  
  
 日本獣医生命科学大学図書館の司書さんが書いている「この一冊」という書評を、愛読している。大学が大学なだけに、動物に関連する本の紹介も多く、なかなか読む機会のない専門的な本も「さわり」が分かって面白いのだが、その書評で、今回は木村衣有子氏の「猫の本棚」という著作を取り上げている。
 先に断わっておくが、私はその本を読んでいない。書評を読んだだけである。
「猫の本棚」は、ひとくちに言えば、猫文学や猫作品を木村氏なりの視点からまとめ、紹介している本であるらしい。「猫文学を読む」「猫を知る」という、二部構成になっているそうだ。
 書評の書き手は、「猫とヒトとの関係」という視点から、本作のとるスタンスについて論じている。「今よりクールに猫と付き合っていた時代」から「今風のカンケイ」まで、作者は「公平に寄り添う」という。どちらにも共感しつつ肩入れはしない、ということか。
 私とうちの猫どものカンケイは、いかにも現代的である。完全室内飼い。食事はキャットフード。愛情過多・スキンシップたっぷりの、べったりな依存関係。
 だが、私が内心憧れるのは、漱石や百 、あるいは大佛の作品に見られるような「今よりクールに猫と付き合」う関係だ。猫は猫、人間は人間で、お互いに自分の世界を持ち、都合のよい部分だけ頼り合い密着しているような関係。家猫が縁側から好き勝手に座敷に出入りし、戸外で会うと、宅の猫も野良猫連中と渾然一体となって、瞬時には見分けがつかないような、そんな関係に憧れる。
 月の明るい晩、酩酊放歌しながらの帰り道、宅のトラが塀の上でご近所の三毛に肘鉄砲を食らっている現場に遭遇し、思わずお互い気まずそうに目をそらす――そんな経験をしてみたい。
 書評の書き手が言うように、誰しも、自分と猫との関係について、一方的に突っ込んで欲しくないという思いがある。それは一つには、自分と猫との、一見甘甘な、「現代的」関係が、必ずしもその理想とするところではない、という潜在的な自覚があるからだ。あるいはそれが、精神論的には、見た目どおりの甘甘ではない、という自負があるからだ。少なくとも、私の場合はそうだ。
 失踪した猫・亡くなった猫を惜しむ作品を数多く上梓しながら、「私は猫が好きではない」と言い切る百 の心理もまた、似たようなものではないのか。
 思えば、飼い猫という存在そのものが、最初からその矛盾を孕んでいるのである。人に擦り寄り、甘えてくる猫を可愛いと言いながら、野性味を残しているところがいい、気まぐれで媚びないところがいい、などとうそぶく。猫飼いという人種は、そもそもその矛盾を楽しんでいるようなふしがある。
 文学が、あるいは芸術そのものが、人間心理の矛盾や錯綜を描くものであるなら、猫はその重要なシンボルとして、あらゆる構図の中にぴたりと収まる。となれば、文人が猫を愛するのは、至極もっともなことなのだと思えてならない。
 
 

(作品「カオス」猫山縞子作。)
 
 
 実は、この原稿を書き始めたのは先週のことである。猫本をゲットしたのは、15日の午後。日曜日までにはブログを更新するつもりで書き始めたものの、書き終わらず、やむなく延期とした。
 で。
 書きかけの原稿に手を入れ、続きを書こうとして、はたと気が付いた。
 結論を、忘れた。
 おおまかな文案は頭の中に出来上がっていたはずなのだが、起承転結の結の部分が、どうしても思い出せない。書いているうちに自然に思い出すだろうと思って、とりあえず書きすすめていたのだが、ここに至っても、まだ思いださない。
 どうやら、なんとなく納まりが悪いが、ここで締めくくらなければならないらしい。
 それにしても、さっきから、猫どもが代わる代わる、原稿を書いている私の邪魔をする。最初はダメが、膝の上で、私の左手首を枕にしていた。おかげで、私は右手だけでキーボードを叩いていたのだが、その効率の悪いこと。
 ダメが膝から降りた後は、待ちかねたように、アタゴロウがやってきた。こいつは小さいので大して邪魔にはならないのだが、せっかく猫を賛美する文章を書いているそばから、膝の上で残念柄の腹を出されたのでは、気が削がれることこの上ない。
 だいいち、そんなことをされると、つい、手を止めてちょっかいを出したくなるではないか。
 いじっているうちに、手にじゃれついてくる感触がチクチクするので、つかまえて爪を切ってやった。こいつも最近、爪切りに慣れたらしく、半分寝ぼけながら前足を掴まれるがままになっている。ちょうどいいので、そのまま後足まで、18本全部切ってやった。
 切りながら、思った。
 漱石も百 も大佛も、猫の爪なんか、切らなかっただろう。
 だが私は、猫の爪切りが好きだ。
 どうやら、うちの猫どもは、飼い主を文化人にしたいなどという野心は、これっぽっちも持ち合わせていないらしい。飼い主の方も、文化人になるより、猫の爪切りがしたい。
 結局、人が何と言おうと、甘甘の関係でもまあいいか、と、きわめて猫的な思考に陥っている、凡庸なる飼い主なのであった。
 猫どもの方は――最初から、現在の甘甘の生活から抜け出す気など、さらさらないに違いない。猫とは、そういうものだ。
 やはり、こんな連中が文化人に愛されるというのは、何となく釈然としない気もする。
 
 
(略) 
 洗面所の足拭きの一件を離していたら、お勝手の境の襖を、向うからがりがり引っ掻く音がする。
「ふんし箱にしませんか」「もともと野良猫だからね」
「僕がですか」と云った様な気がする。                   
                        内田百  「彼ハ猫デアル」より