こたつとお菓子とお正月
正月二日である。
昨日元旦は、実家に行っていた。
お正月だから実家に帰るのは当然、といったところなのだが、正直なところ、私なんぞは、実家に行っても、やることがなくて暇を持て余す。
仕方がないので、母を相手に、何時間も食卓に陣取り、お腹がガボガボになるまでお茶を飲むことになるのだが、このとき思うのは、
(こたつがあればいいのにな…)
ということである。
実家は、現在のマンションに引っ越すとき、思い切ってこたつをやめた。
床暖房があるから、というのが主な理由であるが、私も現在のマンションに引っ越すときは、ホットカーペットを使うという理由で、こたつをやめようと考えた。
が。
結局、我が家では、こたつは見事に復活をとげている。
理由は、「客人が来たときに便利だから」ということで、当初は、来客時だけ出すつもりであったが、あまりの気持ちよさにそのまま出しっぱなしとなり、やがて、
「猫が入るから」
という理由で、合法的に定着した。
こたつには魔物がいる。人間の意識を失わせ、猫の姿を消してしまう魔物が。
本当は、実家のように、こたつを出さずにリビングを広々と使う生活の方が、正解なのかもしれない。だが、やめられない。こたつの魔物が、やめさせてくれない。
今回、日帰り帰省をするにあたり、考えた。
実家にいる数時間、何か有意義な暇つぶしはないものだろうか。
そこで考えついたのは、「お菓子を作る」という手である。
毎度、実家に帰る時は、お土産がわりにケーキを買って持って行くのだが、これを買わずに、実家の台所でデザートを作ればいい。暇つぶしになるし、お正月らしくのんびりと楽しめるし、さらに、ケーキ代の節約になる。これはいいアイディアだ。
そう。私だって、高校生の頃は(って、何十年前だ?)、自宅でケーキを焼いて学校に持って行ったりしていたものである。
私はお菓子が好きだ。姉と違って基本的に料理好きではないので、食べる方がメインではあるが。
多分、今のマンションに住み始めた頃だと思う。今度は、「おいしいお菓子を見つけては人に配る」という趣味ができた。気に入ったお菓子屋さんのお菓子を大量購入しては、
「これ、おいしいから食べてみて!」
と、人にふるまい、相手から、
「美味しかったから、自分でも買ってみたわ。」
という反応が帰ってくることを、無上の喜びとしていた時期があったのである。
しかし、そのブームも、いつの間にか過ぎ去って久しい。
相変わらずお菓子は好きなのに。人に喜んでもらうのも、おいしいお店を紹介して広めるのも、楽しいと思う気持ちは同じなのに。
何がきっかけで、あれを止めてしまったのだろう。
考え始めたところ、もしかしたら、という記憶が出てきた。
私が最後にハマったのは、通販のクッキー屋さんである。無添加で、注文を受けてから焼いて出荷するというお店なので、届いたら何日以内に食べてくださいという指定がある。
そのクッキーを、当時、本社勤務だった友人に食べてもらいたいと思った。
彼女は仕事が忙しく、ほぼ毎日残業続きだと聞いていたので、陣中見舞いを兼ね、定時が終わってから、本社に届けることにした。
ところが、彼女にメールで、「今日、クッキーを持って行くよ」と知らせると、その日はたまたま、残業とならず、全員帰宅してしまうという。
「じゃあ、机に置いていくから、明日食べて。」
せっかくだから、美味しいうちに食べてもらいたい。再びメールを送ったところ、最近、ネズミが出るようなので、机上に置かずに、引き出しの中にしまっておいてほしいという返事が返ってきた。
果たして、本社に到着し、彼女の机まで来てみると、本当に誰も残っておらず、机の上も全員きれいに片付いている。あまりきれいなので、この課の人たちは何と几帳面なのだろうと、本気で感心した。
その片付いた机の上に、テラテラと光る厚紙が並べてある。何か乾かしているらしい。何を作っているのか知らないが、乾かないと次の作業ができないとか、そういうことなのだろう。なるほど。だから、今日は残業なしで全員帰りなのか。
彼女の机の引き出しにクッキーの箱を入れた後、分かるようにメモを残そうと思った。
傍らのカウンターで、メモ用紙にボールペンで用件を書き、彼女の机のほどよい位置に置こうとしたとき。
「あ…」
メモ用紙を、落としてしまった。しかも、運の悪いことに、その小さな紙はヒラヒラと空中を舞って、その乾燥中の厚紙の上に落下してしまったのである。
慌てて拾おうとしたところ――。
何と。メモ用紙は、その、まだ乾いていない塗料のようなものに貼りついてしまい、取れなくなってしまっていたのである。
「ど、どうしよう…」
何とか剥がそうとして焦っているうちに、今度は、自分の服の袖が、塗料に触れてしまった。
もう、破れかぶれである。
とにかく、力づくでその厚紙を自分の袖から引き剥がし、メモ用紙も剥ぎ取ったが、鏡面のように美しく塗られていた塗料は、見る影もなくぐちゃぐちゃになっていた。
何てことを――。
人様の職場を荒らすなんて。取り返しのつかないことを。
半泣きで彼女に電話し、ことの次第を話して平謝りに謝ると、
「大丈夫だから。気にしないで。それより、自分は大丈夫だった?」
優しく慰められて、友情の温かさに落涙した。
察しの良い人は、もうお気づきだろう。
私の袖にくっついた「乾燥中の厚紙」。その正体は実は「ねずみ取り」であった。
その後、彼女の職場で、私は「ねずみ取りにかかった人」と言われていたらしい。
多分、これに懲りて、私はお菓子の伝道をやめたのである。
なお、実家で作ったチーズケーキは、一応、美味しくはできた。ただし、型がないので有り合わせの皿に作ったせいもあって、盛り付けるときに見るも無残に崩れてしまったので、写真は撮っていない。
(実家のななとりり)
そんなわけで、現在の私は、お菓子が好きと言っても、作りもしないし、積極的に美味しいお店を探すわけでもない。食べる専門となり下がっているわけであるが。
それを不健康な悪癖だとは、私は思っていない。
食べることは大切なのだ。確かに、カロリーオーバーでコレステロールが高くて糖分が多すぎる、となると、健康には悪いだろう。だが、少なくとも、私の見る限りでは、年齢を重ねてもパワフルで、溌剌としていて、若々しくて、人柄的にも度量の大きい人。つまり、将来はこうありたいと思う女性は、みんな食べることが大好きなのだ。
たくさん食べる人。
料理の好きな人。
食べ物の「おとりよせ」が大好きな人。
それぞれ、「体重が」とか「カロリーが」とか、健康管理上の悩みを口にするが、そういう人たちほど、その他の趣味が多いし、まめに色々な活動に参加していて、友達も多い。見るからに人生楽しそうなのだ。
食への関心は、イコール、生命の原動力なのだと思う。
食べることに貪欲になれる人は、人生そのものに貪欲になれる。
そんな大好きな先輩方の姿を何人も思い浮かべつつ、ふと、大事な人を忘れていたことに気付く。
わが母。身近すぎて思い至らなかった。
私が物心ついたころから、母はとにかく甘いものに目がなかった。料理は苦手だと言いつつも、子育てが一段落すると、完全に趣味として、料理教室に何年も通っていた人でもある。その中で、一番気に入っていたのが「パン作り」で、当時は道具も色々買い揃えて、楽しそうに作っていた。
私のお菓子好きは、そんな母の血筋なのかもしれない。
ちなみに、母が料理を苦手と公言していたわけは、「自分は四女なので、結婚するまで台所に立たせてもらえなかった」からだという。なお、その状態を母は自分で「猫のしっぽ」と呼んでいた。その「猫のしっぽ」が、後期高齢者となり、現在は猫を膝に乗せて三度の食事を摂っている。猫の方は、その「猫のしっぽ」に、毎日ごはんをもらっている。
その母と姉が、今日は、我が家に訪ねてきた。私が現在のマンションに引っ越して以来、多分、十五年以上続く習慣である。
例年、母と姉は、実家からこちらに到着するまでの間に、デパ地下を物色して、福袋を買う。即ち、「お菓子の福袋」である。
一時期は、一体これ、何ヶ月かけて食べるの?と訊きたくなるくらい、大量の福袋をかかえてやってきていた。(そして、おすそ分けを置いて行った。)
昨日、あしたは何時頃来るの?などと会話しながら、ふと、
「買い物はどうするの?」
と、尋ねてみた。
すると、思いがけず、姉が、
「買い物はしない。」
と、言うではないか。
「だって、お母さん、福袋買わないの?」
「もう、いいんだって。歩きまわると疲れちゃうから。」
何と。
この人がお菓子の福袋をやめるとは。母もトシなんだな、と、少し淋しく思った。
だが、それなら、わざわざ電車を乗り継いで、遠くまで外出することもないのではないか。それこそ、疲れるだろうに。
「買い物しないなら、ついでがないのに、うちに来てもらっていいの?」
一応、気を遣って言ってみると、母が小さい声で答えた。
「いいの。ついでじゃなくて、楽しみにしてるのよ。お宅の猫に会うのを。」
そう。母にはもう一つ、「猫」という重大な関心事があるのだった。
そして、今日の午後。
駅前で遅めのランチをし、デザートを買って、我が家に到着した時。
私は一計を案じて、こたつ(ホットカーペット)にスイッチを入れた。
ヒーターは点けない。
そうしておけば、もしかしたら、玉音も先日のように、こたつの中に潜るかもしれないと思った。
結果は、みごとに外れた。野良娘は、アタゴロウ(多分)が開けておいた襖の隙間から押入れに飛び込んだきり、全く姿を見せなかったものである。
代わりに。
アタゴロウがかかった。
姉が様々なおもちゃを振ってみても、今一つノリが悪く、釣り上げることができなかったアタゴロウであるが、うっかりこたつに潜りこんだら、暖かさに蕩かされてしまったらしい。
ちょうど私の手の届くところにいたので、こたつに手を入れて撫でていたところ、気持ち良さそうに顎を私の手に預けてきた。姉の手もかろうじて届く位置だったので、姉もこたつに手を入れて、尻の方を撫でていた。
頃合いをみて引っ張り出し、私の膝に乗せた。アタゴロウは、ぼうっとしていたらしく、そのまま私の膝で、落ち着いてしまった。
私の膝の上のアタゴロウを、こんどは母が撫でた。
ムショから出て以来、すっかり人見知りになって、来客には姿も見せなかったアタゴロウであるが、ついに、客人に触らせる猫になったわけである。
調子に乗って、母の膝に移そうとしたら、それはさすがに逃げた。が、比較的近くに留まって、ダメちゃんと共に、姉の振り回すおもちゃで遊んでいた。
とりあえず、母は喜んでくれた。
ちょっと違った結果であったが、一応、作戦は成功したわけだ。
ランチから家までの道中、デザートを物色して駅周辺をうろうろしたため、母は途中で足が痛くなってしまったらしいが、これで面目を施した。母自身、来た甲斐があったと思ってくれたことだろう。
もう一つ。
私にとっては、嬉しいことがあった。
デザートを物色中、母が誘惑に負けて、福袋を買ったのである。
母の甘いものへの執着は、健在であった。母は痛い足でゆっくりと歩きながら、嬉しそうに、ケーキ屋の紙袋を抱えて、自らの猫が待つ家へ帰って行った。
母と姉が帰った後、お茶を飲みながら、昨日からの出来事を振り返ってみた。
昨日のケーキ作りは、楽しかった。暇つぶし目的なので、別に手伝ってはもらわなかったが、もともとお菓子作りが好きな母も姉も、あれこれ口を出しながら、一緒に盛り上がった。ついでに、耳が遠くて話の通じにくい父も、美味しいといって喜んでくれた。
やっぱり、お菓子って、コミュニケーションツールとしても優秀なのだ。
それに、疲れるとか足が痛いとか言っていた母だって、結局、嬉しそうに、お正月の楽しみであるお菓子の福袋を買っていたではないか。
そして、こたつ。
常にねこじゃらしによる「一本釣り」がセオリーとなっていたアタゴロウが、ついに「一本釣り」にかからなくなった時、こたつが威力を発揮した。「一本釣り」が駄目なら、「追い込み漁」という手があったわけだ。
いや、この場合、「追い込み漁」というより、「猫ホイホイ」かな。アタゴロウは、うっかりこたつに入ったら、暖かい床面に貼りついて出られなくなってしまったのだから。
とにかく、猫はやっぱり、こたつが好きなのである。
だから、実家だって、こたつを出せばいいのだ。
まあ、そんなことを言ったら、姉に「うちの猫は、アンタが来たって、隠れたりしませんから。」と、言い返されるんだろうけど。
でも、こたつは人間にとっても快適だ。
こたつの気持ちよさは、どんな暖房器具にも勝る。こたつでみかん。それが日本人の幸せと言うものではないか。
ああ。幸せだ。
日本人に生まれて良かった…。
――と、いうわけで。
そのまま寝落ち。
猫の夕食時に至って、ダメちゃんに励まされ、上半身の力を振り絞って、ようやく脱出した。
やはり、こたつは恐ろしい。こたつには魔物が住んでいる。
猫を捕らえようと仕掛けた罠に、自分が掛かった。
と、いうより。
接着型猫ホイホイに、自分がつかまった。
あれ、そんな話、どこかで聞いたことがあるような…!?