帰って来た玉音ちゃん
帰ってきた、と、タイトルにあるが。
あれ、どこかに行ってたの? という質問が返ってきそうである。
そう。一泊だけ。避妊手術に行ってきた。
金曜日の夜に入院し、土曜日の午後に手術をして、夕方には退院。ほぼ丸一日の不在である。
私にとっては、束の間の平和であったが、玉音ちゃんにしてみれば、それは長い長い一日であったことだろう。
話は、今年のお正月にまで遡る。
私が実家に行った時か、姉が我が家に来た時か、どちらだったかは忘れた。
玉ちゃんの野良っぷりについて話していて、
「何しろ、常に隠れてるから、食べてる時しか触れないんだよね。」
と、私が軽い気持ちで口にしたところ、姉が、
「あら、じゃ、避妊手術の時はどうするの? 手術の日は、朝、絶食でしょ。」
衝撃の一言であった。
そのとおり。朝ごはんを食べさせないとなると、手術の朝、私には玉音を捕獲する方法がないのだ。
気が付かなかった…。
だがこれは、ほとんど死活問題である。
「前日に入院させてもらえば?」
「――うん。頼んでみる。」
と、いうことで、その時点で玉音ちゃんの入院は決まった。
いつ頼もうかな、と思っていたら、玉音が耳を掻き壊す事件が起きて、病院に連れて行くはめになったのは、前に書いたとおりである。
このときは、実に首尾よく捕獲した。不意をつかれた玉音ちゃんは、びっくりしている間にさっさとキャリーに詰め込まれ、否応なく病院行きとなった。
このとき、先生に事情を話して、手術前夜の入院をお願いした。
ここの病院は、避妊手術でも基本的に日帰りである。先生が、なるべく入院はさせない主義だからだ。
なので、何か言われるかなと思ったら、あっさり、
「じゃあ、金曜日の夜に連れてきてもらって、土曜日に手術して、土曜日の夕方にお迎えでいかがですか?」と。
慣れたものである。
私みたいな飼い主が、きっと他にもいるんだな、と思った。
そこで、ついでに手術日の予約もして、あとはその日を待つばかり、となった。
金曜日の夜と言っても、仕事が終わって帰宅してから、夕食を食べさせて捕獲していたのでは、さすがに診療時間終了までには間に合わない。
そこで、会社を早引きさせてもらい、夕食も早めに出すことにした。
普段の猫の夕食時間は七時。それを二時間繰り上げて五時にする。六時でも良いのだが、万一、食事中の捕獲に失敗した場合、リカバリーがきかないと考えた。
四時ごろからそわそわしながら待っていたのだが、久々に夕方在宅してみると、いつの間にか、日が長くなっているものである。四時半になっても外は普通に明るい。従って、猫たちも、それぞれ好きな寝場所で爆睡している。
だんだん、焦ってきた。
どうせ四時過ぎには、ダメちゃんがうろうろし始めると思っていたのに、猫側には全く動きがない。ましてや、肝心の玉音ちゃんなんぞは、どこに隠れて寝ているのかさえ分からない状況である。
何だって、今日に限って、夕食の催促に来ないのか。
そう思いながら、自分の用事で洗面所に赴いたところ、ダメがむっくりと起きてきた。
現金な男である。と思ったら、ついでにアタゴロウもついてきた。
玉音もどこからか、姿を現した。
が。
残念。時計はまだ四時半過ぎ。玉音はともかく、男どもの夕食にはあまりに早い。早く出せば出すほど、夜中に小腹が空いて騒ぎだす確率が高まるから、なるべく遅くまで引っ張りたい。あと三十分。
早く玉音を捕獲したくてはやる気持ちと、なるべく引き延ばしたい気持ちとのせめぎ合いに揺れながら、待つこと十五分余り。
負けた。
ジリジリしながら待つことに、耐えられなくなった。
もういいや、と、五時少し前だが、夕食の支度を始めつつ、そこで、ふと考えついた。
男どものごはんは、一度に全部与えず、今回はウェットだけを出して、七時過ぎにカリカリを出せば良いのだ。玉ちゃんにだけは全部出すとして。
今考えれば、そんな姑息なことを考えたのが良くなかったのだ。
うちの猫どもの食事は、ダメとアタは、ウェットを先に食べさせて、食べ終わった器にカリカリを入れてやる。玉音だけは、ウェットを盛り付けた上に、カリカリをてんこ盛りにして、一度に食べさせている。玉音はウェットが好きで、乾いたカリカリには喰い付きが悪いからである。
で。
いつもどおり、男どもにはウェットの皿、玉音には両方を盛った皿を出し、何事もないかのように装って、早めの夕食が始まった。
ドキドキしてきた。
首尾よく、捕獲できるだろうか。
チャンスは一回だけだ――そう思った瞬間に、一気に緊張感が高まった。
どのタイミングで捕獲するか。自然、私の目は玉音を凝視してしまう。
その辺りから、玉音はどうもおかしい、と思い始めていたのかもしれない。
つと顔を上げて食べるのを止め、洗面所から走り出た。
「玉ちゃん、ごはん食べなさい。」
私はさりげなく、皿を持ってついて行き、廊下にいる彼女の前に皿を置く。玉音が再び口をつけるのを見て、ほっとしたのも束の間。
よく考えると、廊下はオープンスペースである。前回捕獲した時は、玉音は洗面台の下にいた。前と横が壁であるから、最初から追い詰めたも同然の状態であった。
今回は、前も両横も空いている。しまった。場所を異動させるのではなかった。
そう気付いて、さらに焦りが出た。
しかも、である。
ウェットを食べ終えた男どもが、騒ぎ始めたのだ。
「だめだめ。あとで!」
私は彼等を追い払った。そこで、玉音は完全に勘付いてしまった。
玉音が頭を上げ、完全に食べるのを止めて、逃げの体勢に入る。
ああ、もうだめだ。いいや、今捕獲するぞ!!
慌てて手を出したが、時、すでに遅し。
かろうじて毛皮に触れた私の手をすり抜け、玉ちゃんお得意の大脱走レースの幕が、切って落とされたものである。
しばらくリビングの中を追いかけ回し、もうだめかな、と思った瞬間に、私に冷静さが戻ってきた。
まずは、私の手の届かない物陰をブロックしなければ。洗濯機の裏、冷蔵庫の裏、そして、押入れ。
それから、部屋の隅に追い詰めればいい。
リビングは、物が多すぎて捕まえにくい。勝負は和室だ。和室には、衝立とマットレスしか置いていない。衝立をたたみ、壁に立てかけたマットレスを寝かせれば、もう隠れる場所はないはずだ。
そこで、まず押入れの襖を閉め、洗面所に通じる引き戸を閉めた。
リビングから和室に通じる襖を半分閉め、すぐに退路を断てるようにした上で、逃げ回る玉音を和室に追い込む。
ここまでは良かったのだが…。
この大捕物の興奮に、なぜか自分も一緒になって逃げ回り始めた男がいた。
そいつが、一緒に和室の中に入り込んで、私の足許を、盲滅法に走り回ったものである。
ついつい、そちらを蹴飛ばしそうになったりして、オタオタしている間に、
「あ…」
逃げられた。
襖を閉めたとき、四枚の襖を二間の間口の中央で合わせる、その中心がずれていた。それにより反対側に開いた隙間から、チビ玉は、それこそ鉄砲玉のように飛びだしたものである。
次にどこに行くか。
洗面所に逃げ込もうとして、引き戸が閉まっていることに気付いた玉音は、一瞬の躊躇の後、向きを変えて台所に向かった。
予定通りの筋書きである。
最後の隠れ場所、冷蔵庫の裏に潜りこもうとした玉音は、冷蔵庫の前で、私に胴体を掴まれた。
「ギャアアアアア!!!」
いかなる飼い猫も絶対に出さないような、いかにも野良っちい低音の叫び声を上げた玉音は、
「ギャーでも何でも、いいから入れ!!」
と、やけくそになって怒鳴った私に、無理矢理キャリーに押し込まれた。
勝負は最終的に、私の勝ちであった。多少の傷は負ったものの。
いや――。
実は、さらに上がいた。
この大騒動の間、唯一、冷静さを失わず、玉音の残したご飯をちゃっかり頂戴した男がいる。相棒が慌てふためいて、自分も一緒に逃げ回っていた、その喧騒の中で。
何を隠そう、それは、彼女の夫であった。
ここまでが、玉音ちゃんが避妊手術に「行った」話である。
「もう、大変でした。」
と、動物病院で愚痴ると、
「本当に捕まらなかったって話、結構ありますよ。先日、手術の予約をされた方は、当日に電話がかかってきて、捕まえ損ねたって。その後、二週間経ちますけど、まだ連絡ないですね。」
何でも、その猫さんは、どこかに潜りこんで出て来なくなってしまったらしい。
ああ、捕獲できて良かった。
と、心から思った。
そして、いよいよ、手術を終えた玉音ちゃんの帰還である。
動物病院で、すでにキャリーの中に収納されていた玉ちゃんは、うずくまったまま、微動だにしなかった。
「完全に腰が抜けてますね。」
頭を撫でようとしたときだけ、びくっと首を引っ込める。
「あ、ほら。この子は凄く怖がりなんですよ。」
「診察台の上でも、ずっとカタカタ震えてました。」
先生と助手さんが、代わる代わるに説明してくれる。
「威張ってるくせに怖がり。まあ、猫らしいと言えばそうなんですが。」
あのう、先生。そこ、笑っていいところですか?
と、まあ、そんなわけで。
腰が抜けたまま帰宅した玉ちゃんは、家に着いても、まだ腰が抜けていたらしい。
リビングにキャリーを運び込み、天面の蓋を全開にしても、しばらくそのまま動けずにうすくまっていた。
状況を察したダメちゃんがキャリーを覗き込み、匂いを嗅いで確かめている。そうしていい加減、時間が経ったころに、やっとアタゴロウがやってきた。
「お前、気付くの遅いよ。」
普段はあんなに仲良しなくせに。
しかも。
ダメおじさんが、キャリーに頭を突っ込んで、いかにも心配そうに玉音の匂いを嗅ぎまくっているのに対し、アタゴロウは座って見ているだけである。それも、いかにも、遠巻きに眺めているという感じで。
情けない夫である。
そうこうしているうちに、玉音もようやく落ち着いて来たのか、頭を上げて、辺りを見回し始めた。
そのとき。
ダメちゃんが首を伸ばし、優しく、玉音の頭をそっと舐めたものである。
さすがダメちゃん。優しいおじさまである。
それに対して、肝心の夫は、恐る恐る手を出して、キャリーの縁越しに、玉音の尻の辺りにちょんと触っただけ。
おいおい、もうちょっと優しくしてやれよ。
そして。
お腹の傷を心配して、踏み台になるようにと私が置いたクッションを完全に無視して、玉音はキャリーの外に飛び出した。
そしてそのまま、和室に突進し、あちこちに引っ掛かるエリザベスカラーに苦労しながら、いつものマットレスの陰に潜りこんだ。
それから丸一日。
書くことはあまりない。怖がりの玉音ちゃんにとって、入院・手術は、想像を絶する恐怖体験であったようだ。以来、私は完全に鬼婆扱いである。
昨夜は特に、これ以上ないほどに露骨な警戒ぶりであった。
私と一瞬でも目が合うと、恐怖に顔をひきつらせて逃げる。その速いこと速いこと。ハラが痛いのに、エリザベスカラーをつけているのに、よくぞそこまで敏捷に逃げられるものだと、感心するくらいである。
人間一般に対する恐怖を思い出したのか。あるいは、私があの「恐怖の館」に彼女を放り込んだ張本人だと、認識してのことか。
唯一の例外が食事時で、昨夜も、今朝も、今夜も、自分から食事場所には来た。
が。
食べない。
二〜三日食べないかもしれない、と、先生に言われていたので、大して心配はしていないが、問題はその態度である。
「はい、タマちゃん。」
と、私が皿を差し出すと、飛びすさって逃げる。
私が皿の近くを離れると、ちょっと戻って来て口をつけるが、ほんの少し食べただけで、再び走り去る。
仕方なく皿を運んで、椅子下などに潜んでいる彼女の近くに置いてやろうとすると、今度は本気で逃げ回り始める。
本当は、いつもの場所に置きっぱなしにして、私が近寄らないようにすれば良いのかもしれないが、そんなことをしたら、玉音が戻って来る前に皿が空になってしまうことは確実である。少しは食欲があるのだろうから、ゆっくり少しずつ食べてほしいのだが、なかなか良い方法がない。
昨夜は、それでも考えた。
再び和室である。玉音が和室に入ったら、そこにごはんを置き、襖を閉めて、人間も猫も立ち入らないようにして、しばらくひとりでゆっくりさせてみたらどうだろう?
試してみた。
玉音が和室に逃げ込んだところで、皿を畳に置いて、襖を閉める。
ところが。
おっと。
また、どさくさにまぎれて入りこんだ奴がいる。
昨日と同じ男。
そいつを追い出して(その騒ぎで、また玉音が和室から出てしまったので、再び追い込んで)、自分も外に出て、襖を閉めると。
あれ? 閉まらない。
あ、そうだ。洗濯物を干していたんだった。
和室の入口に、ハンガーにかけて干してあった洗濯物を挟んでしまっていた。おかげで、3センチほどの隙間が開いてしまったのだが、ちょうど中も覗けるし、そのままにした。和室の入口の襖は重いので、男どもも、外から覗くばかりで、開けることはできないようだ。
そのまま、しばし。
なるべく近付かないようにして、私は台所の方にいたのだが。
何か和室の方からゴトゴトと物音がするのに気が付いて、様子を見に行ったのが、二十分ほども後のことだろうか。
「あ、やられた!」
おそらく、犯人は力持ちのダメちゃんだろう。和室の襖が十センチほど開けられ、雄猫は二匹とも和室の中にいた。
うち一匹が、玉音のご飯の皿に頭を突っ込んで貪り喰い、もう一匹は近くに座って眺めながら、自分の番が来るのを待っている。
やがて、食べていた方の男が、その場を立ち去った。もう一匹が待ちかねたように皿を覗き込んだが、中には、もはや何も残っていなかった。
立ち去った男は、ハラと心に傷を負った悲劇の乙女の夫であった。
(悲劇の乙女とその夫)
私が許せないのは、この夫が、メシだけ横取りしておいて、玉ちゃんが近寄って来るとウーウー唸ることである。
おそらく、薬の匂いが気に入らないのであろう。
玉音の方は、徐々に落ち着きを取り戻し、六十センチくらい離れていれば、私が横を通過しても逃げなくなった。目を合わせる時間も、十秒くらいは保てるようになっている。
しかし。
まだ、ご飯は食べない。
お腹が痛いせいなのか。まだ食欲がイマイチなのか。
あるいは。
もしかしたら、こんなふうに思っているのかもしれない。
もし、本当にそう考えているなら、玉ちゃんの学習能力は、亡きジンちゃんやミミさんにも比肩する高さ、ということになる。
あっぱれ、玉ちゃん。
なんて、喜んでいる場合じゃないか。
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ところで。
今回、手術と同時に、未実施だった猫エイズの検査をしてもらった。
結果は、陽性であった。
先生の説明によれば、
「この子、まだ乳歯が生えているんですよね。微妙な時期です。まだ母猫の抗体が残っているという可能性もある。」
なので、次のワクチンのときに、もう一度検査をしましょうということになった。
陽性と言われて、全くショックを受けなかったと言えば嘘になる。
だけど。
何かね。うっすらと、そんな予感はしていたのよね。
何かこう、正真正銘の野良さんであるという、玉音の血統の正しさが証明されたような。(いや、これは差別発言かも。)
猫エイズを発症させないために、大事なのはストレスを与えないことだ、とモノの本には書いてある。
でもねえ。
そりゃ無理だよ。だって、この子のストレッサーって、アタシ自身だもん。