エリザベスとゆかいな妖怪たち
夜。
暗がりからザッザッザッと、小豆を研ぐような音が聞こえてくる。
我が家に妖怪「あずきとぎ」が出るようになって一週間余り。私が寝床に入った後、灯りを消した部屋の隅から聞こえてくることもあるし、まだ起きて灯りを点けている時間に、どこか物陰から響いてくることもある。
暗がりに目をこらしても、小豆を研ぐ者の姿は見えない。
ただ時に、ぼんやりと白い影のようなものが、ちらりと視界をかすめることがある。
我が家に「あずきとぎ」が出たのは、初めてのことではない。
あれから九年にもなるだろうか。やはり、夜中にザッザッザッという音が聞こえてきて、寝入った私を目覚めさせることがあった。
そのときは、明らかな気配があった。それも、すぐ近くに。
「あずきとぎ」の正体は、イタチであるとか、キツネであるとか、ムジナという説もあるらしい。
九年前の「あずきとぎ」は、確かに獣の気配がした。
目を開けてみると、枕の横に、黒い影が見えた。小動物のそれであった。
「あずきとぎ」は、格別人に危害を加える妖怪ではないらしい。
そのときも、音に目覚めさせられただけで、特に何も起こらなかった。
思えば、愛しい妖怪であった。
淋しかったのかもしれない。私が?いや、「あずきとぎ」が。
その後、我が家にダメちゃんがやってきて、「あずきとぎ」は文字どおり鳴りをひそめた。
小動物が私の枕を舐めるザッザッザッという音は、いつの間にか、聞かれなくなっていた。
九年前の「あずきとぎ」の正体は、黒い雌猫であった。
そして。
現在の「あずきとぎ」の正体は、白い雌猫である。
避妊手術後の玉ちゃんは、包帯のハラマキにエリザベスカラーという姿であった。
「抜糸には、いつごろお伺いすればいいですか?」
「いや、抜糸はいらないです。溶ける糸を使っていますから。」
へえ。そうなんだ。
ムムのときは、抜糸に行ったような気がするけど。
一週間くらい後に通院したら、あまりのムムの暴れっぷりでハラマキがぐちゃぐちゃになっていて、
「よく頑張りましたね。――人猫ともども。」
と、ねぎらわれた記憶があるのだが。
「お薬とか、飲ませるんですか?」
「いいえ。二週間効く化膿止めの注射をしてありますから、とくにお薬はないですよ。」
「じゃ、何もないんですか?」
「何もないです。普通に生活させて大丈夫ですよ。」
それは助かる。
唯一の心配は、こいつが暴れ過ぎて、ムムのときのようにハラマキをぐちゃぐちゃにしないか、ということだ。ムムには、私の古いストッキングを着せて「全身タイツ」にしたのだが、何であれ、こいつを捕まえて胴体に装着できる自信は、私には、ない。
「二週間経ったら、その包帯をハサミでバシっと切ってください。エリザベスも、外してやってください。本当はなくてもいいんだけど、この子が舐めようとするんでつけたんです。大丈夫そうだったら早めに外してもいいですよ。」
なるほど。
だが、いずれにしても、しばらくこのままで様子を見ることになるだろう、と思った。
(ムムの全身タイツ)
エリザベスカラーは最初から想定内の話であった。
何しろ、ムムのときのハラマキの乱れ具合が半端ではなかったので、絶対に必要だと思っていた。
ただ、
「市販のエリカラは、重いから猫には可哀想なのよね。」
友人さくらは言う。
「だからね、ネットで色々調べて、手作りすることにしたの。」
話が前後して恐縮だが、さくら家のやっちーは、昨年、手術をしている。そのときの話である。
「で、結論は、カップラーメンのどんぶりだったのよ。」
――へ???
「いくつも試作品を作って、おかげで、毎日のようにカップラーメンを食べてたわ。」
はあ。
それは、ご苦労なことで。
だが。
話がさらに前後して恐縮だが、さくら家のやっちーは、チャンピオンキャットを実親とする、血統書つきのおぼっちゃまアメショである。そんな由緒正しき高級なお猫様に、カップラーメンのどんぶりなんぞ、かぶせてもいいものだろうか。
「でも、本猫はけっこう快適みたいよ。」
なるほど。
意外に庶民派だったわけだ。
実際のところ、確かに、カップラーメンのどんぶりなら、プラスチック製のエリカラより、相当軽いはずだ。その底をくりぬき、首に当たる部分にはバイヤステープを貼って、丁寧に手作りしたわけだから、その愛情と手間は、どこに出しても恥ずかしくないものであろう。しかも、そのために、飼い主は不本意なるカップラーメン生活を強いられたわけなのだから。
仔猫の玉ちゃんにも、ミニサイズのどんぶりで作ってやるべきだろうか。
「でもさ、そのエリカラ、どうやって装着してるの?どこかに切れ目でもあるわけ?」
「ううん。耳を抑えて、そのままスポっとかぶせるだけ。ちょっと押し込んで。」
――無理だ。
カップラーメン仮面参上(写真提供:さくら氏)
と、まあ。そんなわけで。
玉ちゃんは、病院でつけてもらったエリカラを装着したまま、術後の日々を過ごしているわけであるが。
その時からである。ザッザッザッという音が、我が家の物陰にこだまするようになったのは。
玉ちゃんが、エリザベスカラーを舐めているのだ。
傷口を舐められないようにエリカラをつけられたのだが、不屈の精神を持つ彼女は、全く諦めることなく、舐め舐め行動を続けている。結果、彼女の舌は、ひたすらエリカラを舐めることとなり、猫の舌のざらつきとエリカラの表面のストライプ模様の摩擦が、小豆研ぎの擬音を発して、村人を震撼させるのである。
正直、見ていると、ちょっと可哀想になる。
だいいち、さくらが指摘したとおり、仔猫用とはいえ、どうやら彼女にはエリザベスカラーはやはり重すぎるようなのだ。
もともと短足猫なので、普通に歩いていても匍匐前進に見えるのだが、それが、頭を下げて歩いているので、ほとんど荷馬車馬のように見える。
また、彼女は一般の飼い猫以上に物陰が好きなので、しじゅう、あちこちにエリカラを引っ掛けている。そのたびに、ガサガサゴトゴトと、うるさいことこの上ない。
まあ、おかげで、どこにいるか常に所在が分かって、飼い主的には便利なのだが。
ごはんを食べる時には、私の意見としては、エリカラを皿の外に引っ掛けておいて、自分の頭は皿の上を自由に動くようにして食べれば食べやすいのではないかと思うのだが、(現に、ムムもアタゴロウもそうしていたように思うのだが)、玉音はエリカラごと皿に突っ込んで行くので、皿の手前側にあるごはんが口に入らずに、毎度苦悶している。
(私が指で食べやすい位置に寄せてやれば食べられるのだが、私が近寄るととりあえず逃げるので、たいていは結局食べ損ねて、ダメちゃんを肥やす結果となる。)
――などなど。
であるから。
早く外してやりたい。
が。
ムムのときのようなぐちゃぐちゃにはなっていないものの、そろそろハラマキが乱れてきた。
しかも、よーく見ていると、玉ちゃんのエリカラ舐めは、最後に渾身の力を振り絞って舌を伸ばすので、ほんの少しとはいえ、エリカラからはみ出すことに成功しているようなのだ。
残念ながら、まだ装着したままにしておかざるを得ないようである。
ところで。
雌猫は、避妊手術をすると甘えん坊になるという。
私はそれに、大いに期待をかけていた。
して、その結果であるが。
何と。驚くなかれ。私はこの頃、ほぼ毎日、玉ちゃんの背中を撫でているのである!!
すごいだろー!
すごいだろー!
すごいだろー!(自慢)
手を近付けても、即座に逃げられてしまう確率が下がってきた。
もともと、撫でられることを苦手にしているわけではないので、いったん撫で始めてしまえば、ゴロゴロ言いながら、しばらくは大人しく撫でられている。
ただし、やはり、前方から手を近付けたら、びくっと体を震わせて一目散に逃げる。あくまで、後ろからそっと手を近付けた場合である。
いや。
後ろから手を近付ければ触れる、というのも、以前から全くないわけではなかった。
言わば、ガードが甘くなったのである。私の手が彼女の体の後方を動いていても、即座に警戒態勢に入るわけではない、という点が変わってきている。やはりタッチの瞬間は、ちょっと体を固くする。
凄いなあ。
避妊手術の効果って、あっという間に表れるんだ。
これで、もう少しすれば、玉ちゃんも普通の甘えん坊猫さんになってくれるかも。
――と、思っていたのだが。
二、三日前になって、突然、理性が私に囁いた。
これは単に、エリカラの妨害により、後方の警戒が難しくなっているだけではないのか。
はっ。
そ、そうかも。
エリカラを外したら、玉ちゃんは再び、全方向警備のセコムしてます猫に逆戻りするかもしれない。
そして。
自分をこんな目に合わせた私を、二度と許さないかもしれない。
そう考えると、私は、彼女のエリカラを外すのが、ちょっぴり怖い。
――いや、ちょっと待て。
そもそも、「その日」が来た時、私は彼女を捕まえて、包帯をバシっと切り、エリカラを外すなんていう芸当ができるのか?
救援は期待できない。何しろ、誰かに手伝ってもらおうにも、もし私以外の人間が現れたら、彼女は絶対にどこかに潜りこんでしまって、捕獲そのものができなくなってしまうのだから。
2015年2月X日。
妖怪「あずきとぎ」vs猫山縞子。世紀の大決戦の火蓋が、切って落とされる――。
To be continued…