万霊節


 万霊節は5月だと、長いこと勝手にそう信じていた。
「万霊節」をタイトルに持つ詩(歌)の中に、「かつての五月にそうしたように」という一節を読んで、その言葉の印象だけが、そのまま残ってしまっていた。詩をきちんと読めば、秋の風景を描写していることは明らかであるのに、思い込みとは恐ろしいものである。
 万霊節は、いわば西洋のお盆で、本当は11月2日である。死者がこの世に帰ってくると言われる日が、日本では真夏であり、西洋では晩秋であるわけだ。何か、国民性の違いのようなものが、反映しているのだろうか。
 死者がこの世に「戻ってくる」時はいい。しかし、ひととき懐かしい人々との間で過ごした死者の霊は、必ず再び冥界に送り返さなければならない。そうして「送り出す」ことを考えると、晩秋のお別れは、日本人の感性には、少々寂し過ぎるような感じがする。


 ミミは昨年の5月にこの世を去った。
 火葬からしばらく経って、ミミのいない生活に慣れてきたころ、ふいにその歌が頭に浮かんだ。
 これは、ミミのための歌だ、と、思った。
 本来の歌詞は、亡くなった恋人を偲ぶものである。だが、「5月」という言葉と、愛する者を再び抱きしめたいという詩の内容、そして、音楽に滲む静謐な哀悼の思いが、最も優しい猫であったミミのイメージと、ぶれることなく重なった。
 その時から、私の万霊節は、5月になった。
 ミミの供養は、浄土宗のお寺でしていただいた。それなら、万霊節よりお盆の方が、彼女を偲ぶにはふさわしいはずではあるのだが。


 甘えん坊の猫の中にも、自分から甘えてくる子と、飼い主が気付いてくれるのを、ひたすら待っている子がいる。
 ミミは後者であった。
 前にも書いたことがあるが、私は今年の4月に、人事異動で職場を変わっている。前の職場は、とにかく忙しいところで、特に冬から春先にかけては、深夜残業が続く。休日は休日で、半日は寝ているし、起きたら起きたで、たまっている家事や用事を済ませなければ次週が回らないので、何だかんだと自分の用事ばかりをすることになる。自然、猫とのコミュニケーションは、後回しになりがちであった。
 家事の合間、ふと視線を移すと、ミミがじっとこちらを見ていることがあった。
 彼女は、私が自分を見たことを敏感に感じ取り、すぐ「ゴロン」をした。「撫でて」のポーズである。
 可愛さに負けて、つい、家事を放り出して構ってしまうことも、度々だった。
 ミミはお腹を撫でられることが好きだった。体と体が密着するコミュニケーションを喜んだ。床の上で抱きしめると、いつまでも気持ちよさげにゴロゴロと喉を鳴らしていた。
 とはいえ、人間側にも、楽な格好と苦しい格好がある。ミミとの密着コミュニケーションは、比較的長い時間、同じ姿勢でいなければならないので、私自身、最も楽な姿勢でミミを抱くようにしていた。即ち、自分も床に横寝をして、「ゴロン」のまま同じく横寝になっているミミを、背中から抱くのである。
 ミミのゴロゴロが私の胸に伝わり、私の鼓動がミミの背中に伝わり、互いに恍惚とするほどの深い幸福感に包まれるひとときだった。
 至福、とは、こういうことを言うのだと、思った。
 しかし、実際には、私はミミの「ゴロン」に、毎度応じていたわけではない。そこまで付き合っていられない、という気持ちも、正直、あった。ミミの視線に気付きながら気付かないふりをしたり、「ゴロン」をわざと見ないようにしたり、ということも多かった。いや、そうやって彼女の「甘えたい」シグナルを、無視したことの方が多かったのではないか。
 ミミが息を引き取った午後、呼吸が止まっていることに気付いた私は、彼女の体を自分の膝の上に乗せて泣いた。亡くなったばかりのミミの体はやわらかく、温かかった。
 あの至福は、もう感じられない。
 しかし、その時私は、同時に、奇妙な安らぎを、かすかに心の底に感じていた。
 それは、ミミの体に残るそのやわらかさと温かさが、私の心にもたらしたものだった。
 常に私に無償の愛を注いでくれた彼女の、最後のプレゼントだったのだ。


 私は、ミミにとって、決して良い飼い主ではなかった。
 彼女の短い生涯の中で、私よりもっと重要で大事なのは、最初の飼い主に捨てられ、生死の際まで追い詰められた彼女を救った、鳥屋のおばさんだったかもしれない。
 我が家に来る前、店先に立つおばさんの足元に寄り添っていたミミは、本当に幸せそうだった。
 天国でミミは、懐かしいおばさんと再会し、またその足元で、安らかな日々を送っているのだろう。
 私は、ミミにとって、一番の愛情の対象ではなかったかもしれない。
 ミミにとって一番大好きな人が、亡くなった鳥屋のおばさんであるなら、それは彼女にとって、きっと幸せなことなのだ。だって、今、彼女は好きなだけ、最愛の人の傍にいられるのだから。
 ほろ苦い思いを抱きながらも、私はそれを祈る。祈りたいと思う。
 だが、あの日、彼女を背中から抱きしめた、あの至福だけは、間違いなく本物であったと、私は信じている。
 だから、1年に1日だけでいい、ミミに、私のもとに帰ってきてもらいたい。一緒にまた、あの至福を味わいたいと、切に願う。
 
 
    今日はどの墓にも花が咲き、香りが立ちこめている。
     死者たちの自由になる一年に一度の日だ。
    ぼくの胸に来て、もう一度ぼくのものになっておくれ。
    かつての五月にそうしたように。
              (ヘルマン・フォン・ギルム)