謹賀新年


 
 
 明けましておめでとうございます。
 と言っても、例によって、このブログは翌日朝に書いている。しかも、今朝は寝坊したので、もうすでに、箱根駅伝がスタートしてしまった時間である。
 我が家では駅伝はやらないが、新年早々、低血圧の家主が布団の上に起き上がったままボーッとしていると、走り幅跳びの女子選手が、記録的な跳躍で布団の上に飛び込んできた。
 今年も、スポーツの盛んな一年になりそうである。


 さて。
 お正月と言えば、「吾輩は猫である」から、私の好きな場面。
 元旦の朝、苦沙弥先生に届く年賀状には、押し並べて猫の絵が描かれている。もちろん、彼の知己の間ですっかり有名になった「吾輩」なのであるが、先生は全くそれに思い至らない。言うに事欠いて、はてな今年は猫の年かな、などと、とぼけた独りごとを言う。
 おいおい。
 いくら英語教師だからって、明治の文化人が、十二支に猫が含まれないことくらい、知らずにおくもんかね。
 そして、第三の賀状が届き、「恐縮乍らかの猫へも宜しく御伝声奉願上候」と書かれているのを読んで、先生、ようやくその意味に気付くのである。


 このことに関する猫のコメントがいい。「今まで世間から存在を認められなかった主人が急に一個の新面目を施こしたのも、全く吾輩の御蔭だと…」
 この辺りは、漱石先生の見え透いた「ご謙遜」ととれなくもないが、純粋に小説の中だけに視線を合わせれば、このコメント、大変鋭いところを衝いている。
 猫の言うところの「牡蛎的性格」、つまり、おとなしくてパっとしないカタブツの先生が、ある日、猫を飼い始め、訪ねて行くと、その猫が始終、彼の膝の上にいる。
 その猫、まるで主人と客人との会話を聞いているかに見えるが、膝の上にいても、別に主人に甘えるわけでもなく、主人の方も、別に猫可愛がりするわけでもない。互いに無関心で、それぞれ勝手にやっている。
 何と、目覚ましくも印象的な光景ではないか。
 私だったらこの時点で、この先生の評価は三段階アップである。そして、年賀状には、毎年、必ず書く。
「恐縮乍らかの猫へも宜しく御伝声奉願上候」と。


 猫により、世間に存在を認められる。
 苦沙弥先生は渋い顔をするかもしれないが、私だったら、むしろ嬉しい気持ちになる。
 別に、ブログを読んでほしいという意味ではない。
 実生活の上でも、周囲の人に、
「ほら、あのコピー機の近くに座っている人よ」
とか、
「前に××さんと△△の仕事をしていた人だろう」
などと表現されるより、
「ほら、例の、デカい猫を飼っている人だよ」
と、言われた方が、数倍誇らしく感じないだろうか。


 もし、ダメちゃんがそれを聞いたら、
「あなたが新面目を施したのは、全くぼくのおかげですよ。」
と、言うかもしれない。
 そうしたら。
 そのとおり! と、頭を撫でてやろう。
 まあ、アタマなんぞ撫でられたところで、
(ハラの足しにもなりゃしない…)
と、ダメちゃんは思うであろうが。


 そんなわけで。


 今年もよろしくね、ダメちゃん。





 ムムちゃんも。





それから、実家のななと、





 りり。(君たちのことは、後日書くからね。)



 
 
 そして、このブログを読んでくださる皆様にも。
 どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。


 なお、猫をお飼いの皆様におかれましては。
 恐縮乍ら貴家の猫へも宜しく御伝声奉願上候。