鏡の中の…

 

 
 
 この写真。
 
 
 東京メトロをご利用の方なら、すでにご存知だろう。
 例のマナーポスターである。
 久々に、猫が登場した。
 
 

 
  
 が。
 一目見たとたん、私は内心、
(これは、ひょっとして合成ではないか…)
と、思った。
「合成」は疑いすぎかもしれないが、少なくとも、「やらせ」である可能性は高いと思う。
 猫は、こんなふうに鏡を見ない。
 少なくとも私は、鏡に興味を示す猫には、お目にかかったことがない。
 
 
 ヨメはお風呂場が好きで、洗い場の鏡の前をよく歩いている。
 が、鏡は常に無視。
 どの猫だったかは忘れたが、目の前に鏡を置いて、
「ほうら、○○ちゃん、猫がいるよ。」
と、注意を向けてみようとしたこともあるが、一瞥しただけで、やはり無視。
 時々、ダメの巨大さを確認するため、洗面所の鏡の前で抱き上げてみたりするが、そうすると、鏡の中で、人と猫の目が合っちゃったりする。
 その猫の目は、「もういいでしょ。降ろしてよ。」と、言っている。
 つまり。
 ダメが見ているのは、鏡の中の自分ではなく、鏡の中の家主なのである。
 
 
 猫が鏡に無関心となる主な理由は、「鏡像には匂いがないから」ではないかと、私は考えている。
 ついでに、聞くところによれば、猫は遠視なのだそうである。
 目の前に鏡を置いても、そこに映ったわが姿を、猫の形だと認識できないのかもしれない。
 だが、鏡に映るのは、至近距離にあるわが姿だけではない。当然ながら、部屋の風景がそっくりそのまま映る。
 いくら猫が遠視でも、鏡の中にあるもう一つの「空間」は、見えているはずだ。
 それでも、猫は鏡に興味を示さない。鏡の中に動くものが映っていてさえ、知らん顔をしている。
 テレビの中の動くもの(例えば、サッカーやフィギュアスケートの選手など)には、時々手を出してみたりするのに。
 猫という連中は、実は、鏡の中に見えるものが、現実の世界を反射した鏡像であることを、知っているのではないか。
 
 
 そうなると、気になるのは、
「猫は、自分の姿を知っているのだろうか」
ということである。
 先程、洗面所の鏡の前でダメを抱き上げる話を書いたが、もし、彼が、鏡に見えるものが現実の反射だと知っていたなら、家主に取り押さえられている猫が自分だということにも、気が付いてしかるべきではないか。
 ダメとヨメは、最初からお互いを気に入っていた。
 しかし、人間的な美醜の感覚から言えば、ダメは美形で、ヨメは(少なくとも仔猫時代は)、不細工であった。
 だが、人間が「美形」だと感じる顔立ちが、猫同士の間でもそうとは限らない。猫同士の間では、ヨメが美女で、ダメが醜男かもしれないのだ。
 あるいは、容貌の美醜を測るゲージが、そもそも、人間のそれとは違うのか。
 それとも。
 彼らは、「容貌の美醜」という価値観そのものを、最初から持っていないのか。
 
 
 オスカー・ワイルドの作品に「王女様の誕生日」という短編がある。
 スペイン王女の十二歳の誕生日。祝いとして贈られた様々な玩具の中に、野育ちの醜い侏儒がいた。彼の醜怪な容貌と不格好な仕草は王女を大いに面白がらせ、一方、侏儒は王女の美しさに心奪われる。王女が自分を気に入ってくれたと知った侏儒は、その愛を得たと勘違いして有頂天になるが、後刻、事の真相を知り、絶望のあまり心臓が破れて死ぬ。
 侏儒の悲劇は、彼が野育ちで、鏡を見たことがなかったことから生じている。彼は、自分が醜いということを知らなかった。王女を探して宮殿の中を彷徨ううちに、生まれて初めて鏡というものを目にし、そこに映る「化け物」が自分であることに気付いたことから、全てを悟るのである。
 彼はれっきとした人間の少年である。(「父親は貧しい炭焼き」と、本文にある。)容貌が醜かっただけで、知性も感性も、一人前の人間のそれであった。だからこそ、生まれて初めて目にする鏡を検分して、それが現実の反射であるということを理解したし、突き付けられた現実から、心臓が破れるほどの絶望を味わうことになったのである。
 
 
 幕切れ。
 お気に入りの侏儒が「心臓が破れて死んだ」と聞かされた王女は、
「これからは、心臓のないものをよこしてちょうだい。」
と、不興気に言い捨てて立ち去っていく。
 自らの醜さに対する絶望。傷つけられた自尊心と愛。侏儒の死が体現するそれらのものを、王女はついに理解しなかった。
 死に至る前の長いモノローグの中で、侏儒は訴える。どうして人々は、自分がどんなに醜い姿かを知らせるような鏡などない森に、自分を置いておいてくれなかったのだろう、と。
 だが、人間社会に立ち混じってしまった以上、彼がそのとき鏡を見ようと見まいと、悲劇は早晩訪れたに違いない。他者を評価する尺度の中に、容貌の美醜という観点がある限り、悲劇を避けることはできないのだ。
 侏儒の悲劇は、むしろ、彼が極めて人間的な価値観の中に、自らを当てはめてしまったゆえの出来事なのである。
 
 
 鏡に映る自らの姿に、全く関心を持たない猫。 
 猫がそれを、自身の鏡像だと理解しているとしたら、猫は互いを評価する観点として、容貌の美醜に重きを置いていない、ということになる。
 まあ、当たり前と言えば当たり前、なのかもしれないが…。
 一人前の知性と感受性を持ちながら、醜いがゆえに死を余儀なくされた侏儒と、美しいが、他者の悲しみを推し量る優しさを持たない王女。
 そんな寓話を思い浮かべるとき、人間よりも猫の方が、むしろ高い精神性を持っているのかも…などと、ふと穿ったことを考えてしまうのは、私だけだろうか。
 
 
 そうではなくて、単に心臓がないだけだったりして…。
 
 
 

 

 
 いや、ごめんね。分かってたんだけど。 
 ここ掴めるな、と思ったら、つい…。
  
 
 
 
 
 
 
 余談であるが、今日、ヨメに「フィーメールケア」を出したら、例によって半分食べたところでフラフラとお散歩に行き、帰ってきたときに残りを出すと、「あら、これじゃないわ。」と、「減量アシスト」を要求された。
 昨日、私が不平を述べていたことを察知したらしい。
 それで、姑の御機嫌を取ったつもり、なのであろうが。
 いずれにしても、腹の立つ機嫌の取り方である。