トリとスクルージと銀の小枝と

 

  
 
 誰でも知っていることであるが、今日はクリスマスである。
 ということは、昨日はクリスマスイブであった。
 例年、友人たちとホームパーティをするのだが、今年は事情があり中止(というより、新年会に延期)。
 で、どうしたかと言うと。
 何でこんな行動をしたのか、事情をここに書けばカンタンなのだが、本人の承諾を得ていないのでやめておく。とりあえず、昨日の私の行動は、以下のとおりである。
 
・昼間は、家でお野菜の準備。
・午後、友人A子と待ち合わせて、別の友人B子宅に、チキンとケーキを届けに行く。
・ついでに、その家の猫をいじり倒す。
・この後、我が家にて、A子と二人でチキンとケーキを食べ、(シャンパンを飲み)、ついでにうちの猫をいじり倒す。

 つまり、二つの家で「猫のはしご」をしたわけである。
 
 
 友人たちから、クリスマスプレゼントをもらった。
 私は、プレゼントなんぞ用意していなかった。
 お恥ずかしながら、私にはプレゼントという発想が、ちーともなかった。私にとって、クリスマスとは、カロリーの高い料理とケーキと酒とを、合法的に飲み食いできる日、という位置付けに過ぎなかったのである。
 というより。
 私には、隣人愛という精神が根本から欠落しているのだろう。
 B子は、彼女の「やっちー」という猫に、優しくこう語りかけていた。
「後で、ちょっとだけ、トリをあげるからね。」
 私には、猫にチキンを分けてやるという発想が、ちーともなかった。
 
 
 後刻。
 こたつでクリスマスなべ(「チーズフォンデュ」とも言う。ただし土鍋使用)をつつきながら、A子が言った。
「それにしても、お宅の猫たちはお行儀がいいよね。」
 お行儀がいい、とは、そういえば、震災の時に泊まりに来た先輩も、そう言ってたっけ。
 私は意識したことがなかったのだが。こいつら、お行儀いいのかな?
「だって、食卓の上の物に手を出さないでしょ。」
 言われてみれば、そうだった。
 欲しそうに鼻をつき出しては来るが、手や口は出さない。要求したところで貰えないことも分かっているので、人間にしつこく絡んでくることもない。
 ヨメに関して言えば、それ以前の問題で、客人が来ると至近距離には来ないので言わずもがなだが、ダメはこたつ布団の上に座って、A子と私が齧っているトリの脚が、人間の口許と皿とを往復するのを、切なさをいっぱいに秘めた目でひたすら追いかけている。
 この笑える健気さがダメちゃんの可愛さの真髄であるのだが、本猫にしてみれば、可愛いと思ってもらえなくてもいいから、トリが欲しいというところであろう。
 人間の食べ物(特に塩分)が猫に悪い、というのは、周知の事実である。
 だが、何が何でもひとくちも食べさせてはいけない、というほど、神経質にならなくてもいいのかな、と、内心では私は思っている。
 自分だって、時々無性にマックに入りたくなる。そして、入る。
 カラダに悪くたって、ココロが求めているのだから、致し方ないではないか。
 それなのに、私が断固として人間の食べ物を奴らにやらないのは。
 はっきり言ってしまおう。ズバリ、「クセになるから」である。
 
 

  
  
 だってさ。
 こと食べ物に関するとなると、ダメの奴、おそろしく物覚えがいいんだもん。
 一度食べさせたら、次からはただでは済まなくなるのが目に見えてる。
 
 
 彼の学習能力を見くびった私は、実は、過去に取り返しのつかない失敗をしている。
 当初、人が来ると、デモンストレーションとして、ちょっとご飯を食べさせたりしたことがあるのだ。
 多分、それを覚えてしまったのだろう。
 その後、来客中、あまりに「メシくれ」コールがうるさいので、黙らせるために、カリカリをやることが、何度かあった。
 これが、さらなる失敗であった。
「客人があるとメシがもらえる」ことをしっかり学習した彼は、人が来ると、時間も何もなく鳴きわめく猫になってしまったのである。
 こんな男の、どこがお行儀いいもんかね。
 こいつに、客人が来ているからといって、食卓から食べ物をやってみろ。次回から、客人が来るたびに、こたつの周りで鳴きわめく猫になっちまう。
 せっかく、人間の食事直前に猫の夕食を出して黙らせたというのに。
 
 
 まあ、そんなわけで。
 うちの猫どもは、クリスマスだというのに、ケーキもチキンもプレゼントも貰えなかった。
 それもこれも、家主に隣人愛の精神が欠落しているからである。
 いや、待てよ。
 プレゼントなら、奴ら、ちゃんと貰っているじゃないか。
 4日ほど先渡しだけど。
「おもちゃ」を。
 
 
 それが、これ。
 
 

  
  
 本当は、先端がもっとくっきりした螺旋状にカールし、もっと長く、そして、3本あった。
 今、これらは(ちぎりとられた先っぽも含めて)家じゅうに散乱しているので、多分、あとの2本もどこかにあるのだろう。
 このおもちゃの正体。銀色に彩色され、成形された木の枝である。
 おそらく、クリスマスデコレーション用の小物であろう。20日に買った花束についてきたものである。
 別に、クリスマスデコレーション用に花を買ったわけではない。
 ミミさんの骨壷に供えてある花が萎れたから、新しいのを買ったまでである。
 そうしたら、頼みもしないのに、この小枝がついてきちゃったわけ。
 
 
 いつも小さな花束を買うスーパーに行ってみたら、クリスマス値段で、花束が百円値上がりしていた。
 しまった、と思った。
 もう2〜3日早く買っておけばよかった。
 何といっても腹が立つのは、その花束が、一見、クリスマスちっくに、豪華に見えることなのだ。
 その正体が、この枝。
 要らないってば。
 だったら百円安くしてよ。こんなもので値段が上がるとは、ぜんぜん納得がいかない。
 と、ぶーたれながら帰って来て、花の方は切ってタンブラーに生けたのだが。
 どうしよう、これ。
 そのまま捨てるのも癪にさわるし、かといって、特に用途も思いつかない。考えるのが面倒くさくなって、部屋の隅に放置しておいたところ。
 翌朝には、もはや3本とも、その場には残っていなかったのであった。
 
 
 それからの、ヨメの遊びぶりがすごかった。
 危なくないかな、と、最初は心配したのだが、結構上手に扱っている。つつくとカールした先端がランダムに揺れるのが面白いらしく、咥えて引っ張り回しては、つついたり噛んだり。先端が折れると、折れた先っぽも新しいおもちゃになる。
 そのうち、ダメも一緒になって遊び始めたので、そのまま、猫のおもちゃと認定することにした。
 自分が元の方を持って、振ってみたりもしたのだが、それこそ目にでも入ったらキケンなので、それはやめた。
 でも、猫的には、自分たちで勝手に遊ぶ方が楽しい類のおもちゃだったらしい。
 こうして。
 我が家のスクルージ家主のところにも、妖精さんは舞い降りたのだ。
 クリスマスイブの夜が明けるころ、我が家は、至るところ銀色の小枝で飾り立てられていたのである。
 
 
 ううむ。
 なかなか粋な、クリスマスプレゼントだったな。
 いやいや、ちょっと待て。
 この枝は、もともとミミさんのために買ってきた花束に所属していたものである。
 それを、ミミさんは受け取らず、他猫に譲った、ということになるのではないか。
 つまりこれは、吝嗇な家主からではなく、心優しいミミさんから後輩たちへのプレゼントだったのだ。
 
 
 妖精さんの銀の小枝の魔法も、スクルージの心には届かなかったらしい。
 やっぱり、家主は猫どもに、何の恩恵もほどこしていなかったのであった。
 
 
 
  
  
 夜半、B子宅の「やっちー」からメールが届いた。
「とりを、ぽっちり、いただきました。おねえちゃんは、からだにわるいから、と、ぽっちりしきゃ、くれません。なのに、じぶんでは、むしゃむしゃたべました。からだに、わるいというのは、うそだとおもいます。」
 そうねえ。
 やっちー、気持ちは分かるけど、人間はそう、一筋縄でいくもんじゃないのよ。
 おねえちゃんはね、からだにわるいからこそ、むしゃむしゃ食べてるの。
 自己破壊欲求とでも言うのかしら。悪徳の甘美なる誘い、とでも言おうかしら。
 後で体脂肪との苦しい闘いを強いられることになる。(あんたのおねえちゃんは痩せてるけど。)それを知っていて、敢えてその苦境に自分を追い込みたくなるの。つまり、自分に試練を課しているんだな。
 クリスマスとは、そういう厳粛な日なのよ。(うそつけ)
 
 
 そして。
 大治郎くんからやっちーへの、お返事メール。
「やっちーさん、贅沢を言っちゃいけません。ウチの家主なんか、僕らにはひとかけらも寄越そうとせず、むしゃむしゃとトリを全部喰い尽くした挙句、骨まで隠しました。(※)
 猫生、上を見たらきりがありません。イエス・キリストは厩で生まれたのです。クリスマスとは、試練と向き合うことで、今与えられているささやかな幸せを再認識するための記念日だと、ぼくは思っています。」
 なるほど。
 感心な心がけであるが、そういう彼は、先に書いたとおり、一度与えられた恩恵は、既得権益だと勝手に解釈する男である。
 彼は上も見ないけれど、下も見ない男なのだ。
 
 
(※) 鶏の骨は縦に裂けるので、猫に食べさせると、喉に刺さって危険だと言われているため。