山猫姫妄想 

 

 
 
「あなたは思い込みが激しい人みたいだから…。」
 陽の良くあたる、9階の小部屋。
 天井までの本棚に、本がいっぱい詰まった、S教授(当時は“助教授”)の研究室。
 半分笑いながら、指導教授が私に言った一言。え、そうなのかな?と、そのときは、自分では良く分からずにいた。
 あれからン十年。
 自身の研究の傍ら、学生の指導に熱心だった先生は、もうずいぶん前に、この世を去っている。先生の論文は、文章が美しく、明快で、明晰だった。学生にも、文章の「格調」を求める人だった。
 世間の例に漏れず、大学で勉強した内容そのものはもう、断片的にしか覚えていない。だが、先生のおっしゃっていた、文章の「格調」という言葉と、冒頭の一言だけは、なぜか、折にふれて、私の中に甦る。
 私の書く文章は、「格調」とはほど遠いが、もうひとつの、先生の指摘は正鵠を射ていたらしい。いまだに私は、そのせいで、いつも要らぬ妄想に頭を悩ましている。
 
 
 そう。自分で言うのも何だが、私は相当に思い込みの激しい性格である。
 時々思うのだが、思い込みの激しい人間は、自分が思い込み激しいということに気付かずにいれば、猪突猛進、何の迷いもなく突き進んでいける強さを持てるのではないか。ただし、周囲には、非常に迷惑な人となってしまうわけだが。
 私も、様々な場面で、たくさんの人に迷惑をかけていることとは思うが、学生時代、恩師に指摘されておいたおかげで、一応、自覚はある。自信はないが、多分、破綻の一歩手前でブレーキをかけられる程度の理性はあるだろう。
 だが。
 それは正しく、自分の「思い込み」との闘いである。これには結構、エネルギーを要する。
 何か思いこんでいることがあって、それを理性で抑えようとしている自分もいる状態。この状態で一日、何かを考え続けていると、夜にはもう、疲労困憊してしまう。

 …以上が、本日、私がまともなブログを書かない言い訳である。
 
 
 私が我が家に迎えようと目論んでいた、チビ猫の「ジュゲム」が亡くなったことは、先日、報告させていただいた。
 もうすっかり、うちの子にするつもりで、ブログのタイトルを差し替える準備までしていたほどであるから、さすがに、連絡をもらったときは動揺した。
 だが、冷静になって別の向きから考えてみると、これはつまり、先日の山猫狩りの成果が水泡に帰したということであり、つまり、ハナシは振り出しに戻っているのである。
 さっさと次の子に乗り換えるのもいかがなものか、と、少々ためらいはあったのだが、具体的に我が家の事情を整理していくと、やはり予定どおり、11月後半には、新しい猫を迎える日程で動きたいと思った。
 まず、第一に。
 休暇と連休を組み合わせて、4連休・5連休を作れるタイミングが、この後、当分、訪れない。強いて言えばお正月だが、お正月は自分が実家に行ったり、家族や友人が遊びに来たりと、新猫を迎えるには、あまり相応しい状況とは言い難い。
 これと関連するが、12月以降、クリスマスやらお正月やらとなると、人の出入りも多くなる。だが、新猫が来てしばらくは、家の中を静かにしておきたい。となると、逆算して、11月中には新猫が来ていないと、少々慌ただしいこととなる。
 それと、もう一つ。
 うちのマンションは、年明けから大規模修繕工事に入る。今日、説明会があったのだが、工事中はやはり音もするし、シートで建物を覆ってしまう中で、ベランダに工事の人たちが出入りするから、猫たちにもそれなりにストレスはあるだろう。せめて、部屋の中の環境に慣らし、猫同士が仲良くなってからでないと、留守の間が心配だ。
 そんなこんなで、まだいくらかためらいはあったものの、振り出しに戻った話を、さっさと振り出しから再スタートさせることにした。
 心の中で、ジュゲムにごめんねを言いつつ、Yuuさんのブログを遡って読みなおし、数多ある写真を、改めて眺めてみる。
 そうしたら。
 いるものである。
 パッと見た瞬間に、印象に残る子が。
 じゃあ、なぜ今まで、印象に残っていなかったのか。
 答えは簡単。私の思い込みの激しさが、私の目を節穴にしていたのだ。私の視線は、ジュゲム以外の猫の上を完全に素通りしていたのである。
 
 
 呼び名から察するに、多分、女の子。
 黒白。黒が多い。
 おもちゃで遊ばせているときに撮った写真なのだろう。目をまん丸にして、何かを凝視している。真剣な眼差しが可愛い。何を見ているのか分からないけど。
「あ、これ、私のゴキブリですよ!」
 写真を見た、猫カフェ荒らしのSさんが叫んだ。
「この前、私がプレゼントしたゴキブリのおもちゃです。役に立ってるんだ、嬉しいなあ。」
 そういえば…言われてみれば。
 これも、何かのご縁と言えるの…かも。かな?どうだろう?
 そんなふうに考えてしまうのも、私の思い込みの一端、なのだろうか。
 
 
 ただし、ブログの記事では、その子はその時点で、体調を崩しているようだったので、問い合わせをしてみた。
 元気です、と、返事が来た。
 ついでに、“もう一度、山梨に遊びに来ませんか?”という、お誘いがついてきた。
 そこで、悩み始めた。
 実は、偶然なのだが、近いうちに仲間内で安暖邸に遊びに行く約束を、すでにしていたのだ。
 となると。
 安暖邸で、出逢ってしまうかもしれない。
 そうなったら、当然、山梨に行く意味はなくなるわけで、写真のお嬢さん(多分)へのオファーもキャンセルである。
 Yuuさんのお誘いの意味は、つまるところ、たくさんいる猫たちに会ってみてから選びなさいよ、というアドバイスである。たくさんいる猫、ということなら、安暖邸にだってたくさんいる。いやむしろ、すぐに譲渡可能な仔猫に絞って言えば、安暖邸の方がむしろ多いかもしれない。
 だから、理屈で考えれば、まずは安暖邸で探してみて、ピンとくる子がいなかった場合にのみ、山梨まで行けばいいのだ。どう考えてもそうなのだが。
 自分のココロが、納得しない。
 というより、自分のココロは、すでに安暖邸を素通りしてしまっているのだ。
 なぜ?
 これも、答えは簡単である。私の思い込みが、写真の子以外の仔猫への興味をシャットアウトしてしまっているのである。
 多分、私は安暖邸に行っても、本気で猫探しはできない。「この子はかわいい」と思っても、同時に「あの子の方がもっとかわいい」と思ってしまうだろう。そうやって、写真でしか見たことのない猫が、どんどん「理想の猫」化されていくのだ。
 ああ、もう。
 暴走が、始まっている。
 制御不能な自分。
 
 
 これじゃまるで、平安貴族の男だよ。
 会ったこともない女に、よくもまあ、本気で懸想できるもんだ、と、かねがね思っていたのだが、自分だって同じようなものである。
 つまり、平安貴族は、押し並べて思い込みが激しかったってわけね。
  
 
 だが、私はその子がどんな子なのか、全く知らない。
 問題は、容姿より性格である。
 大治郎君と仲良くできる猫。
 本来、それが唯一にして絶対の条件であったはずだ。そのために、色々考えた末に、山猫狩りに行ったのではないか。
 写真の子の人となり…じゃなかった、猫となりを知りたい。
 その子が、性格的な面でも、条件に合うなら、たとえ山梨に行ったって、仔猫部屋で体中に猫を登らせながら悩む必要はないのだ。極端な話、玄関口でお目当ての子を受け取って、そのままUターンして「さようなら」でも良いくらい。
 安暖邸にだって、気楽に遊びに行ける。
 ああ、せめて。
 彼女と文を交わすことができれば…
 
 
 と、受領上がりの父を持つ六位の公達は、身悶えせんばかりに想いを募らせるのであった。
 
 
 だが、仮に何とか乳母を丸めこんで、姫の手元まで文を届けたとしても、返事は乳母の代作に決まっている。
 山猫姫は、そう簡単に返歌なんかしないのだ。
 
 
 と、いうわけで。
 私は今、山猫姫への想いにブレーキをかけることに、一方ならぬ苦労をしている。
 その一方で、絵姿(写真)を眺めたり、お乳母のブログを遡り、遡りして、読み返したりして、山猫姫の「猫となり」を探る手がかりを必死につかもうとしている。
 私のような性格の人間は、やはり、平安時代に生まれれば良かったのかもしれない。
 
 
 山猫姫が、水茎の跡も麗しく、格調高い歌を返してくれたなら。
 私は思い込みのままに、猪突猛進できる。お山のてっぺんのお屋敷から姫を背負って逃げ、途中、草葉の上に光る露を見て、姫は、あれはなに?と、私に尋ねるのだ…。
 
 
 ああ、馬鹿らしい妄想だ。
 こんな下らない文章を書いて。その草葉の陰で、恩師は苦笑いしていることだろう。
 
 
 恩師の教えをよそに、六位の公達は、不毛な物想ひに、ただ悶々とするのであった。
 
 
 もう寝よう。
 夜伽の男が呼びに来ちゃった。
 
 
 本当に下らない文章ですみません。