アンドレア氏の帰還


 
 
 事の起こりは、お正月飾りであった。
 28日の夜である。
 私はこれまで寡聞にして、お正月飾りは28日までに済ませるということを知らなかった。かろうじて「一夜飾り」が良くないということは知っていたが、気分的には、お正月飾りは大掃除が済んでからだろう、と思っていたので、たいてい、ぐずぐずしているうちに、30日の夜になってしまうのが常であった。
 29日は縁起が悪い(9が付くからか?)、30日も、駄目ではないがあまり良くはない、と、何かで読んで、なら今年からは28日に…と思ったのだが、結局またぐずぐずしていて、28日の深夜になって慌てて飾り付け用の小物を探し始めたものである。
 その「小物」の中に、玄関扉にリースを掛けるための、マグネット付きのフックがある。
 普段使うことはないので、登場するのはお正月飾りの間だけ。そのほかの期間は、冷蔵庫の側面に無造作に貼り付けてある。冷蔵庫の側面は、他のマグネットの待機場所でもあるので、当然、その中にあるものと思って探してみると、見当たらない。
 我が家の冷蔵庫と、隣のレンジ台の間には、5センチほどの隙間がある。よくその隙間にマグネットを落とすので、隙間を覗いてみたが、そこにも、ない。
 あと考えられるのは、冷蔵庫の下である。隙間に落ちたマグネットが、冷蔵庫の下に入り込んでしまうのは、案外よくあることだ。
 日付が変わってしまうまでに、あと1時間ほどしかない。気は進まないが、長い棒を持ってきて、冷蔵庫の下を探って見ることにした。
 棒の先に当たるものを掻き出してみると、出るわ、出るわ。綿埃に混じって、回収されていなかったマグネットが3つ。そして、ムムの玩具だった、丸めたビニール袋が数知れず。
 そして。
 棒の先が、何か固いものに触れた。
「あ…。」
 掻きだしてみると、それは、埃にまみれた灰色の小さい塊だった。灰色の毛皮の尖った先端に、赤い鼻が、ちょこんとついていた。
アンドレアくん!」
 いつからそこに入っていたのだろう。それは、亡くなったミミ愛用の、ネズミのオモチャだった。
 
 
 ミミは大人しく優等生的なお嬢様というイメージが強いが、私と暮らし始めた当初は、まだ推定3歳。実は、けっこう遊びの好きな猫だった。
 我が家で唯一、私以外の人間にもフレンドリーな猫だったので、猫を遊ばせるのが得意な我が姉などは、我が家に来てはミミさんと遊ぶのを、楽しみにしていたほどである。
 そのミミのお気に入りの玩具が、ネズミのアンドレアくんだった。
 友人さくらが初めて我が家でミミさんと対面したとき、アンドレアくんで彼女をさんざん遊ばせていたことを思い出す。
「結構遊ぶじゃない、この子。猫山、ちゃんと、この子と遊んでやりなよ。」
 だが、当の私は、猫と遊ぶのが苦手である。その私にいわば成り変わって、ミミのお相手を務めてくれたのが、アンドレアくんだったのだ。
 アンドレアくんは、いまはもう潰れてしまった、駅前に古くからあったディスカウントショップで購入したものである。値段は覚えていないが、相当安かったように記憶している。だが、大きさと言い、毛皮(多分ラビットファー)でくるみ、シンプルなフォルムに鼻だけとがらせて小さな耳としっぽをつけた形と言い、意外に小ネズミらしいリアリティを備えていた。
 リアル、といっても、柔らかいわけではない。
 毛皮の中はプラスチックである。その本体の空洞の中に、何かビーズのようなものが入っていて、動かすとカラカラと音がする。正統的な猫の玩具である。
 ミミがアンドレアくんをバシっとはたく。プラスチック製で軽いアンドレアは、部屋の隅まですっ飛んで行く。それをミミが追いかけ、またバシっとやる。
 バシッ、カラカラ、バタバタバタ…、バシッ、カラカラ、バタバタバタ…
 それはもしかしたら、ミミの生涯で、最も幸せな時代であったかもしれない。
 
 

  
  
 想像はつくと思うが、私が冷蔵庫の下をゴソゴソやっている間、周囲には、物見高い連中のギャラリーができていた。
 遠慮のないアタゴロウは、私の手元まで進出してきて、冷蔵庫の下から何かが出てくるたびに、いちいちちょっかいを出そうとする。
 綿埃がいちばん多いのであるが、これは、ほぐされると余計に面倒なことになるので、禁じた。
 丸めたビニール袋は、匂いを嗅ぎ、つついて検分した後、サッカーのドリブルの要領で、ちょっとだけ遊んだ。
 彼が最も興味を示したのは、マグネットである。私が拾って冷蔵庫の扉に貼り付けたものまで、伸びあがって剥がそうとする。だがこれも、せっかく出てきたものを、またどこかに蹴り込まれて紛失するのは残念なので、禁じた。
 そして、アンドレアくんである。
「ほれ、アタ。これで遊びな。」
 私はアンドレアをアタゴロウに投げ与えた。アンドレアくんは、本当に久しぶりに、猫の玩具として現役復帰することになった。
 が。
 アタゴロウの反応は、地味だった。
 匂いを嗅ぎ、つんつんと軽くつつき、2〜3回転がした後、何と、こいつは、アンドレアくんを咥え、台所から走り去ろうとしたのである。
 そのときの彼の目は、遊びのそれではなかった。
 かといって、狩りをしている野性の迫力というようなものでもなく、敢えて言うなら、猜疑心に満ちたひどく陰険な目つきであった。
 私は彼のその目つきを、前に一度、見たことがある。それは、コタローママのRさんから、手作りのネズミの玩具「コーズケノスケ」をいただいた時だった。火消し装束のアタゴロウは、コーズケノスケを数度つついた後、やにわにその背中を咥え上げ、世にも陰険な眼差しでこちらを一瞥したかと思うと、そのままいずこへと走り去ったものである。
 Rさんは、遊び盛りのアタゴロウが、コーズケノスケを追いかけ回して遊ぶ微笑ましい図を期待してくださっていたと思うのだが、彼はそれきり、コーズケノスケをひっぱたくことも、追いかけることもなかった。拉致されたコーズケノスケは、路上に放置されていたところを保護され、現在は、キャットタワーの下の炭小屋の中で、安楽な日々を送っている。
 
 

(アタゴロウとコーズケノズケ。2013年4月28日撮影)
  
  
 ミミのお気に入りとなったアンドレアくんは、次第に薄毛がすすみ、体のあちこちにハゲができ始めた。フェルト製の小さな耳もちぎれ、お腹の下の毛皮の継ぎ目が剥がれて隙間が開いてきた。
 ミミィは悪い女だね。あの女に弄ばれて、アンドレアはストレスでハゲになったよ。
 当時は、そんな冗談を、よく言ったものだった。
 アンドレアの消耗が激しいので、私は再び駅前のディスカウントショップに立ち寄り、彼の後継となるべき同じネズミの玩具を買い求めた。
 売り場には、同じ形と大きさのネズミが、いくつも並んでいた。
 改めて眺めてみると、安物だけあって、ひとつひとつ、微妙に出来が違う。つまり、みんな違う顔をしているのである。
 その中の一つを見つくろって、悪女ミミィの取り巻きに加えた。
 その「二人目の男」にも名前があったはずなのだが、どうにも思い出せない。
 だが、ミミは相変わらず、アンドレアがお気に入りだった。新しいネズミでも遊ぶには遊ぶが、やはりアンドレアの方が、頻繁に彼女の手元にあったような気がする。
 ついでに言うなら、選ぶともなしに手に取ったにもかかわらず、売り場で見た同じ形のネズミたちの中でも、アンドレアがいちばんいい顔をしていたようにも思う。
 ミミが亡くなったとき、棺の中に、おもちゃを入れてやることにした。本当は、ミミのいちばんのお気に入りであったアンドレアを入れたかった。だが、火葬である。プラスチック製品は良くない、ということで、ミミの傍らには、布製ネズミの「ロバートくん」がお供をすることになった。
 ミミの晩年は、慢性腎不全の闘病生活であった。当然、遊びどころではなかった。最後の日には、トイレに行くこともできず、粗相の跡を拭いてやったりした。身体の辛さもさることながら、優等生お嬢様の彼女には、どんなに悲しいことであったろう。
 アンドレアはいつから、冷蔵庫の下にいたのか。この記憶からするに、ミミが亡くなったときは、まだ部屋の中の手の届くところにいたのだろう。ムムはアンドレアと遊んだのだろうか。その辺りから、もう記憶がない。
 もしかしたら、アンドレアはミミだけの玩具だったのかもしれない。
 
 
 突然、ダメが走りだした。
 アタゴロウが廊下に放置したアンドレアをバシっとはたき、すっ飛んだそれを追いかけては、またバシっとはたく。
 バシッ、カラカラ、バタバタバタ…
 私はその音を、何年かぶりで聞いた。
 ダメはひとしきり、アンドレアを追いかけ回すと、突然、憑きものが落ちたように遊びを止め、アンドレアを放置していつもの寝場所に戻った。
 それはあたかも、アンドレアに出会ってミミを思い出したダメの、彼女への追悼行為であるかのように、私には思えたのだった。
 
 

(ミミとダメ。2008年2月23日撮影)
 
  
 その後、アンドレアはどちらの猫にも顧みられることなく、猫たちが食事をする廊下の片隅に転がっていたのであるが。
 今日、アンドレアはじつにあっけなく、その生涯を終えた。
 犯人は、実は、私自身である。
 外出先から帰り、郵便受けに入っていた新しいデリバリーレストランのメニューを眺めながら、廊下を歩いていたところ。
「あ…。」
 スリッパの下で、何かがグシャッと音をたてた。
 子供のころ、雨の日に、うっかりカタツムリを踏んでしまった時のような感触。
「ごめん!アンドレア!」
 慌てて手にとってみたが、毛皮の下のアンドレアの本体は、無残に壊れてしまっていた。腹側の毛皮の裂け目から、かけらとなったプラスチックがこぼれて落ちてきた。
 幸い、成形された毛皮は、まだネズミらしい形を保っている。壊れたプラスチックをテープでつなげば、まだ何とかなるかもしれない。そう考えて、毛皮の裂け目をそっと押し開いていくと、開くそばから、プラスチックはさらに砕け、修復のしようもないほど、細かいかけらへと化していく。
 ついには、赤い鼻先がとれて、床に落ちた。
 言いようのない、切ない後悔の思いが、私の胸を苦く浸した。
 さようなら、アンドレア。
 だが、私は以前にも、アンドレアを踏みつけたことがあったのではないか。覚えてはいないが、かつては家じゅうにすっ飛ばされ、ところ構わず転がっていた彼である。一度も踏まなかったとは、とうてい思えない。
 それでも、彼はこんなに簡単に壊れはしなかった。
 砕けたプラスチックを眺めていると、灰色のそれが劣化して、白っぽくなっているのが分かった。
 寿命だったのだ。
 あるいは。
 冷蔵庫の下で、世捨て人同然に余生を送っていた彼にとって、ミミのいない世間は、戻って来ても甲斐ないところだったのかもしれない。
 それにしても、アンドレアの体を形作っていたプラスチックが、こんなに華奢だったとは。砕けたかけらは、本当にほんの少しの量しかなかった。この程度の量だったら、ロバートの体のどこかに使われていた部品よりも、むしろ少なかったかもしれない。
 アンドレアを、ミミと一緒に、旅立たせてあげれば良かった。
 いずれにしても、ミミが死んだ時、アンドレアの役目はもう終わっていたのだから。
 ごめんね、アンドレア。そして、さようなら。
 天国で、ミミとアンドレアの魂が再び巡り合うことを、祈ってやまない。
 
 
 赤い鼻を元どおり毛皮の先端に刺し込み、プラスチックのかけらがこぼれないように慎重に裂け目を閉じて。
 リアルな小ネズミの形に戻ったアンドレアの遺体を、ミミの骨壷の前に、そっと置いた。