ピュラモスとティスベ



 
 その後の「猫山玉音とロウロウ(郎朗)ブラザーズ」であるが。
 前回(土曜日)の診察の結果、とりあえず、ノミも白血病も心配ないようだったので、週明けから少しずつ、対面を始めてみた。
 ただし、ダメちゃんのワクチンが、ちょうど一年経って切れたところだったので、玉音はケージに入れたままで、男どもが覗きに来るという方式にした。それも、「私が玉音の世話をしているときに来ても怒らない」という程度の、極めて消極的な対面ではある。
 まずは、アタゴロウ。
 実は、アタゴロウは、割と早い段階から、玉音の存在を知っていた。
 玉音が我が家に来て、三日目くらいだったろうか。私が手洗いを使うときに、うっかりリビングのドアを閉め忘れ、そこからアタゴロウが玉音のいる部屋に侵入していたものである。
 手洗いから出てきたら、アタゴロウが玉音の部屋から飛び出してきた。
 それで、分かった。
 玉音の様子を見に行くと、私を見て「シャー」を言った。おそらく、アタゴロウにも言ったのではないか。
 一方のアタゴロウは、びっくりした様子ではあったが、彼自身はシャーもウーも言わない。ただ、その後はひたすら、リビングのドアの向こうを気にしている様子であった。
 折に触れて、リビングドアの嵌め殺しのガラスに顔を寄せ、北側の部屋に目を凝らしている。
 
 

  
 
 さながら、女三宮を垣間見してしまった柏木、といった風情。
 私にはそれが、アタゴロウが玉音に「会いたがっている」というポーズにしか、見えなかったのである。
 
 
 そして、いよいよ月曜日。
私がリビングのドアを完全に閉めずに暗黙の許可を与えると、アタゴロウが待ちかねたようにやって来た。
 慎重に、はじめは遠くからケージの様子を窺うアタゴロウ。
 
 

 
 
 少しずつ、ケージに近付き…
 
  

 

 

  
  
 しばらく凝視した後、アタゴロウが再び、ケージの傍から走り去って終わった。
 その間、二匹は互いに、警戒こそしていたようだが、唸り合うことも、威嚇し合うこともなかった。
 やはり、アタゴロウは、玉音と仲良くしたいのだろうか。
 良い手応えだと感じた。
 
 
 で――。
 問題は、こちらのお方。
 
 

  
 
 予想どおり、おっさんは、大激怒であった。
 実は、その二日前くらいだったろうか。ダメも玉音の部屋に侵入していた。このときは、彼が大声で唸ったので、すぐに発覚した。
 今回も、のっそりと現れては、アタゴロウのように遠くで躊躇することもなく、まっすぐにケージに歩み寄り、良く通るバスバリトンボイスで、早速ウーシャーを始めたものである。
 彼が優しい猫だと知っている私にも、この地獄の唸り声は、けっこう怖い。
 とはいえ、ダメが新入りの猫に対して当初は大激怒することは、想定の範囲内であるので、そのこと自体は、まあどうということもない。
 問題は、玉音の方がガチで怯えちゃったということである。
 無理もない。幼稚園児がジャイアント馬場に恫喝されているようなものだ。
「ダメちゃん、やめなさい。そんなちっちゃい子、脅かしたってしょうないでしょ。」
と、急いで引き離し、ダメをリビングに連れ戻したのだが、ダメの方は、腹の虫がおさまらなかったらしい。
 リビングに戻っても、ずっと、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
 
 

  
  
 さらに。
 数分後、彼より後に玉音の部屋から戻ってきたアタゴロウに対し、いきなり腹立たしげにシャーシャー言い始めたものである。
 アタゴロウの方はびっくりである。
 が。
 アタゴロウは無抵抗であった。むしろ、何か心にやましいものでもあるかのように、そそくさとその場を離れて行った辺りが、意味深長である。
 頑固者の師匠としては、手塩にかけて育てた愛弟子が、どこの馬の骨とも分からない女にうつつを抜かしているのが、癪にさわって仕方が無い。そんなところだろうか。
 弟子の方は、師匠が、なぜそれほどまでに彼女を気に入らないのか、理解できない。彼から見れば、彼女は、まだ若くて、世間知らずで、儚く、か弱く、守ってあげたいような、大いに騎士道精神をくすぐる存在だと言うのに。
 恋は盲目である。垣間見によりひたすら自分の脳内で妄想を育ててきた若者には、やっと会うことができた恋人は、実物より百倍くらい美しく見えるのだ。
 
 

  
 
 その後も私は、夜、玉音にごはんを食べさせ、ケージを掃除する間、リビングのドアに隙間を開け、雄猫どもが通れるようにしておいた。
 アタゴロウは、毎日やってくる。彼はだんだん、入口で立ち止まることなく、玉音のケージに近付いて来るようになったが、相変わらず、ただ黙って眺めたり、匂いを嗅いだりするのみである。しばらくそうしていて、気が付くと、部屋の隅に座って、遠巻きにケージを見守っていたりする。
 ダメも、遅れてやってくる。
 彼はケージに歩み寄り、とりあえずウーかシャーを言う。言うだけ言い捨てて、くるりと向きを変えてリビングに戻ったりするから、よく分からない。とりあえず脅かしに来るということなのかもしれない。
 それでも、玉音はダメが唸ると怯えるので、彼が唸り始めると、私は急いでダメをリビングに帰らせるようにしていた。
「気に入らないんなら、来なければいいじゃない。」
 私は文句を垂れるが、彼的には、そういうわけにもいかないらしい。
 猫の飼い方の本を書いている人には怒られるかもしれないが、私はこうした場合、新入りの猫を最初から同じ部屋に入れてしまった方が簡単だな、と思う。もちろん、お互い怒ったり、威嚇し合ったりするが、ある程度の広さと隠れ場所のある部屋の中でなら、それこそ、嫌なら離れていればいい。距離をおいて生活しているうちに、お互いの匂いを覚え、存在に慣れ、相手のキャラクターを理解し合って、少しずつ距離を詰めていく。もちろん、常に相性が良いとは限らないわけだが、それでも、どのへんで折り合いをつけるか、猫同士のやり方で、それなりの共存方法を探って行けばいいのではないかと思う。
 が。
 今回のように、一方がケージの中、もう一方がケージの外では、それが難しい。
 怯える玉音には、逃げるところがない。
 しかも、彼女が目にするのは、怒って脅かしてくるダメちゃんの姿ばかりである。
「タマちゃん、あのおじさんは、本当はすごく優しいんだからね。」
 私がそう、言い聞かせたところで、どうになるわけでもない。
 やれやれ。
 まあ、それでも、ダメの荒ぶりはだんだん治まり、ただ眺めている時間が増えてきた。そうは言っても、玉音にしてみれば、ジャイアント馬場に黙って睨まれているわけだから、決して心穏やかではないだろうけれど。
 見るからに、居心地悪そうにしている。
 対する、アタゴロウの凝視。
 気のせいだろうか。アタゴロウに対しては、玉音も反応し、見つめ返したり、ちょっと近付いていったりしている。
 熱心に口説きにくる王子様に、少しずつ心を開く、囚われのお姫様のように。
 
  
 
 

   
  
 異変が起こった。
 玉音が脱走を試みたのだ。
 玉音のいるケージは、天面がファスナーで全開できるようになっている。私は普段、そこを開けて玉音の世話をするのだが、それまで彼女は、天面が全開のときでさえ、全く外に出ようとはしなかった。
 そこで油断して、ファスナーがだいたい閉まった状態――少しだけ隙間が開いた状態――のまま、玉音の食器を洗いに席を外した。
 戻って見ると、玉音がその隙間を無理矢理突破して、胴体を三分の二くらい、ケージの上にはみ出させていたのである。
 そして、傍には、彼女の奮闘を見守るアタゴロウがいた。
 
 
 ついに、駆け落ちを試みたのか――
 だが、計画は失敗に終わった。娘は部屋に連れ戻され、若者は追い立てられて、振り返り、振り返り、その場を走り去った。
 
 
 恋する若者は、ロマンチストである。
 囚われの姫を見ると、救出と結婚を夢見るのが、彼等の常だ。
 駆け落ちは、夢見る若者の恋の究極の姿であり、同時に愚かさでもある。
 
 
 師匠の心配をよそに、若者は夜毎、乳母の目を盗んで、恋人と熱い視線を交わす。
 同じ屋根の下に住んでいるのに。
 彼等は、ケージのメッシュ越しにしか、言葉を交わす方法がない。親の無理解と、無情なビニールの壁に阻まれ、彼等はくちづけを交わすことさえできないのだ。
 一度は失敗に終わった駆け落ちであるが、彼等は諦めない。
 そして、二度目のチャンスがやって来る――。
 
 
 金曜日。
 職場の飲み会であった。
 こうした席では通常、酒量をセーブする私であるが、上司が私の好きな日本酒を差し入れてくれて、これが美味しかったもので、つい、気持ち良く飲んでしまった。
 気をつけていたので、気分が悪くなったりするようなことはなかったのだが、家に帰って猫たちの世話をしながら、眠気が襲ってきた。
 男どものごはんとトイレの世話をし、玉音のごはんと、トイレ掃除を終え、ケージの掃除を今やるか明日にするか…と、迷っているうちに、眠り込んでしまったらしい。
 ふと目を覚ますと、ケージがもぬけの殻であった。
 どきっとして周囲を見回すと、玉音が机の下にいる。すぐ近くにアタゴロウがいて、玉音は、あっと言う間に、机の下から隣接するオープンラックの下に潜りこんでしまった。
「タマちゃん!出てらっしゃい!」
 私は、オープンラックの下に手を突っ込んでみたり、届かないので何か棒のようなものはないかと探しまわったりしてみたが、どのみちつついても更に奥に行ってしまうだけだと気がついて、出てくるのを待つことにした。
 オープンラックの隣のソファーにもたれて、待つこと十五分ほどだろうか。ときどき気が遠くなったりしながら見張っていると、玉音がそろり、そろりと、オープンラックの下から机の下に匍匐前進で現れた。そこで、すかさず捕まえて、ケージに戻したのであるが。
 実は、その間、アタゴロウがどこにいたか、覚えていない。
 捕獲に成功した時には、いなかったような気がする。
 逆に、玉音がオープンラックの下に潜りこんだ時。このときは、確実に、アタゴロウも机の下にいた。
 アタゴロウと玉音は至近距離で、だが、酔っていたせいだろうか。瞬時にしてオープンラックの下に走り込んだ玉音は、その瞬間、アタゴロウから逃げたように見えたのだ。
 そういえば。
 ムムが我が家に来たばかりのころ。まだ小さかった彼女は、やはりこのオープンラックの下に潜りこんで、追いかけてきたダメに対し、ちょいちょいと手を出しては、大人をからかって遊んでいたっけ。
 酔っていたせいだろう。そんなことを思い出して、ふと、感傷的な気分になった。
 
 

  
  
 翌朝。土曜日、つまり昨日である。
 玉音に朝ごはんを出していて、ふと、彼女の左目が、右目より小さく見えることに気がついた。
 どうやら、目が腫れているらしい。
 このところ寒かったので、風邪がぶり返したか。
 もとよりダメちゃんを予防接種に連れていく予定だったので、ついでに玉音を、再び八つ橋の袋に入れて、一緒に動物病院に連れて行った。
 予定外の来院に怪訝そうな顔をする先生に、
「風邪がぶりかえしたのかなと…」
「いやあ、それはないでしょう。くしゃみとかハナミズとか、出てる?」
「出てません。」
 先生は、玉音の目を見て、ニヤリと笑った。
「これは…猫同士、やり合ったんじゃないの?」
「それはありません。この子まだ、ケージにいれっぱなしですし。」
 そこで、はっと気が付いた。
「あ、そういえば…。」
 昨夜の映像が、私の脳裏でフラッシュバックする。
「ゆうべ、脱走されました。近くにアタゴロウがいて…。」
「それですね。」
 そうだろうか?
「でも、そんな感じには見えませんでしたけど。アタゴロウも怒っていなかったし…。」
 私は必死に、アタを弁護する。
 しかし。
 私は、玉音がケージを出る瞬間を見ていない。目が覚めたら、たまたま二匹が机の下にいただけで、その前の数分間は、完全に空白なのだ。
 そして。
 私の微かな疑惑は、ここで突然、クローズアップされる。
 やはりあの時、玉音はアタゴロウから逃げていたのか。
 そんな馬鹿な。
 私の困惑をよそに、「猫山玉音様」と書かれた外用薬の袋には、点眼薬と眼軟膏が納められ、「点眼は量じゃなくて回数ですよ」という先生の注意とともに、私の手に渡された。
 とりあえず、お礼を言って帰宅した私であるが、やはり納得がいかない。
 だが――。
 
 
 その夜、私は聞いてしまったのだ。
 日課のようにケージを覗きに来たアタゴロウが、ベッドの中に立ち上がって彼を見つめ返す玉音に、小さな声で「シャー」を言うのを。
 
 
 駆け落ちのティスベを襲ったライオンは、実はピュラモス自身であった、というオチ。
 とんだDV夫である。
 
 
 

  
  
※ピュラモスとティスベ:オウィディウスの「変身物語」に収録されている神話。ピュラモスとティスベは、同じ家屋の壁一枚で隔てられた隣合わせに住む恋人同士であったが、親の無理解で会うことを禁じられ、壁に開いた隙間を通して語り合う。「ロミオとジュリエット」のモチーフになった物語と言われている。