日陰の女


  
 
 仔猫がいる一週間は、展開が早い。
 玉音がダメおじさんに、マジ怯えてるって?それ、先週の話?
 ずいぶん前のような感じがする。
 結論から言うと、ダメおじさんのウーシャーは終了した。玉音も特にダメおじさんから逃げている様子はない。
 じゃあ、仲良くなったのかって?
 それは…微妙なトコロである。
 
 
 この一週間のこと。
 どう書き出すのが良いだろう。
「玉音が暴れ始めた」
「リビングのドアを開放した」
 どちらかで書き起こそうと思っていたのだが、時系列的に、と、考えていくと、どちらを優先すべきか、判断が難しい。
 とりあえず、前者から書き始める。
 当初はとにかく大人しく、寝てばかりだった玉音も、二週間が経過し、だんだん仔猫らしくなってきた。
 我が家に来て十日目くらいだったろうか。私が彼女のトイレを掃除していると、ちょいちょいとスコップに手を出してきた。それが最初である。
 翌日には、落ちている猫砂をつついている姿を目撃。
 ようやく、遊びたいと思うだけの心のゆとりも出てきたようだ。
 同時に、トイレの乱れと、水入れのひっくり返しが目立つようになってきた。
 もともと、玉音のトイレには、応急的に、有り合わせのお菓子の缶にペットシーツと猫砂を敷いたものを使っていたのだが、最初のうちは、そのトイレで十分だった。使うところだけ使って、ほとんど乱れがなかったからである。
それが、砂の飛び散りが激しくなり、さらに、端に爪を立てて引っ張るのか、猫砂の下のペットシーツが大きくめくれていたり、ずれていたり。整えても、整えても、すぐにグチャグチャになってしまうことが頻繁になってきた。
 ついでに、飲み水の容器も、私が帰宅すると、毎日ひっくり返っている。
(そろそろ、潮時かな…。)
 ノミの心配もなくなったようだし、本格的に猫トイレを入れてやることにした。しっかりした猫トイレとベッドの間に水入れを挟めば、ひっくり返されることもない。一石二鳥である。
 我が家の二個目の猫トイレ。フルカバーのシステムトイレである。収監時代のアタゴロウも使っていたもの。
 ただし、問題は、フルカバーの猫トイレを入れると、とたんにケージが狭くなることである。暴れたくなってきた玉音さんには、ちょっと可哀想ではないだろうか。
 だが、心配は無用だった。
 猫トイレのカバードームの屋根は、ケージの天面のメッシュとほぼ同じ高さである。であるから、そこには本来、隙間はないはずなのだが。
 さすがは仔猫。ある日、ふと見ると、猫トイレの屋根によじ登り、ケージの天面メッシュの下に潜りこんで匍匐前進している、くのいち玉音の姿が、そこにあったのだった。
 
 

  
 
 その猫トイレを入れたのが、日曜日の夜。
 同時に、リビングのドアを開放した。
 ちょうどその、日曜日の夜だったと思う。私が玉音の世話をしていると、ダメちゃんが様子を見にやって来た。彼はケージのメッシュ窓に鼻を寄せて長いこと匂いを嗅いでいたが、最終的に一声、「ウー」を言って、それだけでその場を立ち去った。
 これはいける、と、思った。
 ダメちゃんとしては、まだ不本意な思いを抱えてはいるだろうが、怒りの感情が胸の奥に燻っていたとしても、この調子なら、だからといって、日がな一日、玉音のケージの前で唸っているようなことにはなるまい。
 そう踏んで、思い切ってリビングのドアを開け、男どもの出入り自由にした。
 初日の月曜日、彼等がどのくらい、玉音に絡んだのか。仕事に行っていた私は見ていないのだが、いずれにしても大したことはなかったようだ。帰宅した時には、三匹とも、特に変わった様子は見られなかった。
 その夜、ダメちゃんはまた、玉音のケージの前にやって来た。今度もかなり長い時間、念入りに匂いを嗅いでいたが、特に何も言わずに立ち去った。
 ようやく、ウーシャーを止める気になったらしい。
 その後も、特に好意的なそぶりも見せないものの、彼が玉音に向かって威嚇的な態度を取るようなことはなくなった。
 対する玉音の反応であるが。
 玉音が仔猫らしい活発さと好奇心を見せるようになってきたことは、すでに書いた。それと同時に、大胆さと負けん気も出てきたらしい。
 ダメやアタゴロウがメッシュ越しにケージを覗き込むと、自ら近付いて行って、メッシュに手をかけて絡もうとするようになった。
 ただ、ダメおじさんの方は、さすがにその気はないようで、それを見ると面倒くさそうに立ち去ってしまう。
 アタゴロウの方は、自分もメッシュに手をかけて、応戦しているふうであった。
 一緒に遊んでいる気なのだろうか。
 そして。
 多分、水曜日くらいだったと思う。
 アタゴロウがバタバタうるさいな、と思って、玉音のいる部屋を覗いてみると。
 ケージの周りをぐるぐると走りまわるアタゴロウと、それを追ってか追われてか、一緒にケージの内側をぐるぐると走りまわっている玉音がいた。
 明らかに、ケージの内と外とでの、追いかけっこであった。
 
 
 その後も、ケージの周りをぐるぐると走っては、逃げるように部屋の隅に走り込んだり、部屋から飛び出したりするアタゴロウの姿を、何度か見かけた。
 何もそんなに、全速力で逃げなくても、玉音が追いかけてくることはないんだけどな、と、私はその都度、内心で突っ込みを入れていた。
 
 

 
 
 ところで。
 アタゴロウのDV疑惑を引き起こした、玉音の目であるが。
 何しろ、昼間留守なので、頻繁にというわけにはいかないが、できる範囲で頑張って、点眼と軟膏塗りを続けてみた。
 が。
 なかなか良くならない。
 いつまで経っても、何となく目の周りが赤い。右目より左目の方が、気のせいか、まだ若干小さく見える。
 もしかしたら、薬が合ってないんじゃないだろうか。むしろ、この軟膏、塗らない方がいいんじゃないの?
そんな疑いさえ抱き始めたころ、今度は、別の心配が生じてきた。
 玉音がくしゃみをし始めたのである。
 それほど頻繁ではないので、様子を見ていたのだが、そうこうしているうちに、鼻をプスプス言わせだした。
 ああ。こりゃやっぱ、風邪だわ。
 土曜日。私は休日出勤だったのだが、帰宅してから、玉音に目薬をさそうとして、その顔を覗きこんだ時、それは確信に変わった。
 涙目だったのである。
 ただし、皮肉なことに、私が気にしていた瞼の腫れと左右の目の大きさの違いは、いつの間にか解消されていた。
 
 
 ああ、遅かったか――という気持ち。
 前回、動物病院で相談したとき、猫たちの部屋は同じにしても良い、と言われていた。だが、ダメおじさんの反応が心配だったのと、週末にリビングの片付けができなかったのとで、ケージの移動を先延ばしにしていたのである。
 玉音を保護したのが十月九日。マンションは暖かいから大丈夫だろうと思っていたのだが、それでも、その頃よりは冷え込むようになってきている。ここ数日、気温の低い日もあったし、玉音のいる部屋は北側だから、やはり仔猫には寒かったのだろうか。
 早く、ダメたちのいる、陽のあたる南側のリビングに入れてやりたい。そうすれば、毎晩湯たんぽをいれてやる必要もなくなる。三匹が南側に集合してしまえば、リビングのドアは閉め切りにできるから、昼も夜も、リビングはさらに暖かくなるはずだ。
 でもねえ。
 くしゃみ始めちゃったら、駄目だろうな。
 そう思いながら、動物病院に連れて行って、相談してみた。
 結果は、やはり、猫風邪。
「仔猫はねえ。簡単にぶり返しますから。」
 慰めてもらったのかもしれない。
「まだ他の二匹とは別の部屋にいるんですけど、一緒にしない方がいいですか?」
 先生は、うーん、と言葉を濁し、
「以前、他の方で、仔猫の風邪がおじいちゃん猫にうつっちゃってタイヘンなことになった人もいましたからねえ。ごはん食べなくなって、元気もなくなっちゃって…。」
 ダメちゃんは、おじいちゃんではないと思うのだが。いや、思いたいのだが。
 でも、そう言われちゃうと、やはりねえ。
 
 

 
 
 と、いうわけで。
 毎週のように病院通いをしているにも関わらず、猫たちの配置図には何ら変更はない。
 ついでに、玉音は未だに風呂にも入っていない。
 ただ一つだけ、目薬をさすようになって、良いこともあった。目薬となると、ケージに入れたままでは出来ないので、必ず玉音をケージから出して、膝の上に乗せる。どうやら玉音さん、そのお膝抱っこが嬉しいらしいのだ。
 無理もない。
 いくら人慣れしていたとはいえ、あの汚れ方とノミの付き方を見れば、飼い猫でなかったことはすぐ分かる。餌やりさんがいたのかもしれないが、スキンシップはなかったはずだ。親猫やきょうだい猫も、近くにいたのかどうか…。
 保護されてからは、誰もいない部屋の、ケージの中にひとりぼっちで、私は時々現れる賄いおばさんに過ぎなかった。年端もいかないチビネコが、淋しかったに違いない。
 生理的欲求・安全の欲求の次に来るのは、所属と愛の欲求だという。
 これが猫にも当てはまるとすれば、生存と安全を手に入れた玉音が次に求めるのは、やはり愛情だろう。そう考えると、何だかいじらしくなってくる。
 そう、愛と言えば、実は、この一連の話には、ダメちゃんを主人公にしたスピンオフもあるのだ。
 ダメちゃんが玉音を受け入れた、そのタイミングには、ちょっとした“事件”が起こっている。
 玉音が我が家に来てから、私は気をつけて、玉音の部屋にばかり行かないようにしていたのだが、それでも、やれご飯だ、薬だ、ケージの掃除だ、消毒だと、何かと忙しくしていた。
 それゆえ、悪気はないのだが、やはりダメとアタゴロウに対する扱いが、ぞんざいになっていたのかもしれない。いや、なっていた。自覚はある。
 多分、ダメはそれが気に入らなかったのだ。
 前の週末、久々に私はビーズクッションの上でくつろいだ。そこへ、珍しく、寒くもないのにダメが登ってきたのである。
 彼はしばらく、私の膝の上にいた。
 その後である。彼が玉音にウーシャーを言わなくなったのは。
 関係ないかもしれない。それは彼自身に訊いてみないと分からない。いや、彼自身にも分からないことかもしれない。
 ひとつだけ言えることは、ダメは常に、自分が一番に愛されていないと気が済まない猫だと言うことである。彼は特にスキンシップが好きなわけではない。だが、常に、愛されている証拠を求めてくるのだ。
 だから、私は毎日、彼に言い聞かせ続けている。
 ダメちゃんは、世界で一番良い猫だよ。
 世界で一番、ダメちゃんのことを愛しているよ、と。
 その理屈で言えば、二番がアタゴロウで三番が玉音なのだが、それは今のところ、特に口にしたことはない。
 
 

  
 
 で。
 そろそろ質問が出る頃だろう。
 冒頭の問題。「玉音と他の二匹の仲が微妙」って、どういうこと?と。
 ダメvs玉音については、これまでの説明でお分かりいただけたことと思う。
 じゃあ、アタゴロウvs玉音は?
 一緒に遊んで、仲良くなったんじゃないの!?――と。
 
 
 ハイ。
 ホントはあまり言いたくないんだけど…お答えしましょう。
 アタゴロウのやつ、こともあろうに、玉音に飽きたらしいんだよ。
 リビングドアを開放する前は、あれほど執拗に、玉音の傍に行きたがっていたのに、この頃は、ちっとも行きゃしない。
 うちの薄情な男どもときたら、私が玉音の世話をしにいく時に、私にくっついて一緒に来るだけで、自主的に玉音の部屋を覗きに行くこともないし、行っても私のまわりをうろうろしているだけなんだよ。
 可哀想な玉音ちゃん。
 アタゴロウのやつ、玉音が自分の許嫁だということを、自覚していないと見える。
 彼にとって、囚われの少女は、ひとときの遊び相手に過ぎなかったのだろうか。
 サイテーの男である。
 
 
 ちなみに冒頭の写真であるが、一見、三匹が仲良く集合しているように見えるが、実際のところは、
 
 

  
 
 男どもは、玉音のケージの中にあるカリカリに、釘づけになっていただけ。
 なお、可哀想な玉音ちゃんは、お腹が空いていたにも関わらず、ギャラリーの痛い視線に耐えられず、 
 
 

  
 
 その場は、お水を飲んで我慢せざるを得なかったのでした。