甲斐の国冬山奇譚


 
  
 さむらいの世が終わり、東の都に帝がおわすころの話だという。
 
 
 年の瀬も押し迫ったある冬の日のこと。一人の旅人が、甲斐の国の山の中、里に出る道が分からず行き暮れていた。
 雪こそ降っていなかったものの、辺りは寒風が吹きすさび、短い冬の日はすでに傾きかけている。
 旅人は、古い知り合いを訪ねるところだった。何とか日の暮れる前に山越えを思ったのだが、いくら歩いても里に近付く気配はない。引き返そうにも、すでに戻り道も分からず、旅人は途方に暮れていた。
(どこかに、一夜の宿を乞うような家がないものか…)
 心細さにひたすら足を速める旅人の目に、一軒の家が、木の間かくれに飛び込んできた。
(ありがたや。神の助け。)
 旅人は喜びにいっそう足を速め、何とか辺りが暗くなる前に、その家の戸口に辿り着いた。
 大きくはない。しかし、こんな山中には珍しい、瀟洒なつくりの建物である。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか。」
 入口の戸をドンドンと叩くと、戸が細く開き、中から一人の女が顔を出した。髪の長い、はっとするほど美しい女だった。
「相すみません。旅の者ですが、日が暮れてしまったもので、どうか炉端の隅にでも――。」
「どうぞ。」
 女は言葉少なに旅人を招じ入れた。部屋の奥から生温かい空気が流れてきて、そのとき、さっと、何か獣臭いような風が幽かに吹いたのを、旅人は感じた。
(???)
 勧められるままに履物を脱いで板敷きの床に上がり、台所の火でからだを温めながら見渡すと、そこは小ざっぱりと整えられた茶の間であった。いかにも女の住まいらしく、こまごまとした家財道具も、きちんと手入れされている。
「ああ、ありがたい。いや全く、命拾いしました。」
 女が淹れてくれた茶を飲み干して、旅人は礼を述べた。それから、おずおずと尋ねてみた。
「そのう、ここのあるじの方は…。」
「私があるじですわ。ここは私の家ですから。」
 女はこともなげに答えた。
「では、お一人で?」
「いいえ。子どもたちがおりますわ。」
 女は白い顔に艶めかしい笑みを浮かべた。旅人は思わず辺りを見回した。しんとした家の中には、他に人のいる気配はなかった。
  
 

  
 
 やがてとっぷりと日が暮れると、女は旅人のために膳を整えた。旅人は礼を言って、女と夕餉を共にした。
 畑があるのか、あるいは里で手に入れたのか、茸や野菜や鶏肉や、そして、何やら獣の肉のあぶったもの。食べきれないほどのご馳走である。
 獣の肉は、旅人が今まで食べたことのない、この世のものとは思えぬほどの旨さであった。何の肉かと尋ねてみたかったが、卑しい育ちを明かすようで、この美しい女にそれを訊くのははばかられた。代わりに、こんなことを尋ねてみた。
「この肉は、どこでとれたものですか?どこで手に入るのですか?」
「さあ、存じません。ある人が差し入れてくれるんですの。」
「ある人?」
「子どもたちを不憫に思って下さる方が。」
 女はまた、意味ありげに笑った。
  

 夕餉が済むと、女は旅人を一つきりの座敷に案内し、ここで寝るようにと言った。女自身は片隅の梯子を登り、二階へと姿を消した。
 座敷に引き取る前にもう一度礼を言うと、女はふいに、厳しい表情で、旅人に言った。
「夜が明けるまで、この座敷を出てはなりません。外で何か物音がしても、決して襖を開けないように。」
 旅人はそうすると約束したが、女の異様な物言いに何か胸騒ぎを覚えた。それでも女の延べてくれた布団に身を横たえると、旅の疲れで、ほどなく眠りについた。
 どのくらい眠っただろうか。
 襖をガリガリと引っ掻く音で目が覚めた。
(・・・・・・!?)
 暗闇に目を見開いたまま息を詰め、耳をそばだてていると、やがて引っ掻く音は止んだ。代わりに、台所の方で、何やらガタガタと音がし始めた。獣の唸り声のような音も聞こえた。
(なんまんだぶ、なんまんだぶ。)
 旅人は布団の中で震えながら、ひたすら音が止むことを願った。音はとぎれとぎれに続いていたが、やがて静まった。
(今のは、夢だったのだろうか…。)
 沈黙の中で心が落ち着いてくると、今度は、好奇心が頭をもたげてきた。
 女はこの座敷から出てはいけないと言った。だが…。
(見るだけ。ちょっと見るだけ――。)
 旅人はそろそろと襖を開け、台所の方向を覗き見た。暖房のために火を残してあるらしく、台所の辺りがぼんやりと明るいのが見えた。
 明かりがあることで、旅人はさらに大胆になった。
(ちょっとだけ。何もいないか見てくるだけ――。)
 旅人は襖の隙間からそろりと座敷を抜け出すと、忍び足で茶の間に入り、台所の方を仰ぎ見た。
(・・・・・・!!!)
 旅人は、思わず声を立てそうになった。台所に誰かかがいたのだ。ぼんやりした火の明かりに照らされて、その誰かは、台所の片隅の小さな函に手を入れていた。
 それは、雪のように真っ白な髪の、背の低い老婆だった。
 老婆は函の中に手を入れたまま、じっと動かずにいる。
(何をしているのか…?)
 その小さな函には見覚えがあった。何やら大事そうな紙がいっぱい詰まった函で、女がそこから数枚の薄様紙を取り出すのを、何度か旅人は目にしていた。
(何かを探しているのか――?)
 だが、老婆はじっと身動きもしない。良く見ると、老婆の目はしっかりと閉じられている。何を探すでもなく、ただじっと、函に手を入れているだけなのだ。
 何か薄気味の悪い気持ちになってふと目を転じると、またしても旅人は息が止まりそうになった。
 茶の間に、痩せた長身の老爺がいた。手を伸ばせば届くような近くに。だが老爺は、近くにいる旅人に気が付いていないのか、ただ長い背を丸め、だまって炬燵に当たっている。
(誰なんだ、この年寄たちは…。)
 そのとき。
 台所で、カタリと音がした。
 はっとして振り返ると、老婆が函から手を出していた。何が起こったのかと凝視していると、ふいに老婆がぱっと目を見開き、じろりと旅人をねめつけた。
 全身が総毛立った。冷たい汗が噴き出してくるのを感じながら、旅人はこけつまろびつ、座敷へと退散した。襖をぴったりと締め切ると、膝の力が抜けて、旅人は半ば気が遠くなりながら、畳の上にへたり込んだ。
 物音はない。老婆や老爺が追いかけてくる気配もなかった。
(今のは夢だ。何も見ていない。自分はこの座敷から出なかった。)
 旅人は自分にそう言い聞かせ、手探りでいざりつつ布団に辿り着くと、あたまのてっぺんまで掛け布団の中に潜りこんだ。そのまましっかりと目をつぶって、微かな風の音にも怯えながら、旅人はひたすら夜明けを待った。
 
 

  
 
 夜が明けると、女が二階から降りてきた。昨夜の出来事には全く気付いていないようで、相変わらず美しい笑顔で旅人に挨拶した。それを見ると、旅人もさすがにあの出来事を口にすることはできず、びくびくと女の後について茶の間に入った。台所に立つ女に気付かれぬよう、そっと辺りを見回ってみたが、茶の間にも台所にも、昨日と変わった様子は何もない。ほっとすると共に、あれは夢だったのかもしれないという気持ちになってきた。
 朝餉をいただきながら尋ねてみると、ここから里までは歩いても二刻ほどだという。思いのほか近いという安心感も手伝い、旅人は、出発までの間にと、女の家の用事の手伝いを申し出た。夜中に見聞きしたことが本当であったか確かめたいという思いが本心であったことは言うまでもない。
 断られるかと思いきや、女は喜んだ。
「女一人ゆえ、手の回らないことが多く、荒れ放題になっておりまして。」
 女が他の用事をしている間、旅人は掃除にかこつけて、家の中を見て回った。茶の間、台所、座敷、風呂場。そして、昨夜、女が登って行った梯子を登り切ってみると、二階には二つ部屋があった。
 女は、付き当たりの部屋に寝ていると言っていた。もう一つの部屋は、
「子どもたちの部屋ですわ。」
 女は、そう、話していたのだが、「子どもたち」は朝餉の席にも現れなかった。そもそも、この家の中には、子供はおろか、他に人のいる気配が全くない。「子どもたち」は病気で寝込んででもいるのだろうか。だが、女は部屋に入るなとは言わなかった。部屋の戸の前に立って耳を澄ましてみたが、中からは物音ひとつ聞こえてこない。
「ごめんなさいよ。」
 旅人は声をかけながら、そっと戸を開けて、部屋の中に足を踏み入れた。
 旅人は目を疑った。そこには確かに、子供たちの遊んだ痕跡があったのだ。敷物は踏み荒らされ、水桶の水はこぼれ、おやつの菓子鉢はひっくり返されている。小さな子供が粗相をした後さえあった。しかし、やはりそこには、人っ子ひとりいなかった。
(子供なんだ。きっと、表に遊びに行っているのだ。自分が行き逢わなかっただけなのだ。)
 旅人はそう考えて、自分を得心させながら、とりあえず部屋の掃除をはじめた。
 おもちゃを拾い集め、食べかけの菓子やゴミが散乱する床を掃き清め、粗相の後を拭きとり――いつしか、夢中になって床を磨いていた。女の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
 そのとき。
 背中にずしりと衝撃を感じた。
 気のせいかと思い掃除を続けていたが、やはり何やら背中が重い。
 まるで、小さな子供を背負っているような――。
 立ち上がって姿勢を変えてみたり、上半身を振ってみたりしたが、背中に貼りついた「それ」は、いっこうに旅人の背から離れようとはしない。
(これが、背後霊というやつなのか…!?)
 背中に冷たい水を浴びせかけられたような気がした。だが、実際には、背中に貼りついた「それ」は、重さも体温もある、まるで生き物のようであった。
(一体、これは――?)
 意を決して肩越しに振り返った、旅人の目に映ったのは――。
(こ、こども…。)
 それは、紙のように白く無表情な、まだ年端もいかぬ子供の小さな顔だった。旅人の目を無感動に見つめるその顔は、誰あろう、昨夜の老婆とまるで生き映しであった。
 旅人はぞっとして、思わず、手にしていた雑巾を取り落とした。無我夢中で背中の子供を振り落とし、部屋を出ようとした旅人は、突如、自分を見ているあまたの視線に気が付いた。それまで気付かなかった、棚状になった子供用の寝台の上に、小さな子供の顔が、それこそ数え切れないほどひしめき、小さな二つの目が一斉に旅人に注がれている。
 旅人はついに、叫び声を上げた。追い縋って来る子供たちを払いのけて部屋の戸をばたんと閉め、そのまま振り返る勇気もなく、ただ転げ落ちるように梯子を滑り下りた。
 


  
  
 梯子の下には、あの美しい女が立っていた。
「見たのですね。」
 旅人は肩で息をしながら、無言で何度も頷いた。恐怖で唇が震え、思うように言葉が出なかった。女は何もかも分かっているというように、静かに立ちつくしたまま、そんな旅人の姿をじっと見つめていた。
「誰なのです…あの子供たちは。」
 旅人はあえぎながら、ようやくそれだけを口にした。
「あの子どもたちは――。」
 女はゆっくりと語り始めた。
「あの子たちは、幼くしてふた親と別れ、死を運命づけられた子どもたち。ここは、そうやって行き場を無くした命が集まって、やがて幸せな家庭の子どもとして生まれ変わるまでを過ごす場所なのです。」
 女は白い頬に、ふっと淋しげな笑みを浮かべた。その顔は、まさに息を飲むほど美しかった。
「さあ、もう、里にお戻りなさい。ここで見たことはあなたの胸の中に大切にしまっておいてください。いつかあなたの元にも、あの小さな命の一つが訪れるかもしれません――幸せな家庭の子どもとして。その日まで、あの子たちのことを、どうか忘れずに。」
 女はそう言って、旅人の目を覗きこんだ。旅人の胸に、何か熱いものが溢れた。
 
 
 女は旅人を里まで送ってくれた。停車場に着く頃にはすでに日はとっぷりと暮れ、年の瀬ににぎわう市場まわりも、行き交う人の姿はまばらであった。
 停車場の入口で、旅人は女と別れた。
「これから戻るのですか、山に。」
「ええ。だって、子どもたちが待っていますもの。」
 女はにっこりと笑った。目を奪うように艶めかしいその笑顔の陰には、しかし、母親らしい慈愛があふれている、と、旅人は思った。
「お元気で。」
 旅人は改札口をくぐった。その耳に、聞きなれた列車のガタンゴトンという音が、遠く風に乗って響いてきた。
 
 
完 
 
 
配役
旅人 猫山縞子
女  yuuさん
老婆 ゆきだるまちゃん
老爺 ロトくん
背後霊? 名前はわからないけど二階の仔猫部屋にいた背中乗りの得意な白い子
 
 
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この話は、相当盛ってありますが、三割くらいはノンフィクションです。実在する団体には、もちろん関係があります。
 
 
 

提供は、信玄餅アイスでおなじみの桔梗屋さんでした。(ウソ)