君の名前を教えて


 
 
 絵筆のタッチはやさしくやわらかく、モデルの儚げな印象とともに、画面全体を何とも形容しがたい悲しみが覆う。少女の眼はどこに焦点をあてているわけでもないが、見る者は「さよなら」と告げられた気がする。(中野京子『怖い絵3』より抜粋)
 
 
 彼の瞳に出逢ったとき、私はこの文章を思い出した。
 中野氏のこの文章は、レーニの作とされるベアトリーチェ・チェンチ肖像画に寄せて綴られたものである。二十二歳で斬首されたベアトリーチェの悲劇は、もちろん、保護猫である彼のそれに何一つ重なるものではないが、彼の瞳や、その静かなたたずまいには、絵やモデルそのものより、この言葉の連なりを思わせるものがある。
「さよなら」と告げられた気がする――。
 正確には、そうではない。彼の境遇を考えれば、彼の思いは「さよなら」ではなく、むしろ「僕を迎えて下さい」なのだろう。
 だが。
 それは違う。彼は何も求めていない。彼の瞳には、懇願よりも諦念に近いものがある。
 いや――。諦念とも違う。
 いわば、運命の変転になすすべもなく流され、まるで映画を観ているように、ただ茫然と、自分の行く末を眺めている者のような。
 消極的に運命を受け入れている。急落していく運命の先にあるものをぼんやりと予感しながら、それに抗うことさえ思い付かず、ただただ、差し出されたものだけを享受して、残された時間の中の小さな温もりをつなぎあわせて命を繋いでいる者の。
 そんな静かな悲しみを感じたのだ。
 
 
「公園の餌やりさんは、新顔が来るとすぐ分かるのよ。毎日見てるから。」
 つまり、彼は捨てられたばかりなのだ。
 痩せてはいない。被毛も柔らかく艶がある。長く戸外をさすらってきたと言うほどではないのが、見た目からも分かる。
「いくつくらいなんですか?」
「分からないけど、獣医師はシニアだろうって。」
 ダメちゃんよりだいぶ小さい。ごく普通のサイズだろう。整った顔立ちの、グレー味の強いキジトラである。
 ケージの手前側に猫トイレが置かれていたので、奥の方に、彼は静かに座っていた。手を伸ばして撫でてやると、自ら顔をすり寄せ、ケージの入口まで歩み寄ってこようとする。yuuさんが猫トイレをケージから引き出して、彼を私の手元まで近付けてくれた。
 鳴かない子である。
 だが、撫でられること・優しくされることへの喜びを、全身で表している。人間が自分に示す愛情のかけらに、精いっぱい応えようとする。それでいて、縋りつくような必死さはない。
 分かっているのだ。
 私が行きずりの見学者であり、彼を本当に守ろうとしている者ではないことを。
 大人の猫は、自分の置かれた境遇を理解するという。彼はきっと、自分が捨てられたことを知っている。このお山の家が「仮の住まい」であり、自分が「飼い猫」ではなく「保護猫」になってしまったことを知っている。ここで目にし、彼に優しさを示す人間たちが、優しさ以上の何も与えてくれないことを、心のどこかで知っている。
 ただ――まだその事実を、どう受け止めていいか分からないだけだ。
「いい子なのよ、本当に。」
 彼のその甘え方は、それまで強い愛情で互いに結び付いていた「誰か」の存在を示唆している。飼い主べったりの猫だったに違いない。その彼が、捨てられたのだ。一緒に暮らしてきた長い年月の果てに。彼自身「シニア」と呼ばれる年齢になって。
「飼い主さんは、よっぽどやむにやまれぬ事情があったんでしょうねえ。」
 しみじみとyuuさんは言う。
 yuuさん。あなたは怒ってもいいはずなのに。長年一緒に暮らしてきた家族である猫を、寒空の下に放り出す。その無責任さを糾弾する権利が、あなたにはあるのに。
 私は彼をそっと抱き上げる。
 だが、怒れない理由がある、と、思う。それがyuuさんの本心であるかは別として。
 彼が小さな音で、喉をゴロゴロ鳴らす。
 現在、彼が生命を預け、唯一心を寄せる彼女が、彼の最愛の人を非難することを彼が望むとは、到底思えない。そんな思いを抱くには、彼は優しすぎるのだ。いや、それより、彼の「その人」への愛情が深すぎるのだ。私には分かる。
 
 

  
 
 私のかわいいミミ。
 私の最初の、私だけの猫。
 彼女も大人になってから捨てられた猫だった。首輪をつけたまま車から降ろされるのを目撃した人がいると言う。
 当時、おそらく彼女は一歳半から二歳くらいだった。捨てられた場所は餌やりさんの家の庭である。だが、大人しい彼女は庭に集まる大勢の猫の中からはじき出され、彷徨った末に、猫好きの鳥屋さんの店先に辿り着いた。
 私の元に彼女が来たのは、その鳥屋のおばさんが亡くなり、店が取り壊されることになったからである。
 鳥屋さんが亡くなった後は、お隣のブティックのママが、ミミや他の猫たちの世話をしていた。ミミ以外は仔猫で、一匹を除き貰い手が付いた。(残る一匹はママさんが引き取った。)私はその仔猫のうちの一匹が風邪をひいたことが気になって、「獣医さんに連れて行ってもいいか?」とママさんに訊きに行ったのをきっかけに、一連の事情を知ることとなった。
 当時、私は、成猫を飼いたいと思っていた。
 長毛の猫を飼う気は全くなかったのだが、ミミには行き場がないということを知り、ごく自然な流れで「では私が…」という話になった。
「この子は、本当に賢い子ですよ。」
 ママさんの言うとおりだった。私がミミを貰い受ける申出をした後、遠慮がちだったミミは、急に私に対して甘えるしぐさ見せ始めた。ママさん曰く、「お前はあのお姉さんの家に行くのよ。」と、言い聞かせたのだという。
 この話は、前にも書いている。記憶のある方もいらっしゃるかもしれない。
 もうずいぶん記憶が薄れているのだが、ママさんと何か打ち合わせをしていた時だったか、それとも、一緒にミミを見ていた時だったか、ママさんは彼女のことを、ごく自然に「ミミちゃん」と呼んだ。私は職場の先輩と一緒だったのだが、それを聞いて、先輩と二人、「あの子はミミちゃんという名前なんだね。」と話し合った。
 次に先輩と二人、ママさんの元を訪れた際、お店の近くの道路にいたミミと行き逢った。
「ミミちゃん。」
 声をかけると、ミミは目を輝かせて「ゴロン」をした。明らかに、その前とは反応が違った。
「反応がいいね。」
「やっぱりミミちゃんなんですね。」
 ひねくれ者の私が「ミミ」などという、いかにも猫らしい名前をつけることなど、普通なら考えられないのだが、彼女がせっかく「ミミ」という名前に馴染んでいるのだからと、我が家に迎えた後も、名前はそのまま「ミミ」にした。
 ところが。
 後日、ブティックを訪れ、ママさんと話をした際、
「名前は何にしたの?」
と、尋ねられた。
「そのままミミにしました。」
「あらそう。いい名前もらえて良かったわねえ。」
 どうも、話が噛みあわない。
「あの子、もともとミミちゃんなんですよね。」
「いいえ。あの子は捨て猫だから、名前なんて分からないのよ。」
 先輩と二人、顔を見合わせた。不可解な思いを抱きながら、ブティックを辞した。
「でもあのとき、ミミちゃんって呼んでましたよね?」
「うん。それに、ミミちゃんって呼んだら、明らかに反応良かったよね。」
 私は今でも信じている。あれはミミはが私に、自分の名前を教えたのだ。「ミミ」は、最初の飼い主が彼女につけた名前に違いない。彼女は私にそう呼んで欲しかったから、何か不思議な力を使って、私にそれを伝えてきたのだ。
 
 
 ミミはあまりに賢い子だった。
 優等生であり、優等生気質であった。
 良い飼い猫であろうとすることが彼女の第二の天性であり、飼い猫としてパーフェクトな生活態度を維持することが、彼女のプライドであった。だから、たまに彼女が「してはいけないこと」をして私が叱ると、彼女はいつも、叱られたことに対する怒りや恐怖より、むしろプライドが傷付いたという表情を見せていた。
 いじらしいほどに、良い子であろうとして一生懸命だった。
 二度と捨てられまいとして必死だったのか。
 そうではないと思う。彼女は優しかったのだ。私の心を察して、常に私に良いようにと、心を砕く子だったのだ。
 そんな彼女が、おそらく仔猫時代から一緒に過ごしたであろう、最愛の飼い主に捨てられたという、否定できない事実。
 訳も分からぬまま突然車から降ろされ、車はそのまま走り去って――。
 どんなに心が傷ついたことだろう。
 それを思うと、私は涙が出た。彼女を捨てた最初の飼い主に怒りを覚えた。
 だが。
 一方で分かっていた。ミミ自身は、自分を捨てたその人を、許しているであろうことを。
 そして、彼女が生涯で一番愛した人が、おそらくその人であることも。
 よく、自虐的に想像していたことがある。
 いつか私が「向こうの世界」に行って、ミミと再会したとき。
 ミミの目の前に、最初の飼い主と、鳥屋のおばさんと、私がいたら。
 彼女は、誰を選ぶだろう。
 きっと、最初の飼い主だ。そうでなければ、恩義を感じて、彼女の窮状を救った鳥屋のおばさんを選ぶかもしれない。
 私ではない。
 彼女が、病気の彼女を十分にケアしなかった私を選ぶとは、到底思えない。結果的に彼女の寿命を縮めてしまった私が、そんなことを願うのは、あまりに虫が良すぎる。
 それでも、まことに勝手な話だが、私には、ミミが私にその恨みをぶつけてくるとは思えない。優しい彼女は、それでも私に愛情を感じてくれると、勝手に信じているのだ。
 だが。
 同じ理屈で、彼女は最初の飼い主を許すに違いない。
 そう思えばこそ、私は、彼女の健気な心が切なかったし、その優しすぎる心を傷つけた行為に対して、許せない思いを抱き続けていた。
 傷ついたのは、私ではないのに。
 
 

(ミミとダメ)
 
 
 もう一匹、「シマくん」という猫を思う。安暖邸で出会った猫さんだ。
 彼も大人になって捨てられた猫だという。詳しい事情は知らないが、彼にはきょうだい猫(か、同居猫)がいたらしい。だが、シマくん以外の子たちは、捨てられたショックから生きる気力を失って、次々に亡くなってしまったと聞いた。シマくんも一時は危ない状況にあったが、「絶対死なせない!」というボラさんの献身的な看病で、奇跡的に一命をとりとめ、安暖邸を経て、現在は新しい里親様のお宅にいるという。
 そういえば、シマくんにも、お山の彼と共通する、何か諦念に似た静かな優しい雰囲気があった。
 生きていければいい。ご飯がもらえ、寝る場所があればいい。
 そんな問題ではないのだ。
 猫と人間が違う感性を持っているとは、私は思わない。オオカミ少女の例を見るまでもなく、感性は環境によって育つものだ。人間と動物が持つ「心」そのものが違うものだと考える理由はない。だったら、人間と一緒に、人間社会の中で生きてきた動物たちは、人間と同じ感性を持っていると考えて自然ではないのか。
 愛する人。愛する家。愛する生活。それまで自分を取り巻いていた全てから切り離され、誰からも愛されない、誰のことも愛せない世界にひとり取り残される。それも、自分が最も愛した人の手によって。
 捨てられた飼い猫の余命は、せいぜい二ヶ月と聞く。
 飢え。事故。病気。虐待。あるいは保健所へ。もしかしたら、実験動物狩りに遭って。
 人知れず、彼等の命はひっそりと消えていく。
 一つだけ言える。どんな死に方であったとしても、彼等は同時に、心破れて死んでいくのだ。
 
 
 人間の愛情に対しては用心深くしていなくてはなりません。なぜなら時として、ムチで打たれるより痛い思いをさせられることがあるからです。人間の愛はときには冷めてしまい、猫は取り残されます。そんなこと、猫ならけっしてしないのに。(ポール・ギャリコ『猫語の教科書』より抜粋)
 
 
 そう。
 猫なら決して、そんなことはしない。
 だからこそ、ミミはきっと、最初の飼い主を許していた。
 おそらく、お山の彼も。
 
 
 さあ、もう仕事しなきゃ――。
 言い訳のようにそう呟いて、彼を元の位置に座らせ、猫トイレを入れ直して、ケージの扉を閉めた。
 彼は抵抗ひとつせず、ただ黙って、私を見ていた。その瞳が、切なかった。
 無責任な優しさだけを示す私を、彼が責めるわけもない。
 その瞳が語っていたのは、ただ茫然とした悲しみだった。求めることも諦めることも忘れた、純粋な悲しみの色だった。
 その澄んだ美しさゆえに、心を引き裂く瞳の色だった。 
 
 
 お願い。
 君の名前を教えて。
 せめて、君の愛する人が君を呼んだ、同じ名前で、君のことを呼んであげたい。
 
 
 

 
 
 

グイド・レーニベアトリーチェ・チェンチ
 
 
追記:昨日、yuuさんにお願いして、彼に名前を付けさせていただいた。「幸(みゆき)」くんとつけた。
この文章を考えている時にふと頭に浮かび、その後、その名前が頭から離れなくなった。
それが彼の本当の名前だと考えているわけではない。願わくば、これが短い仮の名前であり、本当の新しい名前と新しい家族が、近い将来、彼に与えられんことを。