ゴッドファーザー、その後。
「何しに来た、このアマ。失せろ!さっさと失せろ!!」
突然姿を現した少女に、愛宕朗はかっとなって怒声を張り上げた。
「ここは猫山一家のシマだぞ。お前なんかが入っていい場所じゃない。オイゴラ、聞こえねえのか!」
少女は目を見開いたまま、呆然と立ち尽くしている。それでも、出ていく気配はない。愛宕朗は、怒りで体が熱くなるのを感じた。
「なめとんのか、このアマ!!」
激情のままに降り上げた拳が、無防備な少女の顔面に炸裂しようとしたその刹那、突如、彼は背後に気配を感じた。振り返るまでもなく、そこに誰がいるのか、彼は文字どおり体で理解した。その圧倒的な存在感。体じゅうの力を吸い取られるような、その不気味に冷たい静けさ。大物の醸し出す貫録は、味方と知ってさえ、底知れぬ恐怖を感じさせるものだった。
「愛宕朗。」
抑揚のない声が、彼の動きを奪った。
「お前は血の気が多すぎる。そんな年端もいかないお嬢さんに、やたらと手を上げるものではない。」
以上は、2014年11月16日の記事「愛しのゴッドファーザー」からの抜粋である。
帰る家のない少女は、その後、愛宕朗の情婦となることで、猫山一家の中に居場所を得た。
血の気の多い愛宕朗は、付き合ってみると、到って単純で気のいい若者だった。陽気で、遊び好きで、ただ、親分に心酔するあまりイキがっているだけの、実に分かり易い男なのだった。その親分から彼女の面倒を見るようにと言いつけられると、気のいい若者は、はじめは形ばかり嫌々ながらの様子を見せながらも、「親分の顔を立てて」、何くれとなく少女の世話をやいてくれた。
少女が新しい環境に馴染んで落ち着きを見せ始めると、愛宕朗と少女は、今度は互いに楽しい遊び相手となった。口に出しては言わないものの、愛宕朗自身も、年齢の近い遊び相手ができたことを喜んでいるのが、態度から分かった。
猫山一家での生活は、思っていた以上に快適だった。情婦といっても、彼女には何の義務もない。賄いや掃除といった細々した用事は、一家付きのばあやが全て片付けてくれる。シマ自体が平穏で、外部からの侵入や抗争もほとんどない。(だからこそ、ふらりと現れた少女があれほど警戒されたのだ。)愛宕朗は楽しい遊び相手だし、あの恐ろしい親分さんも、普段は顔を合わす程度で、少女の生活には全く何の関心も示さないかに見えた。それでいて、少女がちょっとした事故で入院した際には、退院を出迎えてくれるような優しさも持っていた。(一方の愛宕朗は、このとき、例によって、イキがって少女にぶっきらぼうな態度をとったのだった。)
日に二度、一家の者が集まって食事を摂る。少女もそこに参加するわけであるが、さすがに男たちの間に入って行く勇気は、彼女にはなかった。少女はいつも、少し離れたところで、一人で食事を摂った。愛宕朗が親分さんの隣に陣取って、嬉々として食事を共にするのを眺めながら。
気が付いたら、前回の更新から二ヶ月以上が経過している。我ながらびっくりであるが、その間に遊びに来ていただいた皆様には、大変申し訳ない。
この話は、写真の日付から見るに、前回の更新とほぼ同時期の話である。つまり、およそ二ヶ月前の話だ。従って、私の記憶もやや薄れがちな点もあるのだが、ぼつぼつと思い出しながら書いていこうと思う。
先述のとおり、玉音は他の二匹とはちょっと離れた場所で食事をすることが多い。最初は三匹一緒に食べ始めるのだが、玉音は少し食べると、ふらりとその場を離れてしまうことがよくあるからだ。
かといって、食べないわけではなく、行った先にご飯をデリバリーするとぱくぱくと食べる。そしてまた、ふらりとどこかへ行く。またご飯をデリバリーする。するとまた、食べる。要するにジプシー食いである。
それがだんだん、最初から他の二匹とは少し距離をおいて食べるようになってきた。男どもは洗面所と台所の間の短い廊下が食事場所になっているのだが、玉音はそこで一緒に待機はするものの、ご飯が出てくると後ろに引っ込んで、食卓の椅子の下に行く。その距離、およそ一メートル程度なのであるが、一匹だけ椅子の下に引っ込んでいるのもあって、別エリアにいるという感が強い。
彼女は個食を好む猫なのか?
でも、なぜ?
他の二匹の食べ方に、何か彼女の不安を惹起する点でもあるのか?
実は、二ヶ月後の今は、三匹とも黒缶に飽きてきたこともあって様相は異なるのだが、当時、ダメちゃんは精力的に全員のメシを片付けていた。ただし、「他猫のご飯を盗ってはいけない」というルールは割と守られていて、三匹とも、他の猫が食べている皿に顔を突っ込むことはしない。最も反則スレスレなのがアタゴロウで、ダメちゃんが食べている皿のすぐ近くまで顔を寄せて、皿の外に散らばったカリカリを拾って食べるのだが、皿の中身を狙うことはしない。
ただし。
皿の持ち主がその場を離れたら、そのご飯は「食べても良い」というルールになるらしい。らしい、と言っても、それは私が敢えて止めなかったからそうなったわけなのだが。
つまり、彼等にとって、「自分の皿のご飯は自分に権利がある。他猫のご飯は、他猫が皿にいる間だけ他猫に権利がある。」ということになるようなのだ。
その結果、何が起こるか。
例えば、ダメちゃんとアタゴロウが並んで食事をしていて、何らかのはずみでアタゴロウがその場を離れたとする。すると、ダメちゃんは、全く同じご飯が自分の皿の中にたっぷり残っているにも関わらず、すぐさまアタゴロウのご飯に進出する。
自分のご飯は既得権益として守られているが、他猫のご飯は、皿の主が不在の今しか食べられないから、という理屈らしい。
そこへ、アタゴロウが戻って来る。
彼はご飯の続きを食べようとするが、自分の皿にはすでにダメおじさんの頭が突っ込まれている。一方、ダメおじさんの皿は、持ち主不在である。
こうして、猫の位置が入れ替わる。
ここでもし、アタゴロウが戻って来なかったら。
ダメちゃんはさっさとアタゴロウの皿を空にする。そして、然る後に、自分の皿に戻って、自分のご飯を悠々と平らげる。
その上で更に、全員の皿を点検し、残り物があったら、それも几帳面に片付けるのである。
話は戻り、玉音ちゃんである。
彼女は遊び食いである。栄養失調で死にかけていた野良のくせに、食事に淡白なのは少々理屈に合わない気もするが、警戒心ゆえに食べることに集中できなかった幼少期の名残なのかもしれない。
彼女がご飯をほったらかしてジプシーを始めると、当然ながら、ダメちゃんがその皿を狙う。放っておくと、玉音の分のご飯も結局全部ダメちゃんが食べちゃった、ということにもなりかねないから、家主としては油断ならないことこの上ない。
ついでながら、玉音ちゃんはどうやら、ドライフードがあまり好きではない。ウェットフード派である。
ウェットの後にドライを出すせいもあるだろうが、彼女はドライフードを前に、明らかに集中力をなくす。ウェットは一気食いするくせに、ドライはちょっとだけ食べて放浪を始めるか、下手をすると、見ただけで立ち去ることもある。かといって、本当に食べないわけではなく、先述のとおり、放浪先に持って行ってやると何食わぬ顔で完食していたりするのだ。(本当にお腹がいっぱいになると、走って逃げるので分かる。)
厄介なのは、そんな玉音の性格を抜け目なく把握したおじさんが、最初から彼女のご飯を狙うようになってきたことである。
ダメはどうやら、自分のご飯を食べながら、玉音の様子を観察しているらしい。彼女が皿を離れると、間髪を入れず、シマシマの大きな体が主不在の皿の前に現れる。そんな光景を、何度目撃したことか。
そして、ある日、私は見てしまった。
椅子の下でドライフードを食べ始めた玉音が、ふと、顔を上げた。その視線の先には、彼女を凝視する金色の二つの目があった。
彼女は視線を外した。そしてそのまま、皿の前を立ち去った。
「久しぶりだな、玉音。」
抑揚のない低い声に、玉音は食べていた皿から顔を上げた。
久しぶりではなかった。親分とは、毎日顔を合わせている。ただ、余程のことがなければ、親分が彼女に話しかけることはないし、玉音の方から親分に話しかけるなど、まずもって有り得ないことであった。
「おはようございます、親分。」
玉音は短く挨拶を返した。自分を凝視する視線の鋭さに、それ以上はとても口がきけなかった。親分は優しい方だ。そうと知ってさえ、正面から話しかけられると、妙に身が竦む思いがする。
親分はただ、静かに彼女を見つめていた。感情の読めない目だった。死んだ魚のよう、という表現があるが、親分の冷たい金色の目は、その一見死んだような無関心さの中に、言葉では言い表せぬ凄味を秘めていた。
やがて、親分が口を開いた。
「食べ終わったのか。」
「――はい。」
玉音は目を伏せた。そして、ほとんど口をつけていない皿を残して、ゆっくりと踵を返した。
まさか、ね。
だが、よく観察していると、玉音はダメが見ていると、かなりの確率で、食べるのをやめて放浪を始めるのだ。
これは、偶然だろうか。
そうとは、思えなかった。
だが、普段見る限り、ダメと玉音は仲良しである。すれ違う時は必ず匂いを嗅ぎ合って挨拶しているし、玉音はアタゴロウよりむしろダメを慕っているのではないかと思わせる点も、沢山あるのだ。
ドライフードに執着のない、あるいは、私に無理強いされて内心嫌になっている玉音が、彼女のドライフードを狙うダメと、利害の一致を見た。
(いいわよ、おじさま。私の分をあげる。)
そんな微笑ましい、譲り合いの精神がもたらす譲渡関係なのだろうか。
だが、微笑ましかろうが、そんなことでは困るのだ。
ダメちゃん、君はダイエット中だろう。
玉音ちゃん、ドライフードを食べないと、栄養が不足するんだぞ。
そんなわけで、私は、ダメの機先を制して皿を奪い、放浪する玉音を追いかける。物陰に隠れる彼女の近くまで、無理矢理皿を押し込んで、何とか食べさせようとする。
そうやって、最終的に辿りつくのが、たいてい、和室の壁に立てかけたマットレスの陰。
手の届く限り玉音の近くまで皿を押し込んで、後は近くで聞き耳を立てていると、やがてポリポリとフードを齧る音がしてくる。
ほらやっぱり。
ダメが見ていなければ、ちゃんと玉音は食べるのだ。
その頃になると、ダメも諦めたのか、顔を洗って寝る体勢に入っていたりする。
要するに、猫は合理的な動物なのだ。
他猫が食べないのなら、失敬する。自分が好きでない食べ物は、それを好きな猫に譲ってやる。
病院の匂いを付けて帰って来た玉音を、分け隔てなく迎え入れてくれた、優しい親分だもの。
いつもすれ違いざま、匂いを嗅ぎ合って挨拶している二匹だもの。
玉音ちゃんは女の子だけど、ご飯を巡る二匹の関係は、いわば紳士協定みたいなものなのではないだろうか。
だが――。
水面下で暗躍する猫山一家を警戒して地元の商店街が設置した防犯カメラは、全く違う映像を残していた。
これを、路地裏の恐喝と呼ばずに何と呼ぶ。
(全く気付かない気のいい男)
追記。先日、yuuさんから「幸くん」の訃報を受け取った。
私は、彼の保護当初と、ここには書かなかったが六月にももう一度、彼に会っている。
yuuさんのブログにも何度か登場したのでご存知の方もいらっしゃるかとは思うが、彼は結局、yuuさんの自宅で過ごしていた。聞くところによれば、当初、サテライトの猫たちと一緒に生活していたものの、ボラさんの一人が「人生諦めたような顔してる」と、彼を自宅の方に移してくれるようyuuさんに頼み、以来、yuuさんの自宅猫になったらしい。
ある友人は彼について、高齢の飼い主が亡くなるか施設に入るかして、困った親族が捨てたのではないかと推測していた。もし、そうだったら、彼はもしかしたら、天国で、大好きな飼い主と再会したかもしれない。
彼は一体、何歳だったのだろう。
ただ優しく大人しく、気付けば傍にいるような猫。他の猫たちとも自然に馴染んでいたと聞く。そんな幸じぃじの冥福を、祈ってやまない。