そして誰も食べなくなった(前編)


 
 (※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。)
 
 
 愛娘タマーネ・カッツェンバーグに捧ぐ。
 
 
         I
「いいか。ひとくち、そう、一口だって口をつけるなよ。匂いを嗅ぐのはいい。お前が皿の上の物を認識していることのアピールになるからな。砂かけはしなくていい。感情論に持ち込むな。あくまで冷静に拒否するんだ。分かるな?」
「ええ、それは分かりましたが…。」
「敵はあの手・この手で誘惑してくるだろう。鰹節をかけるかもしれないし、カリカリを乗せてくるかもしれない。」
「そのカリカリは、食べてもいいんですね?」
「いや、駄目だ。あれの匂いの付いたものは、全部拒否するんだ。」
「でも、大佐…。」
「部分的な妥協を思わせるようなものは全てノーだ。全面的な拒否。断固として闘う姿勢を見せてこそ、この作戦は功を奏するのだと考えろ。一日や二日の絶食が何だ。俺は昔、戦場で四日も何も食わずに彷徨ったことがある。だが、見ろ。こうして今、無事に生きているじゃないか。」
「ええ、でも…。」
「何だ、怖いのか?」
「違います。ただ――何となく不安なんです。あの、家主は本当に、僕らの要求を呑んでくれるでしょうか?僕らが食べないというだけで?」
「そのためのハンガーストライキじゃないか。いくらあの吝嗇な家主でも、我々を餓死させることはできまい。そんなことをしたら、永遠に猫飼資格を剥奪され、社会的に失脚どころか、抹殺されると言ってもいい。あいつにそこまでする度胸はないさ。」
「まあ、そうですけど。でも、あの家主に、そこまでの政治的判断ができるものでしょうか。もしあいつが、いつまでもぐずぐず迷い続けていたら…」
「分かった。三日だ。お前がそこまで言うなら、もしあのうすのろ家主が正しい答えに辿り着かなくても、三日経ったらお前は食べてもいい――匂いの付いたカリカリだけならな。」
「ええ、でも…。」
「じゃあお前は、このまま一生、あの黒い飯を食い続けるのか?よく考えてみろ。三日、たった三日だ。それだけの辛抱で、一生あの黒い飯から解放されるんだ。さあ、お前はどうするんだ。三日間歯を食いしばって、一生分の自由を手に入れるのか?それとも、最初から尻尾をケツに挟んで、権力のいいなりに、死ぬまで黒い飯を食い続けるのか?」
「見損なわないでください。僕だって闘えます。」
「それでいい。――いやまて、もう一つある。」
「まだ、何か?」
「お前の女房だ。この作戦は、全員がいちどきに行うことに意味がある。お前、女房にも、今夜は食べるなと言えるな?」
「彼女を仲間に引き入れるのですか?」
「いや。余計なことは伝えなくていい。女はおしゃべりだからな。毒が入っているとでも言っておけ。」
「そんな…信じませんよ。」
「とにかく食べるなと言え。少なくとも、俺たちが残した飯には、手を出すなと言っておけ。分かったな。」
 会談は唐突に終わった。相手の反論を封じるように、大佐は踵を返し、大股に歩み去った。残された若者は夕闇の中、途方に暮れたようにひとり、立ちつくしていた。
 
 
        II
 カッツェンバーグ夫人は眉をしかめて、手にしたレトルトを、乱暴に元あったスーパーの商品棚に押し込んだ。スープ仕立て!フレーク!調味料入り!どれもこれも気に入らなかった。なぜ、シンプルなゼリー寄せで、美味しくて、グラム数も丁度いい、つまり我が家にぴったりなレトルトがないのだろう。ああ、私のミオパウチ。あんなにも理想的だったあのフードが、販売中止になってしまうなんて。海缶パウチも、ちょっとパックごとのばらつきが気になったけど、いいフードだった。どうして、人間も猫も喜ぶ良いフードは、みんな消えて行ってしまうのだろう。これもみんな、きっと、えーと、アマノミクス?いや、違う。アベノミクスとやらの影響なんだわ。そうでなかったら、共産主義よ。まったく、政治家が無能なばかりに、世の中は悪くなるばかり。キャットフードひとつ、ろくなものを作れないくせに!
 カッツェンバーグ夫人は鼻を鳴らして、キャットフードの棚をにらみつけた。心の中で悪態をつきながらも、彼女には分かっていた。本当は、食べ物の選り好みをする、家の猫たちが悪いのだ。だが、たかが下宿の女主人ふぜいが、彼等に文句を言えるはずもない。カッツェンバーグ夫人は目の前の黒缶パウチを手に取った。ゼリー仕立て。七十グラム。調味料なし。値段も手ごろ。これだって良いフードなのに。なぜ、うちの下宿猫たちは毛嫌いするんだろう。
 カッッツェンバーグ夫人はこれ見よがしに大きなため息をつくと、黒缶パウチを商品棚に戻し、自分用の野菜だけが入った籠を手にレジへと向かった。
 
 
         III
 ダーメン大佐は、エレヴェーターの扉が開く音に、ふと目を覚ました。いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。深々と身を沈めたクッションから首をもたげ、周囲の物音に耳を傾ける。あの足音は――いや、違う。あいつではない。家主の足音ならすぐ分かる。あの覇気のない重たげな足音を聞き違えるはずもない。あれを聞くだけで、あいつがどんな女か分かろうってもんだ。大佐は思わず、ニヤリと薄笑いを浮かべた。
 予想どおり、足音は邸宅の玄関前を通り過ぎていった。大佐はそのまま身を起こして、自慢の毛皮の手入れに取りかかった。
 背中の縞模様は、まだまだくっきりと精彩を放っている。ただ、顎の下から胸元にかけては、白い毛が目立つようになっていた。
 俺も歳をとった――。大佐はせっせと舌を動かしながら、心の中でひとりごちた。若い頃なら、この立派なトラ模様と、がっしりとした尻尾で、女どもはみんな俺の言いなりだったのに。
 アタンリーは、女房を説得できるだろうか。あいつはいかんせん、気が弱すぎる。おまけに、女房に頭が上がらないときたもんだ。あんな小娘は、言うことを聞かないなら、一発お見舞いしてやればいいだけの話だ。そうでなければ、うんとおだてて惚れさせて、骨抜きにさせる。あれが俺の女だったら、話は簡単だったのに。
 大佐は舌を止めて、顔を半分持ちあげた。彼の思いは遠い青春時代へと飛んでいた。戦友たちはどうしたろう。あの血気盛んなライアン伍長は、その後、大将にまで出世したと聞く。あいつは腕っぷしが強い上に色男だった。それに、強面のロト軍曹。彼は寡黙ないいやつだった。その後、参謀本部付きとなり、士官学校の校長になったところまでは聞いたが、今はもう、引退して悠々自適というところだろうか。
 あの頃の若者はみんな気骨があった。だが、今はどうだ。近頃の若い連中は、平和な暮らしに慣れきり、権力におもねることばかり考えている。アタンリーは素直ないい男だが、レジスタンスというものの本質を分かっていない。あいつはただ、しばらく食事を拒否すれば、家主が自分を哀れに思ってくれるだろうというくらいの、安易な考えしか持っていない。違う。これは闘いなのだ。猫は人間の所有物ではない。猫には猫の生き方とプライドがある。それを家主に認めさせるのだ。だがあいつは、そもそも、猫のプライドなどというものを持っているのか――。
 大佐は胸に広がる暗い予感を振り払うように、後足で右耳の後ろをバリバリと引っ掻くと、クッションから飛び降りて、水を飲みに風呂場へと向かった。
 
 
         IV
「今夜はいやに無口なのね、アタンリー。」
 アタンリー・ブラックホワイトは、開きっぱなしの雑誌の上から顔を上げた。妻のノラが、少し離れたところに立って、彼をじっと見つめていた。
「どこか、体の具合でも悪いの?」
「いや、何でもない。」
 アタンリーは立ち上がって伸びをすると、胸の辺りの毛を無造作に何度か舐めた。無頓着なふるまいを演出したつもりだったが、それはむしろ、いかにも神経質な行動であるように、ノラには見えた。
「あたしに、何か言いたいことでもあるの?」
「いや、別に…。」
 言いかけて、アタンリーは言葉を切った。先刻のダーメン大佐の指示が脳裏に甦った。彼女に話さなければならない。だが、どうやって?大佐の要求はあまりにも無茶だ。真実を伝えずに、彼女にどう話せばいいのだろう。
「ノラ。」
「なあに、アタンリー。」
「来てくれ。話があるんだ。」
 ノラはいぶかしげな表情を浮かべたが、黙って夫に歩み寄ると、目の前のクッションに腰を下ろした。
「なあに、話って?」
 アタンリーはためらいがちに口を開いた。
「今夜の食事のことなんだが。」
「食事?」
「うん。――つまりその、今日の夕食だけど、できれば、口をつけないでもらいたいんだ。」
「あら、どうして?食事をちゃんと食べないと死んでしまうわ。」
「理由は話せないんだ。だが、今夜は――今夜だけでいい。食べずに我慢してもらえないか。」
「いやよ。お腹が空くわ。」
「分かってる。すまない。でも、大事なことなんだ。」
「分かったわ。」ノラはきつい目で夫を睨んだ。「ダーメン大佐ね。あのお年寄りが、またあなたに、変なことを言ったんでしょう。」
「変なことなんて、言ってないよ。」
「でも大佐なのね。あのおじいちゃんは、少し頭がぼけているのよ。あなたがあのひとに優しくしてあげるのは、とても感心なことだと思うわ。でも、ものには限度ってものがあるわ。ごはんを食べるな、なんて、呆れた!あなたは何でも彼の言いなりすぎるのよ。」
「ノラ!」
 アタンリーは思わず声を荒げた。
「大佐はぼけてなんかいない。あのひとは、立派なひとだ。いいかい、これには大事な理由があるんだ。そう、とても重要なことだ。これ以上、大佐の悪口を言うな。言ったら、僕が許さない。たとえそれが、君でもだ!」
 思いがけない夫の剣幕に、ノラはびっくりしてオリーヴ色の目を見開いた。その目から、一粒、二粒、大粒の涙がこぼれおちた。
「おお、アティ、アティ。あたしのアティ。あなた、怒っているのね。大佐のことは、あたしが言い過ぎたわ。でも、分かって。あなたが、あまりにも大佐、大佐って、彼のことばかり話すから、あたしは不安なの。あなた、本当は、あたしになんか、何の興味もないじゃないかって。」
「そんな。馬鹿なことを言うんじゃないよ、ノリー。僕が一度だって、きみに夢中でなかってことなんてあるかい?」
「ごめんなさい、アティ。あたしは本当に馬鹿な女ね。」
「そんなことはないよ。僕が悪かった。きみの言うとおりだ。何も大佐の言うなりになんかなることはない。きみは夕食を食べていいよ。ただ、僕は食べないけど、心配しないでくれ。」
「分かったわ。」
「それと、もう一つ。僕と大佐は夕食を残すけど、いいかい、そのことについては、一切、無関心を装ってほしいんだ。きみは何も見ないし、何も思わない。いいね?」
「ええ。ええ。あなたの言うとおりにするわ。――あなたがそうしてほしいなら。」
「ありがとう。――愛しているよ、ノリー。」
「あたしもよ、ダーリン。」
 ノラは立ち上がって夫の鼻に軽くキスすると、寝室へと姿を消した。
 
 
         V
 アタンリーは妻の後ろ姿を見送ると、思わず大きなため息をもらした。とにかく、説得には成功した。だが、たった今、彼女が勢い余って口にした悪態は、彼女が思っていた以上に、アタンリーの胸に突き刺さっていた。
 あなたは彼の言いなりすぎるのよ――確かに、そのとおりだ。俺は大佐の言うなりだ。だが、仕方がないじゃないか。彼は俺の父親みたいなものなんだから。
 ノラは彼を大佐の言いなりだと言い、大佐は彼が妻の尻に敷かれていると言う。だが、アタンリーには、どちらにも強く出られない理由があった。感化院から出てきたばかりの、天涯孤独な少年だった彼に、男としての生き方を教えてくれた大佐。そして、ノラは――アタンリーには、彼女に借りがあった。
 まだ結婚したばかりの頃、ノラがカッツェンバーグ夫人に連れられて、突然、家を留守にしたことがあった。二日後、最新流行のドレスを着、彼にとっては悪臭でしかない、嗅ぎ慣れない香水のにおいを漂わせて戻って来た彼女を、彼は理由も聞かずに唸り付けたのだ。その後、その外出が、不慮の事故による入院だったことを、アタンリーはこともあろうにダーメン大佐から教えられた。その頃からである。夫婦の間に、ごくわずかにだが、気まずい空気が流れ始めたのは。
 せめて大佐が、もう少し、ノラの聡明さに気付いてくれれば良いのだが――アタンリーは胸の中でひとりごちた。だが大佐にとってノラは、いつまでも「世間知らずの小娘」に過ぎないようだった。本当は違う。ノラには天性と言える、物事の本質を見極める鋭さがある。今回のことだって、彼女に何も知らせず、ただ言うことを聞かせようなどと、どだい無理な話なのだ。とはいえ、大佐の計画を彼女に知らせたら、彼女は一も二もなく拒否するに違いない。彼女は若い娘には珍しいほどの冷徹な現実主義者で、何事にも非常に慎重なたちなのだ。
 結局、俺はどちらの味方なんだ!?――アタンリーは自問した。答えは出なかった。大佐の考えることは、過激で無謀すぎる。それは分かっていた。だが、厳しい戦争の時代を生き抜いてきた彼の言動には、言葉には言い尽くせぬ説得力があり、何より――若者の心に訴える素晴らしい魅力があった。
 アタンリーは再びため息をつき、頭を振って、マントルピースの上の時計に目をやった。六時二十分。夕食までには、まだ一時間近い時間がある。
 
 
         VI
「夕食ですよ。」
 カッツェンバーグ夫人は誇らしげに声を上げると、手にした皿を一枚ずつ、食堂に居並ぶ猫たちの前に置いた。嗅ぎ慣れたまぐろの血合肉の匂いが鼻腔をくすぐる。猫たちはそれぞれに皿を覗きこみ、血合肉の匂いを嗅いだ。
 直後に、異変は起こった。
 最初に行動を起こしたのはダーメン大佐だった。彼は昂然として頭をもたげると、確固たる足取りでその場を歩み去ったのである。それに倣うように、アタンリーも皿から顔をそむけ、玄関ホールへと消えて行った。
 カッツェンバーグ夫人は唖然として二匹の行動を眺めていた。一体、何が起こったのだろう。アタンリーだけならまだしも、いかなる時でも食欲旺盛で鳴らしたダーメン大佐までが、夕食を食べないなんて。
 カツカツという音に我に返って振り向くと、ノラだけが何事もなかったように、血合肉を平らげていた。カッツェンバーグ夫人は、慌てて次の皿の準備に取り掛かった。フランス産のドライフード。ノラは皿に盛りつけられたドライフードを気の済むまで嚥下すると、いつものとおり、皿の上に湿った粒を少し残したまま、居間に戻って身支度を整えにかかった。
 ダーメン大佐はカッツェンバーグ夫人から少し離れた居間の床の上に陣取り、事の成り行きを眺めていた。ノラが知らん顔で自分の夕食を食べ始めたとき、彼の白い眉毛が幽かに動いたが、口は閉じたままだった。やがてノラが自分の分を食べ終わり、男たちの行動には何も気付いていないかのように身繕いを始めた時、彼の金色の瞳には、人知れず会心の笑みが広がった。
 が、次の瞬間、彼の瞳に浮かんだ勝利の色は、驚愕と疑惑のそれに代わった。大佐は信じられないという眼差しで、目の前に繰り広げられている光景を凝視した。彼の目に映ったのは、人気のない食堂の中、大佐の皿の上に屈み込んで、手つかずだった血合肉をガツガツと立ち食いする、アタンリー・ブラックホワイトの姿だった。
 大佐の視線に気付いたのか、アタンリーは食べるのをやめ、顔を上げて大佐の方を振り返った。ふたりの男の視線が交差した。アタンリーは大佐の強い非難のまなざしにも臆することなく、ただまっすぐに彼を見返すと、向きを変えて再び玄関ホールへと姿を消した。
 
 
         VII
「失礼ながら、君の言うことが良く分からないのだが――。」
 シーバー署長は指を舐めて書類をめくりながら言った。「これはありふれた盗み食い事件ではないのかね?」
「そうかもしれません。」
 キャラット警部はまじめくさって答えた。が、一呼吸おいて、ためらいがちに付け加えた。
「ですが、この事件には、何かキナ臭いものを感じます。一見、ささいな物盗り事件と見せて、この裏には、何か大規模な陰謀が絡んでいる――どうも、そう思えてならんのです。」
「ふうむ。だが、私が問題にしているのは、なぜ君がそう感じるかだ。」
 シーバー署長は、いかにも関心なさげに、書類をめくり続けた。キャラット警部は分からず屋の上司に対して内心の苛立ちを抑えながら、とりあえず説明を試みた。
「この事件には不可解なことが多すぎるんです。まず第一に、そもそも、なぜその晩に限って残り物があったのか。第二に、その晩、『猫生荘』は完全に施錠されていた。外部の者の犯行とは考えられんのです。それなのに、犯行時刻には、内部の者全員にアリバイがある。」
「動機の面はどうだ?」
「それが、何とも言えないのです。動機は、全員にあると言えるし、ないとも言える。まあ、家主のカッツェンバーグ夫人は別ですけどね。あの女には、動機と言えるものはないと言っていいでしょう。」
「君が言いたいのはそれだけか。」
 キャラット警部は、書類の上に視線を落としたままの署長の頭に、鋭く目を据えた。
「では、この件に、ダーメン大佐が絡んでいると言ったら――。」
 効果はてきめんだった。シーバー署長ははじめて顔を上げ、目をしばたいてキャラットを見返した。
「ダーメン大佐か。」署長は薄笑いを浮かべた。「猫レジスタンスの大物だ。彼が盗み食いとはな!フエフキ・リバーの英雄も堕ちたものだ。」
「まだ彼が犯人だとは言っていませんよ。だが、『猫生荘』の下宿人の中に彼の名前があることは、紛れもない事実です。」
「君の言いたいことは分かった。よかろう。捜査を続けたまえ。外部の者の犯行の可能性はないと言ったな?」
「はい。」
「では、『猫生荘』の住人たちを、もう一度、徹底的に洗うんだ。それと、ええと、カッパバーグ夫人か?あの家主もだ。彼女が第一発見者だったな?」
「カッツェンバーグ夫人です――そうです。彼女が、夕食の残飯が消えていることに気付いて通報したんです。おとといの午後八時三十分のことでした。」
「夕食は何時に始まったんだ?」
「カッツェンバーグ夫人は七時だと言っています。いつも夕食の時間は七時に決めていると。ですが、ここでひとつ、証言が食い違うのですが、ダーメン大佐はそれを否定しています。カッツェンバーグ夫人は時間の観念がなく、夕食の時間はいつもまちまちであると。とはいえ、大佐も当日の夕食が何時に始まったか明確には覚えていないようです。唯一信用できそうなのがノラ・ブラックホワイトですが、彼女も、時刻ははっきりと覚えていません。ただ、その日の夕食は普段より三十分以上早かったはずだと。時間は覚えていないが、マントルピースの時計を見た時、こんな時間に夕食が出るなんて珍しいと思ったそうです。」
「夕食が普段より早かった、とな。」シーバー署長は眉を寄せた。「これは何を意味するのか――。」
「最も考えられるのは、カッツェンバーグ夫人に外出の予定があったという可能性でしょう――本人は否定していますが。ですが、こうしたことは、これまでも時々あったと、ダーメン大佐は証言しています。」
「誰か人に会う予定があったということか。」シーバー署長はひとり頷いた。「犯人はそれを知っていて、夫人がいないものと思って犯行に及んだ。だが、夫人はまだ出掛けておらず、犯行はすぐに露見してしまった。犯人には犯行を隠す時間がなかった、と。」
「もしそうだとしたら、夫人は誰に会う予定だったのでしょうか。そして、なぜ、予定どおり出掛けなかったのでしょうか?」
「何か不測のことが起こったんだ。何か夫人を驚かすようなことが起きて、彼女はその夜、『猫生荘』を離れられなくなってしまった。もし君が彼女の立場だったらどうする?」
「約束の相手に、何とか連絡をとろうとするでしょうね。」
「彼女は下宿人たちの目を盗んで電話をかける。だが、その電話のやりとりを盗み聞きした者がいた。立ち聞きか、他の電話の受話器をこっそり上げたのか、それは分からない。とにかく、彼または彼女は電話の内容を聞き、カッツェンバーグ夫人が外出しないことを知った。同時に、家の中で何が行われたかを知った――。」
「ですが署長。」キャラット警部が口をはさんだ。「もし、その彼または彼女が盗み食いの犯人だったとしたら、むしろその日は犯行を思いとどまったのでは。それでは辻褄が合いません。」
「私はまだ、そいつが犯人だとは言っていないよ。」
 シーバー署長はニヤリと笑って、キャラットに先刻のお返しをした。
「動機だよ。君の言う動機は、誰かが腹を空かせていたとか、食事の量に不満があったとか、そういったところだろう。だが、これがありきたりな物盗りの犯行でないとしたら、動機は他にあるはずだ。そこをよく考えろ。この盗み食い事件によって、誰が得をし、だれが損をするのか――。」
 
 
(後編につづく)