そして誰も食べなくなった(後編)


 
  
         VIII
 アタンリーは後足の爪が床に擦れる微かな音に振り返った。出窓の上から床を見下ろすと、夏の夜の湿気を含んだ闇の中に、ノラの白い姿がかげろうのように浮かび上がっているのが見えた。
「アタンリー、」ノラがささやくように話しかけてきた。「眠れないの?」
 アタンリーは返事をせず、再び街灯に照らし出された無人の往来へと目を向けた。北側の出窓は彼のお気に入りの場所だった。ここに座ってぼんやりと戸外を眺めていると、時の経つのも忘れてしまう。そう、ここは彼がひとりになれる場所――誰にも邪魔されたくなかった。ノラにさえも。
 だが、気付くとノラは彼の傍らに来ていた。吐息が毛皮にかかるほど近くに、彼女はいた。アタンリーは小さくため息をついて、真夜中の街にもう一度親しみを込めた一瞥を与えると、ノラの脇をすり抜けてすとんと出窓から飛び降りた。
「寝苦しくてね。」アタンリーは艶のある黒い背を反らして、大きく伸びをしながら言った。「たまらないよ、この暑さは。」
「そうね。」
 ノラは言葉少なに応じた。それきり、会話は途切れた。
 アタンリーは出窓の上で黙り込んでいる妻の姿を、じっと見つめた。ノラは美しかった。子供のころは愛嬌のあるおチビさんといった風情だったが、年頃になり大人びてくると、その輝くように白い毛皮やオリーヴ色の瞳は、彼にとって特別な意味を持ち始めた。彼は年若いノラを当然のように妻にしたのだが、その日から彼の悩みは始まったのだと言っていい。結婚したばかりの妻が無断外泊したと思った二日間のあの苦しみを、彼は忘れていなかった。そして、真相を知らなかったのは自分だけだったと気付いた時の、あの行き場のないやるせなさを。
「アタンリー。」
 再びノラが口を開いた。
「あたしも眠れないの。暑いからじゃないわ。あたしもう、嫌になっちゃったのよ。」
 アタンリーは微笑した。
「あの警部のことかい?」
「そうよ。毎日、朝から晩まで家の中を嗅ぎまわって、同じことを何度も質問して。一体、何だってあの人は、こんなにしつこく、あたしたちをつけ回すのかしら?」
「仕方ないさ。それが彼の仕事なんだから。」
「でも、警察って、殺人とか銀行強盗とか、ダイヤの盗難とか、そういう事件を扱うものなんじゃなくて?こんな小さな下宿屋に、一体何があるって言うのかしら?あたしたちが、国家転覆でも企んでいるとでも?」
 アタンリーは声を立てて笑った。
「まさか。きみの考え過ぎだよ。さあ、こっちへおいで、ノリー。」
 ノラは出窓から飛び降りると、アタンリーの方へ歩み寄った。アタンリーは彼女の耳の後ろを軽く舐めた。
「アティ。」ノラは目を閉じて、うっとりとした声でささやいた。「あたしを愛してる?」
「もちろんさ。」
 アタンリーは優しくささやき返して、再び彼女の耳を舐め始めた。ノラの耳の色のない部分は、白を通り越してうっすらとさくら色に染まっている。しなやかな耳たぶのびろうどのような感触が、舌に心地よかった。
 ノラはそのまま、アタンリーの口元に頭を寄せて、軽く喉を鳴らしていた。
「ダーメン大佐は、」やがてノラは、目を閉じたままつぶやいた。「あたしが亡くなった奥様に似ているって言ってたわ。あのひとは、いまだに奥様のことを愛しているのよ。」
 アタンリーは舌の動きを止めた。ダーメン大佐?なぜこここで、大佐が出てくるんだ?ふいに、胸の中を苦い物で満たされたような気がした。
 彼は心の動揺を抑えて、つとめて何気ない口調で妻に尋ねた。
「いったいいつ、大佐と話したんだ?」
「あなたがここでお昼寝をしていた時よ。あたしが寝室に使っている押入れは、元は大佐の奥様の場所だったらしいわ。あたしたち、ときどき、押入れで一緒になるの。」
「へーえ。それは知らなかったな。」
 アタンリーはそっと妻から離れると、わざとらしく欠伸をしながら、再び出窓に飛び乗り、深夜の街を見下ろした。ノラが自分を見ているのが分かったが、振り返って彼女を見る勇気はなかった。
 夜風が出窓のカーテンを揺らして、ふたりの間を静かに吹き抜けた。
「あなた、眠くなったのね、アタンリー。いいことだわ。お休みなさい。良い夢を。」
「ああ。きみもね。」
 ノラは来た時のように静かに歩み去った。アタンリーはようやく振り返った。彼は妻が立ち去った後も、その緑色の目を見開いて、室内の暗闇をじっと見つめていた。
 
 
         IX 
「さて、皆さん。」
 キャラット警部は、カッツェンバーグ夫人の居間に集まった面々を見渡した。
 大柄なダーメン大佐は、いかにももったいつけて、いちばん座り心地の良いクッションの上にふんぞり返っている。隣の小さなクッションの上には、アタンリー・ブラックホワイト。彼がいちばん落ち着かない様子だった。ひっきりなしに尻尾を舐めては、ダーメン大佐と妻のノラ・ブラックホワイトに、代わる代わる視線を送っている。そのノラは、キャットタワーのボックスの上に、とりすまして座っていた。
 彼女は一体、夫のことをどう思っているのだろう。キャラットはふと、疑問に思った。この三日間、キャラットは『猫生荘』の住人達の様子をつぶさに観察してきたが、こうして皆が集まる席で、ノラが夫の隣に座ったところを見たことがない。一方のアタンリーも、妻の近くにいるより、むしろダーメン大佐に付き従うことを好むように見えた。
「警部さん。」
 部屋の隅でそわそわと立ったり座ったりしていたカッツェンバーグ夫人が、不安そうに声を上げた。
「あの、お話というのは、どのくらいかかるのでしょうか。あたくし、皆さんの夕食の支度をしないと…。」
「あんたがそんなに、夕食に手をかけていたとは初耳だ。」ダーメン大佐が冷たく皮肉った。「終わってからで十分間に合うだろう。まだ六時半にもならん。」
「それより、ゆっくりお座りなさいよ、カッツェンバーグさん。」アタンリーがとりなすように言った。「そんなにせかせか動き回っていたら、警部さんだって、話を始められないでしょう?」
 キャラット警部は軽く頭を下げた。カッツェンバーグ夫人はしぶしぶ、傍らの椅子に腰を下ろした。
「さて、皆さん。」キャラットは改めて口を開いた。「本日、皆さんにこうしてお集まりいただいたのは、今、我々を悩ませている残飯消失事件について、今一度、皆さんの記憶をつなぎあわせて、あの夜、一体何が起こったのかを確認したかったからです。」
「何だ。犯人が捕まったんじゃないのか。」
 ダーメン大佐が非難がましい口調で、キャラットの話を遮った。
「それはまだです。」
 キャラットはまじめくさって答えた。
「ですが、みなさん。私は断言します。犯人は、この部屋の中に――そう、みなさんの中にいます。」
 一同の間に動揺が走った。ダーメン大佐はそんなばかなという怒りと侮蔑の眼差しで、キャラットをぐっと睨みつけた。キャラットは構わず先を続けた。
「この事件には、ありきたりな盗み食い事件として片付けるには、不自然な点が多いのです。そもそも、なぜあの晩に限って、残り物が多かったのか。それに、犯人の動機が皆目分からない。外部の者の犯行と考えた場合、犯人は、その晩に残り物が多く発生することを知っていなければならない。ならず者の侵入による盗み食い事件の場合、その家は猫の出入りが自由で、常に食べ物を出しっぱなしにしてあるのが常です。だが、『猫生荘』では、一日に二回、決まった量しか食事は出されず、食べ終わった食器は大概において、すぐに片付けられていた。そうですね?カッツェンバーグ夫人。」
「はい。はい。おっしゃるとおりですわ。私は置き餌はしないんです。」
「ときどき、食器洗いをさぼるけどな。」ダーメン大佐がつぶやいた。
「それに、」キャラットは続けた。「『猫生荘』は、家主のカッツェンバーグ夫人の出入りの際を除き、常に施錠されている。現に、我々が駆けつけた際も、表玄関の扉が開かず、現場到着まで非常に手間取りました。カッツェンバーグ夫人、あのとき、あなたは呼び鈴が鳴ったのに気付かなかったと言いましたね。」
 カッツェンバーグ夫人は赤くなった。「それは、その、水仕事をしていたものですから――。いえ、本当に、大変申し訳ないことをしたと思っていますわ。そのう、つまり、気が動転していまして、自分を落ち着かせるために、とにかく何か家事をしていようと思ったんですの。」
「いやいや、あなたを責めているわけではありません。とにかく、施錠は完璧だった。この点に、何か異論はありますか?ダーメン大佐。」
「いや。この家は戸締りだけはしっかりしておる。そこは間違いない。続けたまえ。」
「そういうわけで、外部の者の犯行という線は消えます。では内部の者の犯行ということになると、先程申し上げたとおり、今度は動機の点が曖昧になってくるのです。ここにいる皆さんは、事件に先立って、カッツェンバーグ夫人から夕食を与えられ、満足していたはずなのですから。――ただ一人を除いては。」
「何だ、じゃあ、私が犯人だと言うのか。無礼な!!」
 ダーメン大佐は思わずカッとなって、クッションの上に起き直った。
 キャラットは微笑した。
「もし、空腹が動機だとしたら、です。だがあなたはそもそも、あの晩、自分から夕食に手をつけなかった。なぜですか?大佐。」
 大佐は憤然として答えた。「食いたくなかったんだ。」
 キャラットは頷いた。
「食べたくない方は、空腹という動機を持っていないことになります。ですが、ここはひとまず、動機という点はさておいて、事件そのものを振り返ってみることにしましょう。」
 ダーメン大佐は不満げにぶつぶつ言いながらも、再びクッションに体を預けた。それを見届けてから、キャラットは改めて話を始めた。
「まず、カッツェンバーグ夫人にお尋ねします。夕食は何時でしたか?」
「七時ですわ。うちの夕食は、七時と決まっているんです。」
「違うわ。」ノラが口をはさんだ。「もっと早かったはずよ。あたし、あの時、時計を見たんだもの。六時半にもなっていなかったはずだわ。」
「あなたは時間なんか、気にしたことないでしょう。」カッツェンバーグ夫人が言い返した。「生まれてこのかた、ろくに働いたこともないくせに。」
「まあまあ、お二人とも。とにかく、カッツェンバーグ夫人の認識では、夕食は七時に始まった。それから、何が起こりましたか?」
「食べなかったんです!」カッツェンバーグ夫人は興奮したように、大声で言った。「ダーメン大佐も、アタンリーも。ふたりとも匂いを嗅いだだけで、すぐにお皿の前から立ち去りました。こんなことって、あるかしら!」
「では、お二方とも召しあがらなかったのですね。なぜでしょう?ダーメン大佐は食欲がなかったとおっしゃった。あなたもですか?アタンリーさん。」
 しばしの沈黙が訪れた。
「あのう、ぼく――。」アタンリーはもじもじと、前足でクッションに敷かれたタオルをこねくり回していたが、やがて決心したように顔を上げてはっきりと言い放った。
「ぼくは食べました。後から一人で。――大佐はご存知なかったかもしれませんが。」
「いや。知っていたよ。」
 意外なほど静かに、大佐は答えた。
「あのとき、お前は私を見たじゃないか。お前はまっすぐに私を見ていた。その瞬間、私は負けを悟ったんだ。私の時代は終わったのだ、と。」
 アタンリーは小さく口を開けて、呆然と大佐を見つめていたが、やがて下を向いて肩を震わせ始めた。大佐はそんな彼に優しい視線を注いでいた。一方で、キャットタワーの上のノラが夫から視線を逸らしたのを、キャラットは見逃さなかった。


         X
「では、アタンリーさん。」キャラットは冷静に質問を続けた。「あなたは食べたのですね。全部召し上がりましたか?」
「いいえ。いつもの半分ほどです。」
「大佐は召し上がらなかった。ノラさん、あなたはどうです?」
「あたしは普通に、自分の分をいただきました。殿方の食事のことは、知りませんわ。」
「なるほど。」キャラットはニヤリとした。「殿方の食事と、ご婦人の食事は別だったわけだ。ご婦人は殿方の食事には感知しない、と。もうそろそろ、話してくれてもいいでしょう、大佐。あなたは何を企んでいたんです?」
「ハンストだ。」
 大佐はぶっきらぼうに答えた。
「私とアタンリーは食事を拒否する。家主に黒飯の非を悟らせるためだ。本当は全員で行いたかったわけだが、あいにく、そのお嬢さんは黒飯が好きなようなのでな。」
「つまり、あなたは黒缶が嫌いなのですね?」
「食わないことはない。戦場の飢餓を体験した者は、食事に贅沢は言わんものだ。だが、この場合はわけが違う。家主は我々の食費をケチって私腹を肥やしとるんだ。何度も言うが、私は食えるものなら何でも食う。だが、ここにいるアタンリーはどうだ?可哀想に、この若者は血合肉に慣れておらんのだ。匂いに我慢がならず、食事が喉を通らない日が続いた。それでも、家主はメシの種類を変えようとしない。自分が損害を出さないためだ。私は考えた。『猫は家主の奴隷なのか?』答えは、ノーだ。家主の行為は、我々の権利を侵害しておる。不法行為には断固として立ち向かう、それが私の信念だ。」
「大佐。」アタンリーが喘ぐように言った。「ぼくは――。」
「何も言わなくていい。」
 大佐は重々しい口調で、アタンリーの発言を遮った。
「思えば、私はお前を、自分の部下のように扱ってしまっていた。子供のころから面倒を見てきたお陰でな。だが、お前はもう、一人前の男だ。お前だって、自分の考えで行動していい年頃だ。それに、私は気付かないでいた。すまない、アタンリー。この老いぼれを許してくれ。」
「大佐、そんな…。」
「さっきから聞いていれば、勝手なことを。」
 出しぬけに、カッツェンバーグ夫人が口をはさんだ。全員がぎょっとなって、夫人の方を振り返った。カッツェンバーグ夫人は怒りで顔を真っ赤にし、ダーメン大佐とアタンリーを、代わる代わる睨みつけていた。
「うちは裕福じゃない。それなのに、あんたたちみたいな宿なしのごろつきを、二食昼寝付きで置いてやっているんだ。血合肉が食べられない、ですって!?賢い猫は、ちゃんと自分の体に良いものを分かって食べるものです。おぼっちゃんのわがままなんかに、いちいち付き合っていられるものですか。」
「ねえ、やめて。カッツェンバーグ夫人、お願い。」
 ノラがキャットタワーの上から声をかけた。
「カッツェンバーグ夫人、あなたは優しい人だわ。あたしにとっては命の恩人ですもの。そのあなたが、アティの悪口を言うなんて、あたし、耐えられないわ。」
「まあ、ノラ。」
 カッツェンバーグ夫人はノラを見上げ、きまり悪そうに口を閉ざした。ノラはカッツェンバーグ夫人からキャラット警部へと視線を移し、落ち着いた口調で促した。
「警部さん、続けてください。」
 キャラットは再び口を開いた。
「話を整理しましょう。夕食は七時に(あくまで、カッツェンバーグ夫人の認識で、ですが。)始まり、ダーメン大佐とアタンリーさんは、始まってすぐにその場を離れた。一方でノラさんは、他のお二方のことは気にせずに、ご自分の食事を終えられた。アタンリーさんはその後、戻って来て夕食をいつもの半分ほど召しあがったということですが、それはノラさんが食堂を出られた前ですか?後ですか?」
「後です。ノリーはそのとき、もう、食事を終えて、居間で身繕いをしていました。」
「結構。その間、誰か話をしましたか?」
「いいや。」
 ダーメン大佐が答えた。
「我々はいつも、夕食後には話はしないことにしておる。それぞれ身繕いと水飲みで忙しいのでな。普段はその後に、よもやま話をしたり、若い連中はちょっとした遊戯をしたりするのだが、その日に限っては、みんな別々に行動しておった。だから誰も話はしておらん。」
「なるほど。食後は完全に別行動だったということですな。ではその後、ベッドに入るまでの間、皆さんはそれぞれ、どこで、何をしていらっしゃいましたか?」
「私は居間でぶらぶらしておった。特に何もしていない。」
「ぼくは玄関ホールにいました。――大佐と顔を合わせるのが気まずかったものですから。その後は、玄関の隣の北側の部屋にもぐりこんで、そこで寝ました。」
「あたしは、身繕いを終えたら水を飲んで、その後、すぐに寝室に引き取りましたわ。」
「カッツェンバーグ夫人、あなたはどうです?皆さんの夕食後は、何をしていましたか?」
 カッツェンバーグ夫人は、しばらく考えてから言った。
「洗濯物をたたんでいたと思いますわ。夕食の後は、いつもそうしていますから。」
「よろしい。先に進みましょう。夕食が出された後、ダーメン大佐はすぐに食堂を出た。そう、何も召し上がらずに。アタンリーさんは同じくすぐに食堂を出たが、しばらくして戻って来た。そのとき、ノラさんはもう食事を終えて、食堂の外にいた。そうですね?」
「そう思います。」アタンリーが答えた。
「カッツェンバーグ夫人は、洗濯物の用事で家事室にいた。従って、アタンリーさんはその時間、一人で食堂にいたことになる。アタンリーさん、あなたはどのくらいの時間、食堂にいましたか?」
「ほんの少しです。少しだけ食べて、すぐに玄関ホールに戻りました。」
「間違いない。私は居間から見ていた。証言する。」
「ありがとうございます、大佐。」
 キャラットは軽く頭を下げた。
「アタンリーさん、あなたが食堂を出た時、皿の上に食べ物は残っていましたか?」
「まだたくさんありました。ぼくはそんなに食べませんでしたから。」
「間違いありませんね?大佐。」
「無論だ。」
「となると、」
 キャラットはゆっくりと、居間に集う面々を見渡した。
「犯行時刻は、アタンリーさんが食堂を出て、皆さんがそれぞれ自分の部屋に引き取った後ということになります。夕食が七時に始まったとして、アタンリーさんが最後に食堂を出るまでには、せいぜい三十分かかるか、かからないかといったところでしょう。カッツェンバーグ夫人が、皿が空であることに気付いて通報したのが八時三十分。犯人は、皆さんがお互いに干渉しないのを幸い、この空白の一時間の間に、こっそり食堂に忍び込み、犯行に及んだのです。」
 
 
         XI
 キャラットはしばし言葉を切って、住人たちの反応を見守った。
「もう一度お訊きします。ダーメン大佐、あなたは食後、ベッドに入るまでの間、ずっと居間にいたとおっしゃった。居間は食堂に続いています。皆さんがそれぞれの場所に引き上げた後、あなたが起きている間に、誰かが居間を通って食堂に行きましたか?」
「カッツェンバーグ夫人は何度か通ったと思う。それだけだ。」
「確かに通りましたよ。主婦にはいろいろ用事がありますもの。」
 カッツェンバーグ夫人は肯定し、さらに付け加えた。
「ついでに言えば、私の方もダーメン大佐を見ています。間違いなく、ずっとそのクッションの上にいらっしゃいましたよ。」
 キャラットは頷いて、再びダーメン大佐に質問の矛先を向けた。
「ノラさんは?彼女は通りましたか?」
「彼女は通らなかった。通ったら気付いたはずだ。」
「アタンリーさんは?」
「翌朝まで、彼には会わなかったよ。」
「なるほど。よく分かりました。――アタンリーさん。」
 アタンリーはびくっとした様子で、上目づかいにキャラットを見返した。
「あなたは玄関ホールから、直接北側の部屋に入って寝たとおっしゃった。玄関ホールも食堂に続いています。あなたは本当に、翌朝まで玄関ホールより先には行かなかったのですか?」
「行っていませんよ。」
「水も飲まず、トイレにも行かずに?」
「そういえば、水は飲んだかもしれません。」
「では、あなたは、玄関ホールにずっといたわけではなく、水を飲むという口実のもと、人知れず食堂に入った。そうですね?」
「ちょっと待ってください。じゃあ、あなたは、ぼくが犯人だとでも?」
「現にあなたは、たった今、私に嘘をついていたじゃありませんか。」
「違う!忘れていただけだ。ぼくじゃない。第一、動機がないじゃないか。」
「アタンリーさん、あなたはお忘れのようですね。」
 キャラットは不敵な笑いを浮かべた。
「あなたには動機がある。あなたはさきほど、夕食を少ししか食べなかったと言いましたね。あなたは空腹だったはずだ。それに、今私が立証して見せたように、夕食後の一時間の間、アリバイがないのは、あなただけなんですよ。」
「でも、ぼくじゃない!」アタンリーは叫んだ。「ぼくじゃないんだ。信じてくれ。お願いだ。」
 キャラットは首を振った。アタンリーは縋るように、キャットタワーの上の妻を見上げた。ノラは無言のまま、そんな夫の様子を無表情に見降ろしていた。アタンリーはがっくりと肩を落とした。
 
 
         XII 
「ところでカッツェンバーグ夫人、」
 キャラットはうなだれているアタンリーを無視して、今度はカッツェンバーグ夫人に話を向けた。
「あなたにもお訊きします。あなたは皆さんの夕食後、洗濯物をたたんでいたとおっしゃった。洗濯物にはどのくらい時間がかかりますか?」
「そうですね。せいぜい十五分といったところかしら。」
「その後は、何をなさいます?」
「皆さんの食器を洗ってから、食堂でお茶を飲みます。」
「おや、おかしいですね。それでは時間が合わない。」
 カッツェンバーグ夫人は怪訝そうな目でキャラットを見た。
「夕食が終わったのが七時半として、あなたがその後、洗濯物をたたみ終わるのが七時四十五分。その後、あなたは食器を洗うのでしょう。食器を洗おうとしたなら、あなたはその時点で犯行に気付くはずだ。よしんばあなたが、食器を洗い忘れてお茶を飲んでいたとしても、あなたがお茶を飲んでいたら、犯人は食堂に入れないのではないですか。」
「まあ。それではあなたは、私が嘘をついていると?何のために?」
「嘘をついているとは言っていません。カッツェンバーグ夫人、あなたは夕食が七時に始まったと言った。でも時計は見ていない。違いますか?」
「ええ。でも――。」
「実際には、夕食の時間はもっと遅かったのでは?」
「いいえ。それはありませんわ。あたし、さきほど申し上げたと思いますけど。」
 ノラが声を上げた。
「むしろ、とても早い時間だったんです。あたし、時計を見ましたもの。」
「なるほど。では、ノラさん、今は何時ですか?」
 ノラはマントルピースの時計を見た。
「六時二十分ですわ。――あっ。」
 キャラットは我が意を得たりと微笑んだ。
「そうです。覚えていますか?この会合を始めたとき、ダーメン大佐はまだ六時半にもならないとおっしゃいました。大佐はこの時計を見ていた。そしてノラさん、あなたがあの晩、夕食の時間を確認したのもこの時計だ。ダーメン大佐は、カッツェンバーグ夫人には時間の観念がないと言った。そのとおりです。もうおわかりでしょう、その時計は止まっていたのです。もうずっと以前から。」
 
 
         XIII
「すまんが、あんたの言うことは回りくどくてよく分からん。もっとはっきり説明してくれないか。」
 ダーメン大佐が不満気に口をはさんだ。
「失礼いたしました、大佐。では、申し上げましょう。犯人は、アタンリーさんが食堂を出た直後、カッツェンバーグ夫人が洗濯物をたたんでいる間に、犯行に及んだのです。何か他の用事にかこつけて食堂に入る、その行動がごく自然だったので、誰の目にもとまらなかった。犯人は通りがかりに手際よく残り物を片付け、素知らぬふうを装って、元の場所に戻る。その後は自分の部屋に籠って知らん顔をしていればいい。犯人にとって好都合だったのは、カッツェンバーグ夫人がその夜、食器を洗い忘れたため、すぐに犯行に気付かなかったことです。これにはそう考えるべきれっきとした根拠があります。なぜなら――。」
 キャラットは言葉を切って、再びカッツェンバーグ夫人に視線を注いだ。
「我々が到着した時、カッツェンバーグ夫人は、呼び鈴に気付かなかった。水仕事をしていたからです。それに、我々が見たとき、現場には汚れた皿は一枚しかなかった。ということは、その水仕事とは、夕食後の食器洗いだったのではないですか?」
 カッツェンバーグ夫人は真っ赤になった。
「私は――、いえ、そのときはとても喉が渇いていて。たまたまです。どうしても我慢できなくて、先にお茶を飲んだんです。いつもじゃありません!本当に、本当に、たまたまなんです!!」
 キャラットは微笑した。
「さよう。たまたまなのでしょうね、きっと――。だがとにかく、あの晩あなたは、盗み食いに気付いて通報した後、あまりの散らかりぶりに自分の職務怠慢が発覚することを恐れて、あと二枚の皿を慌てて洗った。そのために、呼び鈴が聞こえなかったんです。違いますか?」
 カッツェンバーグ夫人は、顔を赤らめたまま頷いた。
「だから、あんたは何が言いたいんだ。カッツェンバーグ夫人の職務怠慢など、今に始まったことじゃないだろう。」
 ダーメン大佐が苛立った声を出した。キャラットは彼に一礼した。
「はっきりと申し上げましょう。犯行は全員が自分の部屋に引き取った後ではなく、食後のごたごたの中で行われた。この間は、皆が身繕いをしたり、水を飲んだり、好きなように動いていて、あなたの目も届かない。このタイミングなら、誰でも食堂に入れます。つまり――、」
 キャラットは一呼吸おいて話を結んだ。
「ダーメン大佐、ノラさん、あなた方ふたりも容疑者なんだ。誰にでも犯行は可能だった。もちろん、アタンリーさん、あなたもですよ。」
 全員が無言だった。
 
 
         XIV
 突然、軽やかな笑い声が、重苦しい沈黙を破って響き渡った。
「もういいわ、警部さん。そうよ。あたしよ。あたしが夕食の残りを平らげたの。それですべて、説明がつくでしょう?」
 ノラ・ブラックホワイトは楽しげに、キャットタワーの上からオリーヴ色に輝く大きな瞳で一同を見渡すと、優雅な足取りで、ボックスの上からステップを辿り、居間の床へと降り立った。
「あたし、自分のお食事をいただいてから、アタンリーの様子をそっと観察していたの。で、彼がご飯を少ししか食べなかったから、水を飲むふりをして、わざと食堂を通ってお風呂場に行ったのよ。彼が水を飲みに来れば話ができると思ったんだけど、彼は来なかったわ。だからあたし、代わりに、帰り際に残りのご飯をきれいに片付けてあげたのよ。」
「ノラ!!」
 ノラは夫を優しい目で見つめた。
「ごめんなさいね、アティ。あなたに疑いがかかるなんて、思ってもみなかったのよ。警部さんがあなたを犯人扱いしたとき、あたし、とても驚いたわ。でも、どうすればいいか分からなくて黙っていたの。あなたは無実なんだから、早晩、疑いは晴れるはずだと思って。でも、あなたは本当に苦しんだのね…。」
「苦しんだなんてもんじゃないさ。――でも、いいさ。きみのためなら。」
「アティ。あたしのアティ。なんて優しいの!」
 ダーメン大佐は唖然とした様子で夫婦の会話を眺めていたが、やがて首を振って、呆れたようにつぶやいた。
「私にはさっぱりわけが分からん。お嬢さん、あんたは何だって、そんなとてつもない、いたずらをやらかしてくれたんだ。私に対する嫌がらせか?」
「そう言えるのかもしれません。」
 ノラは大佐の方に向き直って、真面目な表情で答えた。
「ダーメン大佐、あたしは、あなたが何を計画しているのか知っていました。それに、その計画が最終的には失敗するということも。」
「失敗すると、な?」
「ええ。だってあたし、見たんですもの。カッツェンバーグ夫人が、物入れの中に、色々な種類のレトルトを隠しているのを。でも、そのレトルトは一向に食卓に出て来ない。北側のお部屋には、黒缶の箱が山のように積んであるでしょう?だからあたし、思ったの。この人は、あたしたちに黒缶をぜんぶ食べさせてからでないと、他のごはんは出さないんだって。だったら、抵抗するより、いっそのこと、さっさと食べてしまった方が良いと思いません?」
 ダーメン大佐は、ため息をついて肩をすくめただけだった。代わりにアタンリーが妻をたしなめた。
「だからって、ノリー、きみのやり方はちょっとずるくないかな。きみがそこまで知っているんなら、それを大佐なり、ぼくなりに言えばいいじゃないか。なぜそうやって、大佐の面目を潰すようなことをしたのさ。」
「それはあなた方が、いちばんご存知のはずよ。」
 ノラは皮肉っぽい、だがいくぶん悲しげな微笑を浮かべた。
「大佐、あなたは、あたしがおしゃべりだから信用がならないっておっしゃいました。ええ、あたし聞いていたの。とても悲しかったわ。あなたはあたしの理解者だと思っていたから。それにアタンリー、あなたもあたしに、何も話してくれなかった。いつもそうなの。あなたはあたしを信じてくれない――。あの手術の時以来、あたしがどんなに孤独だったか、分かって?」
「ノラ!!」
「あたしは心の中で誓いました。あなた方があたしを除け者にしていることが、どんなに罪深いことか、きっと分からせてやるって。だからわざと、あなた方の計画を台無しにしたの。ええ、そうよ。あなたの言うとおり、あたしは自分の知っていることを、あなた方に話すべきだったのかもしれないわ。でも、あなた方だって、自分たちの考えていることを、あたしに話してくれなかったじゃない。それに、アタンリー、あなたは内心で、大佐の計画には疑問を持っていた。それなのに、あなたはあたしの意見より、大佐の気持ちを優先したんだわ――。」
 アタンリーは頭を垂れた。
「ごめんよ、ノリー。ぼくはきみの気持に、ぜんぜん気が付いていなかった。きみがそんなに思い詰めていたなんて。ぼくが優柔不断なばかりに…。」
「いいえ、アティ。やっぱり悪いのはあたしだわ。つまらない嫉妬から、あなた方の邪魔をしたりして。あなたの言うとおり、大佐は立派な方です。だからあたし、決めたの。あなた方に協力します。今日からあたしも、黒缶は食べません。」
「ノリー!!」
 アタンリーは感動に声を潤ませながら、妻の白い脇腹に頭を寄せた。ノラは愛情のこもった瞳でそんな夫をじっと見つめ、やがて自らも頭を寄せて、アタンリーの額を優しく舐め始めた。
「やれやれ。」ダーメン大佐は再びため息をついた。「とんだ小悪魔もいたもんだ。」
「あなたの奥様だって、そうでしたよ。」
 カッツェンバーグ夫人が言った。ダーメン大佐の金色の目が一瞬遠くを見つめ、やがて、彼の白い毛におおわれた口元からは、微かな忍び笑いが漏れ始めた。
 
 
 そして、誰も黒缶を食べなくなった――。

 
  
 
 

 ハイ、うそです。
 この話の元ネタは、実は三ヶ月くらい前の話で、今はみな、普通に黒缶を食べてます。
 古い話ですみません。
 
 
 

フエフキ・リバーの英雄(のなれの果て)
 
 
 
THREE LITTLE NYAGGERS
by Shimako Katzenberg
Copyright 2016 by
Shimako Nekoyama