アルテミスの饗宴


 
 
 月の輝く夜。
 私は紺碧の天空に向かい祈りを捧げる。
 女神よ、白銀の処女(おとめ)よ。
 願わくば、我が祈りに耳を傾け給え。
 失われし栄光の日々を、再びこの家に訪れさせ給え。
 年経りし戦士 眠れる獅子
 獲物を見失いし狩人
 彼等の心に 再び野心と情熱の焔を燃え立たせ
 その血塗られた唇に
 勝利の歌を 再び高らかに響かせよ。
 
 
 おおよそ大地を走る全ての生き物は、二つの定めに隔てられている。
 狩るものと、狩られるもの。
 その強さと貪欲さとで地上の王として君臨するかに見えて、だが、狩の運命(さだめ)に生まれたものの末路は哀しい。
 若さを失い、力は衰え、
 残忍な爪と牙は、年月に摩耗し、かつての鋭さを失い――。
 それでも生きている限り、彼は狩人でいなければならぬ。
 日だまりで草をはみ、水辺でまどろみつつ反芻する生き方は、彼には許されることがないのだ。
 彼は獲物を選ばねばならぬ。
 獲物に喰らいつく野心を失ったとき、肉食獣としての彼の運命は終わる。
 それが彼の命であり、誇りであり、
 その熱い血潮の中に歌い継ぐ、勝利と野生の頌歌(ほめうた)なのだから。
 
 
 それゆえに、月に向かって私は叫ぶ。
 美しき処女神よ。
 銀の光の矢を放つ 狩する者の守り手よ。
 彼に獲物を与え給え。
 牙を失いし獣の心に 飽くことなき飢えと貪欲を呼び覚まし、
 その爛れた口唇に巣食う老いと病とを 
 白き半月の刃をもって ただちに断ち切り給え、と。
 
 
 私の祈りは、聞き届けられた。
 そして、
 
 
 女神、降臨――。
 
 

 

   
 
「ダメちゃんどう? ご飯食べられるようになった?」
「うーん。それが、よく分からないんだよね。」
「????」
「もともと、全然食べなかったわけではないから。まあ、薬が効いてから『今は要りません』がなくなったけど、相変わらず好き嫌いはするし。」
「『モグニャン』は、食べなくなっちゃった?」
「まだ食べることは食べるけど――ロイカナを混ぜてやればね。『カナガン』や『シンプリー』は、他のご飯に混じっているだけで全然口をつけなくなっちゃったから、まだ完全に飽きたわけではないと思うよ。」
「そっか。じゃあ、どうするの?」
「そんなわけで、『アーテミス』を買いました。」
 
 

  
 
「先輩、今日は勝ちましたよ。」
「そうですか。それは良かった。」
 木曜朝の会話である。
 ダメちゃんの抗生物質投薬は六日分。最終戦は土曜日。シーズンを通じての対戦成績は、私の五勝一敗であった。
「でもねえ、」少し考えてから、先輩は疑問を口にする。
「その勝敗ラインって、一体どこにあるの?」
「それはですねえ。」
 その点について、私は悟ったのだ。私は得々として持論を展開する。
「猫の投薬って、スキージャンプと同じなんですよ。決して失敗イメージを持ってはいけない。絶対成功するって、自己暗示をかけて臨まなければならないんです。恐怖心や不安を持ったら、その時点で負けなんです。」
 語りながら、だがその説明は、質問の趣旨とはちょっとずれていることに気付く。
「つまり、一回目で成功したら勝ち。一回目で失敗すると、後は泥沼ですよね。」
「うんうん。分かる分かる。」
 先輩はダメちゃんの舞台の夢を見るほどの猫好きだが、好きなだけではなく、「元・猫屋敷のお嬢様」を自称する、猫と共に育った生粋の猫飼いなのだ。残念ながら、結婚後は猫とは縁遠くなったとのことであるが。
「強い自信を持って、一瞬で喉の奥に放り込む。一度失敗すると、あのひとたちは、断固として口を開けなくなりますからね。それに、唾液で薬が湿ると、溶けてきちゃって指に貼り付くから、うまく落とし込めなくなるんですよ。」
 これは、傍で聞いている他の人にも分かってもらうための解説である。
「ま、昨日の敗因は、そんなところです。」
 
 
 後にして思えば、あのとき、確かに、私の心にはふっと邪念がきざしていたのだ。
 投薬は「朝」を指定された。また、何しろ「食べられない」(はずの)症状だから、前回のアタゴロウと違って、薬はフードに混ぜ込むのではなく、直接飲ませる想定であった。
 週明けと共に、ダメちゃんの投薬シーズンは開幕した。
 まずは根気よく朝ご飯を食べさせ、食べ終わって落ち着いたところで彼を捕まえ、口を開けさせて、半割りにした白い錠剤を落とし込む。
 月曜、火曜は、彼が食べ終わるのを待ち構えていて、フラフラと洗面所に入って来たところをそのまま床に抑え込んだ。予め右手に錠剤をつまんでおいたので、頭が大きいため左手で掴みながら口を開けさせるのには少々苦労するのだが、何とか一瞬の隙をついて喉に投げ込むことができた。 
 が。
 水曜日は、油断した。
 彼が朝ご飯を食べ終わり、水を飲んで風呂場から出てきた時点で、薬はまだ、袋に入ったままの状態だったのである。
 あ、ヤバイ、と、つい追いかけて捕まえるようなそぶりを見せると、警戒した彼は遁走した。遁走と言っても、彼は玉ちゃんのように本気逃げはしないから、捕まえるのにはさほど苦労しない。だが、この不手際により、私は自分に対する信頼を失ったのである。
 結果。
 失敗した。
 彼は薬を吐き出した。
 唾液にまみれた薬をつまみ上げ、もう一度彼を捕まえて、意地でも食いしばる牙の後ろに指を指し込んで無理矢理口をこじ開ける。だが、薬が指にくっついてしまい、何度やっても喉の真ん中に落とし込むことができない。
 そうこうしているうちに、薬はだんだん小さくなり、ついでに、私の両手の人差し指からは、血が流れ始めた。
 最終的に、まあ何とか飲ませたのではないかと思うのだが、その頃には、彼の口の周りは、私の血で赤く染まっていた。
 最後にぺっぺっと吐き出した彼の唾液には、私の血が混じっていた。
 口の周りを血だらけにして、血ツバを吐きながら、憤然と肩をいからせて歩み去る大猫。私はその彼の後姿に、長いこと忘れていた野性を見たのだ。
 
 

  
 
「ついに猫山も、プレミアムフードジプシーになったのね。」
 私のアーテミス発言に、友人さくらは感慨深げにつぶやく。
「私もそうだったわ。やっちーの具合が悪くなった頃、毎日毎日、プレミアムフードを検索しまくって、頭の中はやっちーのご飯でいっぱい。」
 さくらの場合は、やっちーの症状を考慮して成分表をかなり細かく見ていたようだから、私の比ではない。それはそれは大変だったことだろう。
「で、やっといいフードがあったと思っても、食べなかったりするでしょ。そうすると、敵もさるもので、次々に新しいフードを繰り出してくる。」
「でも、そうしてくれないと、食べるものがなくなっちゃうけどね。」
 実は、私が今、将来の不安として漠然と思い描いているのが、その事態なのである。
「うちのやっちーも、このごろ少し、シンプリーに飽きてきたみたい。」
「へえ、やっちーも。」
 二人は今、おそらく同じことを考えている。
 やがて、さくらが言う。
「でもねえ、『カナガン』とか、あんなに人気があって売れてるのに、さらに凄い宣伝かけてるでしょ。何で?って思っちゃう。」
「食いつきもいいけど、飽きる猫もいるってことじゃないの?――それでもまあ、いいフードには間違いないけど。」
「確かに、いいフードなのよ。やっちーも、ウンチだけじゃなくて、毛ヅヤも良くなってきたし。」
 難しいところである。
 良いフードだから、毎日食べさせたい。だが、毎日食べさせていると、確実に飽きる。この半年間、遅ればせながら学習した私は、すでに、ダメちゃんの「根気」を全く信用しなくなっている。
「だから、今、迷うところなのよね。まだ『モグニャン』に完全に飽きる前に、いったん、完全に『アーテミス』に切り替えちゃった方がいいのか。でも、完全にやめちゃうと、二度と食べなくなっちゃうかもって心配もあるし――。」
「うーん。どうかしらね…。」
 本当のところ。
 これで「アーテミス」も食べなくなったらどうしよう?というのが、私の本心である。
 よく、フードについて「ローテーション」という表現を使う人がいるが、つまりはこういうことなのだろうか。飽きる前に、早め早めに他のフードに切り替えていく。
 私は長いこと「ロイカナ」だけを食べさせてきたし、実家は数種類のドライフードを使う家だったが、これは「朝と夜」など、時間や場面により同時進行で使い分ける方法だった。正直、複数のフードをローテーションで食べさせるという発想が希薄だったし、その意味するところも、全く分かっていなかった。
「そう考えると、『ロイカナ』って凄いね。うち、これまで、仔猫用からずっと『ロイカナ』だったけど、うちの連中、全然飽きてなかったよ。」
「嗜好性を高めてあるってことなんでしょうね。」
 その点については、ひょっとしたら、余計な手を加えない分、プレミアムフードそのものが「ロイカナ」より弱いということなのかもしれない。
 となると、プレミアムフードの世界は、「全ライフステージ対応」としながらも、実は最初からローテーションが想定されていると言っても、過言ではないのではないか――。
 
 
 月の輝く夜。
 私は紺碧の夜空を仰ぎ、切実なる祈りを捧げる。
 願わくば、この魔力が、とこしえに彼を守り給わんことを。
 女神の秘石は、牙を失いし戦士の心に、再び火をつけた。
 だが、私は知っている。
 いつか魔力はやぶれ、彼の心に、新たな虚無が広がる日が来ることを。
 その日のために、さすらい人たる私はまた、新たな秘宝を求め彷徨を始める。
 アマゾンの奥地へ、あるいは、快楽の天へと。
 それは、自然に選ばれしもの。
 あるいは、今まさに鮮烈なるもの。
 それは、豊かではない私の財力に、苦しい闘いを強いるものであるかも知れぬ。
 それでも私は、彼に代わって闘い続けなければならない。
 愛ゆえに。
 彼のために、私は獲物を選ばねばならぬ。
 彼は狩りを運命づけられた者なのだから。
 
 
 ま、そうは言っても。
 彼は草を食んで、日なたで「エ」する猫でもあるけどね。