西郷隆盛は猫を飼っていなかったのか


 
 
「猫山ちゃん!今日は是非、私の今朝の夢を猫山ちゃんに聞いてほしいのよ。」
 一週間ほど前になるだろうか。
 朝一番に、職場のグループリーダーの先輩が、勢い込んだ様子で話しかけてきた。
「はあ。何の夢ですか?」
「それがね。お宅のダメさんの夢なのよ。」
 先輩は、嬉しそうにニコニコしながら言う。
「あのね。夢の中で、ダメさんが舞台俳優になっていて、誰だったか忘れちゃったけど、美人の大物女優さんと共演しているの。」
「へえ。」
「で、そのダメさんのお色が、キジトラになったり、チャトラになったり…。」
「凄い役作りですね。」
 そこに仕事の書類が回ってきて、会話はそこで打ち切られた。
 この時、私は少しばかり誤解していた。先輩は確かに「舞台俳優」と言ったのだが、私はそれを、単にタレント猫のことだと解釈して聞いていたのだ。だからこそ、きっと役柄に合わせて被毛の色を染め変えるんだな、と思ったのである。
 タレント猫かぁ。(ニンマリ)
 確かに。大治郎さんはハンサムだもの。
 ただし、撮影の際には、角度に気を付けてもらわないとね。右側の横顔はNGだと。
 なぜって――。
 彼には、右の下側の牙がないのだから。
 
 
 今年の一月か、二月のことだったと思う。
 家の中を歩いていて、何か小さくて固いものを、スリッパで蹴とばした。あるいは、踏んだ。
 猫砂だろう、と思い、最初は気にしなかったのだが、同じものを何度か蹴飛ばした後、どうも感触が猫砂と違うことに気が付いた。
 むしろ、ネジとか、アクセサリーとか、何かの部品のような感じ。
 拾い上げてみて驚いた。それは、紛れもなく、立派な猫の牙であった。
(ダメちゃんだな。)
 彼は若いころから歯が悪く、これまでも抜けた歯が床に落ちていることが度々あった。一度、その歯を拾って獣医さんに見せたところ、
「これは、お年寄りの歯ですな。」
 という、ショッキングな一言をいただき、心の中で泣き笑いしたことがある。
 要するに、歯周病で歯根がボロボロになってポロリと抜けたということで、事故などではないということだった。
 であるから、彼の歯が抜けることには、ある意味、慣れていたのだが。
(でも、牙が抜けちゃうなんて――。)
 私は幽かな悲しみを噛みしめた。ダメちゃんは美形キジトラ、それも、「野性味がある」と言われるタイプの(キャラクター的には全く野性味はないが)ハンサムなのに、牙がないというのは、致命的な欠陥ではないか。
 体質なんだから仕方がない。年齢には勝てないのだ。
 そんなふうに自分を慰めながら、だが、私はほんの少し、心の中に引っ掛かりを覚えていた。
 頑丈な牙の、ボロボロになった根元に、血が付いていたのだ。
 今まで拾った彼の歯に、血が付いていたことはない。これまでの歯は抜けてから拾うまでに時間が経っていたということなのかもしれないが、少なくとも、この牙は、自然にスルリと抜け落ちたものではなく、何か無理な力が加わった結果、折れるように抜けたものであるように見えた。
 もちろん、歯根はボロボロだった。遅かれ早かれ、失う運命にあった歯であることは明らかであった。
 彼が野性の猫でなくて良かった。牙が足りないと獲物を引き裂くには難儀するだろうが、キャットフードを食べるには、とりあえず支障はないだろう。私は彼の口を見て、牙が三本しかないことを確認すると、あとは拾った牙を、ただ戸棚の中にしまっておいた。 
 
 

  
 
 かつて、友人さくらに、年寄り猫にごはんを食べさせるにはどんなに時間がかかるか、ということを力説されたことがある。
 そのときは、へえそうなのか、くらいで、あまりピンと来ていなかったのであるが。
「この頃、ダメちゃんがなかなかごはんを食べてくれなくてねえ。食べるのが遅いし、何だか好き嫌いするようになって、すぐそっぽ向くのよね。」
「あら、やっぱり兄妹ね。りりちゃんも、このごろ、食いつきが悪いのよ。」
 これは、先週の金曜日、姉とハンバーグ屋で食事をしたときの会話である。ちなみに、実家のりりはダメちゃんより三ヶ月歳下であるが、「生き別れの兄妹」というのは、私が勝手に作った設定で、二匹はそれぞれ別々に保護されているため、その血統的な繋がりは明らかではない。
 やはり、猫も老年期に入ると、ひとしく食に対する執着が薄くなるのだろうか。
 それもあるだろう。だが、ダメちゃんの場合、これに加え、「食べるのが下手になった」という事情もあるような気がする。
 彼の食べ方を観察していると、とにかく何でも、舌で舐め取ろうとする。このため、今や我が家の定番ウェットフードとなった「黒缶」は、粘度が高く皿に貼り付きがちであるので、ときどき指でほぐしてふわっとさせてやらないと、うまく舐め取れないらしい。あるいは、ふんわりと山にしておけば、唇でハグハグと食べることができるようだ。
 ドライフードは、そもそも舌で舐め取るような形状ではないので、じじゅう前方に飛ばしている。飛ばさないで口に入る粒も、よく見ていると、大げさに言えば、舌で跳ね上げたものを口を開けてキャッチしているような食べ方なのだ。ときどき上を向いて口に落とし込んでいたりする。
 そうこうしているうちに、ドライフードが彼の唾液でしっとりと湿ってしまう。そのしっとりフードを好まないのか、彼は常に、最後の数粒を残す。それでいて、まだ物欲しそうな顔で皿の前に座っていたりする。
「ダメちゃんは歯がないから、食べるのが大変みたい。牙も抜けちゃったし。」
 言い訳がましく姉に説明しながら、だが私は内心、牙はキャットフードを食べるに当たり何かの役に立っているのだろうか?と、密かに自問していた。
 
 

 
 
「ダメちゃんがねえ。どうも『モグニャン』に飽きてきたみたいなのよ。」
 翌晩。土曜日の夜である。
 今度は友人さくらと、“いつものお店”で、日本酒と料理をつつきながらの会話。
「そっか。今は、ダメちゃんが一番、ごはんに気難しいのね。」
「やっぱり猫も歳をとってくると、食べさせるのが大変なんだね。あーあ、また次のフードを探さなきゃ。おっさんは面倒くさいわ。」
「やっちーは、まだ『シンプリー』食べてるよ。」
 何と。
 さくら家は我が家と違い、フードジプシーにならずに済んでいるらしい。やっちーは、ダメちゃんよりずっと年上なのに。
「そういえば、お宅の子たち、『オリジン』は食べた?」
「普通に食べたよ。」
「じゃあ、うちに余ってる『オリジン』、貰ってくれない?」
「やっちー、食べないの?」
「いや、そうじゃないけど、『シンプリー』の方が、いいモノが出るのよね。だったら、何も敢えて元のごはんに戻すこともないかなと。」
 何と贅沢な。(と、つい、言いたくなる。)
 飽きずに食べてくれるだけで素晴らしい。羨ましくも良い猫ではないか。
 そういえば、やっちーもまた、動物病院で「すべての猫がこの子みたいならいいのに」と言われる猫だと聞いた。ただし、ダメちゃんとは違う意味で。
 やっちーは、入院中も、誰にでも愛想良くするし、くつろぎきってケージの中で爆睡するし、何でも残さず食べて、さらに隣のケージの犬のごはんまで狙う健啖ぶりだという。
「でもね、気をつけた方がいいよ。そういうのって、ただ気難しいわけじゃなくて、本当に体調が悪い場合もあるから。うちのやっちーもそういう時期があったけど、後から考えると、その頃から体調が悪化してたんじゃないかと思うのよね。」
 その警告は、前にもさくらにより発せられたことがあった。
「体調はそんなに悪い気がしないんだけど。元気だし、食欲自体はあるし。」
 何しろ、大治郎おじさんときたら、このところ毎日、アタゴロウとドタバタ猫チェイスを繰り広げて、アタゴロウを洗濯機の中に追い詰めているのである。
「ただ、もしかしたら――。」
 言いかけて、ふと、全く関係ないことが私の脳裏をよぎった.


 五月の連休明け。
 帰宅したら、リビングの安楽椅子の上に、血しぶきが散っていた。
 流血沙汰のケンカか!?と、さすがに慌てたが、三匹とも変わった様子はなく、怪我をしていると思われる者もいない。
 我が家は、玉音ちゃんがエイズキャリアなので、流血沙汰の喧嘩は絶対にしてほしくないゆえの狼狽であったが、状況から考えて、喧嘩ではないだろう、という結論に達した。試しにネット検索してみると、くしゃみの際に鼻血が飛ぶことがあるらしい。鼻血の原因はいろいろあり、まれには悪性腫瘍などの場合もあるようだが、大抵は人間と同じ、何らかの原因で鼻の粘膜に傷がついたため、ということらしかった。
 血しぶきを見たのはその一回きりであるから、おそらく、そういうことだったのではないかと思う。その後、アタゴロウの喘息発作が再発したため、その一件は忘れていた。
 私は、その鼻血の主がアタゴロウだと、勝手に思っていたのだが、よく考えてみれば、何の根拠もない。せいぜい、その椅子がアタゴロウのお気に入りの場所であることや、彼がくしゃみではないが、喘息発作でときどき咳をしていたことくらいである。
 もしかして、あれもダメちゃんだったのか――。
 
 

(椅子の上の血しぶき)
 
 
 話は戻り、冒頭の会話の翌日である。
「昨日の話の続きだけどね。」
 先輩がまた、ニコニコしながら話しかけてきた。
「ダメさんは舞台俳優だって言ったでしょ。彼はその、大物女優さんの演じている役の、飼い猫という役柄なの。」
 あ、やっぱり猫の役なんだ。(そりゃそうだ。)
「でもね、その舞台俳優っていうのが、凄いと思わない?」
「…?」
「普通のテレビドラマとかに出ている猫は、あれは、こう言っちゃ悪いけど、何とでもなると思うのよ。見えない所で食べ物で釣っていたり、あとは編集で何とかしたりとか。でも、舞台は、そういうことができないでしょ。つまり、ダメさんは、本当に演技していたのよ。それを私、凄いなあって、感心しながら見ているの。」
「舞台俳優って、そういうことだったんですか。そりゃ凄いですね。」
 ようやく、先輩の言う意味を理解した。
「じゃあ、きっと、ト書きにちゃんと書いてあるんですよね。『大治郎、膝から飛び降りる』、とか。」
 先輩も笑って悪ノリする。
「台詞もあるわよね、きっと。『ゴロゴロゴロ』とか。」
 本当にそうだったら、先輩の言うとおり、実に非凡な猫である。 
「でも、あながち根拠のない話じゃないかも。」
 私は調子に乗って、自分の飼い猫自慢を始める。
「ダメちゃんは、動物病院でも『こんなに我慢してくれる猫はいない』って、褒められちゃうような猫なんです。だから、演技だってできちゃうかも。」
 だが、先輩はその点にはあまり興味がなかったらしい。
「そうか。今気付いた。ダメさんのお色が変わる件ね、あれは、スポットライトのせいじゃないかと思うのよ。ライトの当たり方によって、茶色く見えたり、黒く見えたり…。」
 先輩の脳内では、ダメちゃんは、スポットライトまで浴びちゃう、主役級の扱いらしいのである。
 そういえば。
 ダメちゃんはこの頃、少しスリムになったような気がする。ひょっとして、役作りなのか?「せごどん」の鈴木亮平くんのように。
 ダメちゃんったら、大河出演のオファーでも受けたのかしら?
 だとしたら、夢のような大抜擢だ。だが、そういう話は、マネージャーを通してほしいものである。
 
 

(スリムなダメちゃん) 
 
 
 そして、日曜日。
 舞台俳優猫山大治郎が立ったのは、明治座の舞台ならず、動物病院の診察台であった。
「どうしましたか?」
「いや、どうもしないんですけど。」
 食事のこと、そして、そのせいか、どうやら痩せてきたらしいことを説明する。
「でも元気なんで、ひょっとしたら、口内炎なんじゃないかと思ったんです。」
「なるほど。じゃあ、ちょっとお口を見せてもらおうかな。――ああ、腫れてるわ。ほら。」
 先生の指が彼の唇をめくると、確かに、奥の方の歯ぐきが真赤になっていた。
「あ、ちょっと出血してる。これは、痛いわね。」
 先生は、カルテを見ながら、彼の歯を確認している。
「前歯はぜんぜんなかったわね。」
「あ、あの後、牙が抜けちゃったんです。」
「どれどれ。ああ、ここね。」
 先生は牙の抜け跡を確認し、ここで衝撃の一言を発した。
「残ってるわ。だから痛いのよ。」
 えっ!?
 残ってるって――。
 しばし、言葉が出なかった。
 全ての謎が解けたのだ。
「そういえば、牙が抜けた時、血が付いてるなとは思ったんですよね…。」
 ダメちゃんの歯は若いころから徐々に減っていたのだが、それは歯根が溶けて自然に抜け落ちたものである。それが、直近の右下牙については、おそらく、溶けきらないうちに、何らかの衝撃で歯根が折れ、早々と抜けてしまったのではないか。その歯根の残りが、口内の痛みの原因となり、ドライフードが食べられなくなってしまっていたのだ。
 私は前々回、「ダメちゃんは十二歳に至った頃から、食が細くなった」と書いた。ダメちゃんの誕生月は二月である。タイミングがぴったり合う。
 そして、ここは先生に確認しなかったので完全に私の想像でしかないのだが、連休明けの血しぶき事件。これも、くしゃみをしたのはダメちゃんで、このとき、歯ぐきの血が散ったのかもしれない。(もちろん、鼻血の可能性の方が高いのだが。)
「今日は注射を打っておきます。明日からお薬飲ませて、それで様子を見てください。」
「痛み止めってことですか?」
「そうね。それと、腫れを引かせるので。」
「残っているものは、取らないんですか?」
「取るとなると、ちょっと大ごとになるわね。」
 歯ぐきを切開して抉り出す手術になってしまうらしい。麻酔も使うことになるし、
「それに、その後、相当腫れて痛くなっちゃうから。」
 なので、まずは薬で痛みと腫れを抑えて、歯根の残りが溶けてくれるのを待つのだという。それで上手くいかないようなら、思い切って手術することになるかもしれないのだが。
 なお、ダメちゃんの歯ぐきの腫れは、その一箇所のみではなく、かろうじて二本残っている奥歯周りも腫れてしまっている。このため、手術するなら、この二本も一緒に抜くことになるだろう、という話だった。
「サンプルは差し上げますか?何か決まったフードがありますか?」
 最後に、例によって先生が尋ねてきた。
「下さい。最近好き嫌いするんで。」
 助手さんが、薬とフードサンプルをレジ袋に入れて渡してくれた。袋はいつになく、ずっしりと重かった。
 助手さんは我が家の状況を察してくれていたのだろうか。家に着いてから袋を開けてみると、重いのも当然、いつもの三倍くらいの量のサンプルが入っていたのだった。
 
 

 
 
 そんなわけで。
 ダメちゃんの大河出演の話は、あっけなく流れたらしい。
 彼は役作りをやめた。帰宅して人心地ついた彼は、とたんににゃあにゃあ鳴き始め、私にしつこく付き纏って、食事を要求したものである。注射が効き始め、痛みが薄らいだのだろうか。「黒缶」のレトルトを開けてやると、丸々一パック完食した。
 だが。
 敏腕マネージャーの私には、彼が大河を降ろされた原因なんて、聞かなくたってちゃんと分かっている。
 そりゃ、駄目だろうさ。今日のあの、動物病院での、必死のもがきっぷりを見たら、ね。
 
 
 当分、「猫の鑑」の座は、さくら家のやっちーに譲り渡すことになりそうだ。
 そういえば、やっちーはかつて、本当に、テレビドラマ出演のオファーを受けたことがあるのだそうである。
 
 
 
 

猫山 大治郎(ねこやま だいじろう)。平成17年生まれ。劇団猫屋敷の研究生を経て、2006年、猫山座「嵌顔のラティス」で初舞台を踏む。以後、実力派脇役として猫山座を中心に多くの舞台作品に出演。映像作品では2009年〜2011年に放映されたテレビドラマ「全田一シリーズ」三部作でブレーク。端正な容姿と重厚な存在感で女性ファンの心を鷲掴みにし、ダメラーブームは社会現象ともなった。2016年「そして誰も食べなくなった」ダーメン大佐役で日本ニャカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。山梨県出身。水瓶座・D型。