キング・コングのエステサロン


  
 
 私が「腰パン」と呼ぶ、猫とのスキンシップ。
 決まった名称は、あるのだろうか。
 私の「腰パン」は、私が日頃愛読している猫ブログ「こはる日和」のろーずまりーさんがそう呼んでいるのを真似しただけで、これは別に一般的ではないのかもしれない。
 要するに、猫の腰のあたりをパンパンと叩く。これを好む猫がいることは、猫好きの間では有名な事実だったらしいが、私は長いこと知らなかった。
「こはる日和」でそれを知り、今はなき「Cats安暖邸」で、ボランティアのSさんに教えてもらって、「なおちゃん」に試みてその効果を実感した。それならと、我が家の玉音ちゃんにも試してみたところ、これが大当たりであった。
 玉音ちゃんは、「腰パン」がいたく気に入った。
 実は、それまで、玉音ちゃんとのスキンシップは、なかなかに難しい課題であった。何しろ、私が手を近付けると、どんなに気をつけてそろそろと、それこそ下手に出たところで、結局怖がって逃げてしまう。後ろから手を近付けて、尻の辺りなら触れるのだが、あらゆる猫が撫でられて喜ぶはずの「顎の下」とか「顔周り」とか「首の後ろ」などは、尻に触れた手がそこに行き着く前に、するりと逃げられてしまうという無念さ。結局、私も彼女とのスキンシップを楽しめないが、彼女の方も、人間とのスキンシップの心地よさを知らずに育ってきたものである。
 否。
 その言い方には、語弊があるかもしれない。
 拾ってきたばかりのころの幼い玉音ちゃんは、ケージから出して私の膝に載せると、気持ち良さそうにゴロゴロ言った。思えば、あの頃は玉音ちゃんも、普通に触れる猫だったのである。
 しかし。
 拾ってきたばかりの衰弱した状態から回復し、また大きくなって活発に動けるようになると、彼女は私から逃げるようになった。獣医さんからは、「この子は凄く怖がりだから、色々な人に接触させて人間に慣れさせないと、人間コワイコワイの猫になっちゃうよ」という注意は受けていたのだが、まさか私自身までコワイコワイされるとは思わなかった。こうして、立派な家庭内野良が、我が家のリビングにデビューしたものである。
 その彼女が、私が尻にそっと触れ、それから腰の辺りをパンパン叩いてやると、それまで隙あらば逃げようと前進しかけていた足が止まった。それ以来、私は、彼女に触るときは、まず腰を叩くようになった。
 やがて、「腰パン」が気に入った玉音ちゃんは、ひとしきり叩かれた後なら、お腹を撫でられるのを許すようになった。調子に乗った家主は、お腹からだんだん、顎の下辺りまで撫でる範囲を広げ、また、腰から背中を辿って、耳の後ろ辺りをクリクリしてやるようになった。
 そうやって、撫でられているときの玉音ちゃんは、とても可愛い顔をする。まるでペットショップ上がりの飼い猫のようだ。写真が撮れないのが残念でならない。
 そういえば、私が玉音ちゃんのことを、
(実はけっこう美女猫かも…)
と、思い始めたのも、この顔を見てからのことであった。
 
 
 そんな玉音ちゃん。
 いつの間にか、「腰パン」を日課と考えるようになったらしい。
 彼女が「腰パンタイム」と考えているのは、「私がお風呂に入る前」である。
(あら大変。もうお風呂に入って寝なきゃ。)
 深夜、私が慌てて洗面所で歯を磨いていると、洗面所の入口から、玉音ちゃんが首を伸ばして中を覗き込む。
 この頃は、風呂場に干した洗濯物を取り込みに行ったときにさえ、気が付くと玉音ちゃんが期待に満ちた目で洗面所を覗いている。
 特に夜遅くなってしまった時など、正直、さっさとお風呂に入って寝たいのが本音なのだが、ここで無視すると、せっかく習慣付いた玉音ちゃんとのスキンシップタイムが消滅してしまうかもしれない。すっかり卑屈になっている家主は、その可能性をおそれ、眠い目をこすりながら、彼女の期待に応えてやることになる。
 私が歯磨きを終え、手を拭いて向き直ると、玉音ちゃんはさっと走って、ダイニングテーブルの椅子の下に行く。そこで私が彼女の腰を二回くらい叩くと、匍匐前進して移動を始め、テーブルの下であるとか、もう一つの椅子の下であるとか、ちょっと離れた場所で姿勢を低くし、私の方を振り返る。
 そこでまたしばらくパンパン叩いてやると、またもや前進して位置を変え、振り返って続きを要求する。
 いちいち移動する必要はないと思うのだが、その辺が猫なのであろう。
 しかし、そうやって移動していると、だんだん私の手の届きにくいところに行ってしまう。私も座り易いところに座って、無理のない姿勢で手を伸ばしたい。いちいち移動するのも面倒だ。なので、そうやって手が届かなくなったら終了。
 私が立ちあがって戻ろうとすると、玉音ちゃんは、
(えーっ、もう終わり!?)
というような顔でこちらを見るが、猫のそういうのに付き合っているときりがないというのは、猫飼いの常識である。きりがないと言えば、終了後、私が洗面所に戻ると、また玉音ちゃんが覗きに来るというスパイラル現象が起こるのだが、二度目以降は御免ということで、お風呂に入る。私が風呂場に入って扉を閉めると、彼女も今日は終わりだと諦めるらしい。扉の外で待っているようなことはない。
 以上が、私と玉音ちゃんのスキンシップのほぼ全てである。
 
 

(腰パン待ち)
 
 
 そう。
 玉音ちゃんとのスキンシップは、とにかく「腰パン」なのだ。
 最初から撫でにいくと逃げるのは、少しも変わっていない。だが、「腰パン」だけは歓迎される。
 この頃は、私が帰宅した時も、彼女が「お出迎え御一行様」に参加していれば、尻を追いかけて二〜三回叩いてやる。私が室内に入って来ると基本的に逃げるのだが(出迎えに来るくせに逃げるところがいかにも玉音ちゃんである)、叩いてやれば止まる。さらに、テーブルの下でぴたっと腹這いになり、「待ち」の姿勢になることもある。
 そんなに、「腰パン」が気持ちいいのか。
 そればかりではない。
 私が食事をしていると、食卓の椅子の下に来る。頭を撫でてやることもあるが、彼女の目的は、あくまで「腰を叩いてくれ」である。
 腰を叩いてやると、お尻を高くする。
 あるいは、先述のとおり、床に腹這いになってこちらにお尻を向け、振り返って催促する。
 Sさんに「腰パン」を教えてもらったとき、
「結構強く叩いていいんですねえ。」
と、私は少し驚いたのだが、「叩くと気持ちいい」という感覚は、私達が肩や腰を叩いてもらう感覚と同じなのだろう。
 つまり、マッサージやエステみたいなものである。
 ダメちゃんやアタゴロウは、私に触られること・構われることに喜びを感じている、と思う。撫でられることは、おそらくそれ自体、気持ちの良いことなのであろうが、それ以上に、その気持ち良いことをしてくれる私の愛情に、喜びを見出しているのだと感じる。撫でることイコール愛情表現であり、スキンシップとして、それはお互いに満足感をもたらすのだ。
 だが、玉音ちゃんは違う。
 彼女にとって私は、あくまで単なるマッサージ師かエステティシャンだ。いや、ご飯も提供しているから、「単なる」ではないか。いずれにせよ、彼女が問題にしているのは、私が提供するサービスの方であって、私が彼女に構うことについては、できればそっとしておいてほしい、というのが本音であるような気がする。
 まだまだ、私達の間には、越えられない川が流れているのだ。
 
 
 私がそう思うのには、もちろん、理由がある。
 彼女はまだ、私を怖がっている。
 「腰パン」は要求する。だが、それ以外の時は、ほぼ百パーセント、逃げるのである。
 例えば、ご飯のとき。
 食べている間はそばにいてもいいし、皿に残ったごはんを食べやすいように掻き寄せてやっている間は、そのまま待っていたりもする。だが、満腹した途端に走って逃げる。
 もともと遊び食い傾向があるので、残ったご飯を、
「玉ちゃん、もうちょっと食べる?」
と、持って行ってやろうとなんかしようものなら、それこそ命がけと言わんばかりに、本気逃げする。
 休日、私が家にいると、朝食後は押入れに潜って寝ている。たいていは見えない奥の方にいるのだが、比較的手前の方にいたり、前に物がなく、襖を開ければ見える場所にいたりする場合もある。先日、物をしまおうとして押入れの襖を開けたら、布団の上にいた玉音ちゃんと目が合ってしまい、その瞬間、敵意に満ちた「シャー」が飛んできた。(ちなみに、この手のエピソードは、それが初めてではない。)
 冒頭の写真は、通常なら「日常のワンショット」で済まされる類のものだが、実は、猫山家的には、記念写真に近いものである。なぜって、玉音ちゃんが押入れとキャットタワーの上以外のところで寛ぐようになったのは、本当に最近のことなのである。それも、お腹を下にせずにコロンとしているところなんて、半年くらい前までは想像もできないことであった。
 それでも、彼女が見えるところに留まっているのは、朝食前後の僅かな時間と、夕食後だけ。昼間は常に押入れの中にいる。
 と、思っていたら――。
 今日、午前中に用事があって外出し、午後二時頃帰宅したところ。
 何と!
 玉音ちゃんが窓際の座布団の上にいたのだ。それも、それまで気持ちよく眠っていましたという風情で。
 まさかこんな時間に私が帰宅するとは夢にも思わず、油断して寝ていたために、逃げ遅れたのであろう。
 要するに、休日は、私が家にいるから、押入れに潜っていたのか。
 私はがっかりするより、むしろ感心した。
 
 
 いったい、玉音ちゃんは、私が好きなのか、嫌いなのか――。
 まあ、嫌いではないのだろう。怖いだけで。
 私が彼女に危害を加えないことは、一応、分かっている。
 それなりに、親しみも感じている。
 だが、本能的に怖い。いわば体が拒否するのである。私が人間だから。
 「くるねこ大和」さんのお宅の猫たちの主治医、「猫医者」の鈴木真先生によれば、仔猫から見ると、人間は大きすぎて、全体像が掴めないのだという。つまり、自分に近付いてくる「足」や、自分を撫でる「手」が、同じ人間のパーツであることが分からない。だから、仔猫に接するときは、必ず顔を見せて、同じ人間が接していることを分かるようにしてあげなさい、というわけだ。(今、本が手元にないので、記憶で書いている。多少ニュアンスが違うかもしれない。)
 なるほど、と思った。
 だが、玉音ちゃんは、もう大人の猫である。私の手足や顔が、同じ人間のものであることは、すでに認識しているのではないか。
 となると。
 同じ人間だと認識できるからこそ、怖いのではないか。
 何しろ、彼女から見れば、私はデカい。
 自分に危害は加えない。保護者である。だが、巨大な異生物である。
 彼女の立場を自分に置き換えてみたら、さながら、キング・コングに養われているようなものではないだろうか。
 そう思い付いて、調べてみたら、ビンゴ!であった。
 キング・コングの映画は、一九三三年が最初で、その後、七六年と二〇〇五年にリメイクされている。ウィキ情報だが、それによると、一九三三年版の設定は、「ドクロ島におけるコングの身長は18フィート(約5.4メートル=成人男性の3倍程度)、NYにおいては24フィート(約7.2メートル=成人男性の4倍程度)」、二〇〇五年版では、「体長7.5m」だそうである。
 我が家の成猫男性に協力してもらい、首からしっぽの付け根までの背中の長さを測ってみたら、大まかな計測であるが、ダメちゃんが四十五センチ、アタゴロウが三十五センチほどであった。ダメちゃんは彼自身が巨大生物っぽいのでアタゴロウを参考にすると、彼が二足歩行をしたとして、身長は六十センチほどになるのではないか。
 私は身長百五十五センチ余りである。つまり、成猫男性の三倍に欠ける程度の大きさなのだ。
 なるほど。
 仮に自分がキング・コングに助けられ、養われているとしたら。
 まあ、一定の愛情は感じるだろうが、やっぱり、心のどこかで怖い思いは残るだろうね。
 ちなみに、私自身は二〇〇五年版の映画しか見ていないのだが、今回ウィキで調べたところによると、「金髪の美女アンが、コングの優しさに心を開く」という設定は、七六年版から出てきたものらしい。怪獣だが優しい・怪獣だが人間と心を通わせる、というドラマ展開は、いかにも現代人好みのロマンチックさだ。いずれの映画も、有名な摩天楼のシーン(七六年版は世界貿易センタービル、三三年版と二〇〇五年版はエンパイア・ステート・ビル)の後、コングはアンを守って死ぬ。アンには人間の恋人がいるにもかかわらず。
 
 

  
 
 先週の金曜日。
 普段、木曜夜にやっている職場の勉強会が、会議と重なったため金曜日にずれた。せっかく金曜日なので、終了後、後輩である異星人ムーと食事をしてから帰ることにした。
 実は、行ってみたい店があったのである。
 職場の近く、しかし地下鉄駅までのルートから少し外れたところに、いつの間にか、一見スパニッシュバル風の小さな店が出来ていた。小綺麗な感じだし、一度入ってみたかったので、丁度良い機会だと思い、ムーを誘ってみたものである。
 結論から言うと、その店は、普通に居酒屋であった。メニューの中に横文字の料理は「カルパッチョ」しかなかった。
 飲み物も、普通にチューハイ系がメインである。
 時間も遅いし、二人だけなので、料理も沢山は頼めない。豆腐サラダだの、つくね串だのをつつきながら、サワーを二杯飲んで、締めにラーメン(これが意外に美味しかった)一杯を二人で半分こして、適当なところで切り上げて帰宅した。
 つまり、飲み会になったわけであるが、二杯しか飲んでいないし、大して酔っ払った状態ではなかったと思う。(電車の中でも眠くならなかった。)
 家に着くと、案の定、猫ども(というよりダメちゃん)が、大騒ぎしていた。だが、今日は時間が遅いだけで、私自身は元気である。手早く洗濯物を片付け、風呂を沸かしながら猫メシを出し、猫トイレを掃除した。この調子なら、十二時過ぎには寝られるだろう。
 が。
 伏兵がいた。
 風呂が沸いたので、さっさと入るべく歯を磨いていると、エステサロンの客が、洗面所を覗いて催促に来たものである。
 私はやはり、酔っていたのかもしれない。
 恐ろしく強気であった。自分の意識の明晰さに、根拠のない自信を持っていた。
 即ち、私は、お得意様のお導きに従い、過剰なまでにサービスに努めたのである。
 早く寝ようとして頑張っていたのに、エステ営業を頑張りすぎて、結局、風呂に辿り着いたのが十二時近かったのではないか。
 入浴している間に、眠くなってきた。
 そもそも、今週はシルバーウィーク明けで仕事が忙しかった。加えて、木曜日の夜が会議で、金曜日の夜が勉強会プラス飲み。体は十分、疲れていたのだ。
 それでも何とか風呂から上がり、バスタオルで体を拭き始めたところで、力尽きた。
 正確に言えば、湯上りで暑かったことと、立っているのが辛くなったことから、とりあえず洗面所を出て、猫たちと一緒に布団に座って髪を拭こうと思ったのが、失敗であった。そのまま、意識を失った。
 それでも、布団にいたことだけが、せめてもの救いであった。気が付いたら、ちゃっかりバスタオルの上から布団をかけて寝ていたのだから。
 そうは言っても、女性の皆さんなら、目が覚めた時の私の激しい後悔の念は、お分かりいただけることだろう。そう。洗いっぱなしの顔はガビガビ状態だったわけである。
 飲んで帰って来たのに、洗濯物も片付けた。猫メシも、猫トイレも完璧にやりとげた。弁当箱も広げて干したし、電気釜もセットしたし、風呂にだって入った。
 それなのに、最終的に敗北したのである。
 これだけ頑張ったのに。
 その敗因は、どこにあるのか――。
 
 
 洗いっぱなしの顔で爆睡する私の横で、大治郎監督は、こうつぶやいていたことだろう。
「酒じゃない。美女が野獣を潰した。」
 
 

 
 
 
註:二〇〇五年版の「キング・コング」は、三三年版を観て映画製作を志したという、ピーター・ジャクソン監督の悲願の企画である。監督は、初代アン役のフェイ・レイをラストシーンに見物人役として登場させ、コングをニューヨークに連れてきた映画監督・カール・デナムの台詞「飛行機じゃない、美女が野獣を殺した」を言わせる予定であったが、クランクイン前にフェイが急逝したため叶わなかったという逸話が残っている。