黒缶時代
我が家の猫どものウェットフードは、パウチと決まっている。
内容量70g。一食にそれを二つ消費する。
一つはダメちゃん用。もう一つを、アタゴロウと玉音で半分ずつ。
雑談の中でそのことを何気なく口にすると、猫カフェ荒らしのSさんは、ふいに口を閉ざし、物言いたげなアルカイックスマイルを浮かべて私を凝視した。
「な、何よ。」
「大治郎さんに甘い。」
余計なお世話である。事情も知らないくせに、我が家の経営方針に口を出さないでいただきたい。
もともとは、ダメとムム、もしくはダメとアタゴロウで半分ずつだった。だが、ダメちゃんの肥満が深刻化し、ダイエットの切り札として、「ドライフードを減らして水気の多いウェットでお腹を満たす」という方法を考えついたことから、このような習わしとなったものである。この方法で、彼は、とにかく一度は、ダイエットに成功した。
ちなみに、ドライフードの量は、ダメとアタゴロウがほぼ同量、玉音は男子どもの半分から三分の二くらいだろうか。結局、ダメとアタゴロウを比べると、ダメの方がウェット半パック分、アタゴロウより多く食べていることになるのだが。
「でも、ダメちゃんは大きいから…。」
「・・・・(沈黙)」
「あの巨体を維持するためには、たくさん食べないと。」
「・・・・(沈黙)」
自分でも分かっているのだ。人間だって同じだ。個体レベルで見たら、体の大きさと食事の量は、決して正比例ではない。
「いやその、ダイエットのためにドライフードを減らしたから…。」
「・・・・(沈黙)」
そこで私は、逆ギレする。
「だって、ダメちゃんは可愛いんだもん!!」
悪魔の満面に、会心の笑みが広がる。
「ええ。そうですね。」
不愉快だ。
非常に、不愉快だ。
ボス猫がVIP待遇だからとて、何の不都合があるというのだ。上様の君臨するところに、民主主義なんて成立するはずがないのである。
(君臨する上様)
そのウェットフードであるが。
数ヶ月前から、ちょっと困った事態が発生していた。
我が家の条件に合うパウチのシリーズが、なくなってしまったのである。
我が家のパウチの条件は、冒頭に述べたとおり70g入りであること、それに加え、ゼリータイプであることと、低カロリーであること、の三つである。
そもそも、猫缶ではなくパウチを食べさせている理由は、完全に飼い主側の都合である。要するに、廃棄物処理が手間なしだからだ。空き缶はかさばるし、捨てるのが面倒。それだけの理由である。
ゼリータイプも同じ理由だ。パックから出すのが楽だから。
猫のためではなく、人間のためである、ということに抵抗を感じる方もいらっしゃるかもしれない。だが、私は、猫と人間がストレスなく共存するためには、人間側のワガママもアリだと思っている。勤め人の私が一人で猫を飼う決意をした時、頑張りすぎずに手抜きをするべきだと考えた。頑張りすぎて自分を追い詰めるような飼い方をするのは本末転倒だし、飼い始めてからやっぱりギブアップなんてことになったら、猫には大変な迷惑ではないか。何事も手早くできるをもって良しとする。特に朝は時間との闘いだから、手間取った結果、会社に遅刻、なんてことにはなりたくない。
量とカロリーの問題は、一応、猫のためである。
が。
まず、「70gでゼリータイプ」が、そもそも、意外と少ないのである。
カルカンがあるじゃない、という声が聞こえてきそうだが、うちの連中はカルカンがキライである。私もあまり好きじゃない。人間が食べても美味しそうだと思えないから。
それに、カルカンはカロリーが高い。総合栄養食だからだろうか。
検討の結果、最初は「ミオパウチ」を食べさせていた。包材に印刷された文字を信じるなら、嘘じゃないの?と思うくらい低カロリーだし、色や匂いも、なかなか美味しそうである。魚系とささみ系があり、朝は魚・夜はささみなど、使い分けられるのも魅力だった。ついでに言えば、朝晩空のパックや猫皿を洗ってもシンクが脂っぽくならなかったので、本当に油脂分を控えて低カロリーを実現していたのかもしれない。
そのうち、「ミオパウチ」が製造中止になったので、そこでしばらく悩んだ末、「海缶パウチ」に切り替えた。海缶だけあってささみ系がないのが残念だったが、これもなかなか美味しそうだったし、カロリーも控えめだった。難を言えば、ときどきゼリーばかりで固形分の少ないパックが混じっていてギャンブル性が高かったのだが、そうした「はずれ」の割合が増えてきたなと思ったら、これもいつの間にかネット市場から(多分店頭からも)姿を消してしまった。おそらくコスト的に利益が薄い製品だったものと思われる。
そうしてついに、猫山家は猫飯ジプシーになった。
店頭で探しても、一般的なスーパーやペットショップでは、先に掲げた三条件を満たすものはない。量以外の点を適当に妥協しつつ、何種類か買ってきて食べさせてみたのだが、どうも決定打が出ない。
猫どもが、というより、アタゴロウが、イマイチ食いつかないのである。
この残念男は、我が家で最も存在感の薄い猫と言われているくせに、食事にイチャモンをつける奴なのである。玉音は何を与えても、食いつくけど集中力がない(何か物音でもすると逃げる)ので、あまり変わりはない。ダメは何でもよく食べる。(ほら、やっぱりダメちゃんが可愛いのは当然じゃないか。)
アタゴロウだって、全く食べないわけではないが、気乗りのしない様子が明らかに見てとれる。そうやって、買ってくるそばから、残念男は残念な判定を下した。
まあ、考えようによっては、それも仕方のないことなのかもしれない。
アタゴロウは我が家に来た時からミオパウチと海缶パウチしか食べてこなかった。猫缶に詳しい人なら分かるだろうか。これらは、「見た目の白い」ウェットフード、つまり、人間用のツナ缶に良く似た、クセのないタイプなのだ。白身魚ばかり常食してきたおぼっちゃまは、他の魚に違和感があるのかもしれない。目黒でサンマに感動した殿様のようにはいかなかったわけである。
だが。
それが理由だとしたら、私の知る限りで、アタゴロウくんに好まれそうなのは「キャラット」しか残っていない。しかし、キャラットはグラム数が足りない。
万事休す。
そうは言っても、何か食べさせなければならない。
困り果てて、また売り場をうろうろしていた私は、ふと、それまでハナもひっかけなかった「黒缶パウチ」のパッケージが変わっていることに気が付いた。
ちなみに、それまで黒缶を敬遠していた理由は、黒缶はカロリーが高いこと、「黒い」こと、そして、パッケージが80g入りだったためである。
だが。
新パッケージの黒缶は、内容量が70gに変更されていた。
パッケージのデザインも、以前より垢抜けておしゃれになっている。「リニューアル」と書いてあるから、もしかして、味も美味しくなっているかもしれない。
私は黒光りするパッケージを手に取った。レジに向かう私の籠の底には、上部にそれぞれ、赤とオレンジと空色とピンクでラインが入った、四種類のパウチの黒い影があった。
この日を境に、猫山家には新時代が訪れることとなる。
黒缶来航である。
人間なんて、見た目に簡単に騙されるものである。
ちょっとおしゃれなパッケージからするりと滑り出た黒缶は、何だか今までよりも美味しい匂いがするような気がした。ちょっと自分で食べてみてもいいかな、と、誘惑するレベルに達していると思われた。
そして、騙されたのは、人間だけではなかった。
アタゴロウは黒缶を食べた。今までもたまに、家のストックが切れてコンビニで猫缶を買った時など、黒缶を与えたことはある。その時より食いっぷりが良いように感じた。
これで、決まった。
私は嬉々としてPCに向かった。黒缶はカロリーが高い、という事実がちらりと頭をかすめたが、私はすでに、放浪することに疲れていた。猫飯ジプシーがやっと祖国を見つけたのだ。私はアイシア国と、修好通商条約を交わすことに決めたのだ。
猫と人間がストレスなく共存するためには、人間側のワガママもアリだ――と、私は書いた。
そう。
だからね。
私のおさいふの負担を軽減するためには、大治郎くんに少し太ってもらったって、仕方がないんじゃないかな。
私は誘惑に負けた。
黒缶パウチのパッケージは、まだ変わったばかりだったらしい。ネットのショップには、旧デザインのパッケージの黒缶パウチがまだまだ溢れていた。
だが、所詮、型落ちである。
つまり。
80g入りの旧バージョンは、新パッケージに比べ、格段に安かったのだ。新パッケージより内容量が多い製品であるにも関わらず。
人間の思考というものは、全くもってご都合主義である。
リニューアルと言ったって、そんなに味が変わるもんかね。(さっきと言うことが違う。)
だったら、安い方を購入するのが当然じゃないか。10g増える分は、ドライフードの量をいくらか少なめにすればいいんだし。
私は誘惑に負けた。
数日後、それまで決して下関を過ぎることがなかった黒缶の大艦隊が、我が家に襲来した。艦隊は北側の部屋に居座り、治外法権を要求した。
ま、そんなわけで。
事態は最も安直な方法で、一応の解決を見た。
だったら、何のためにこれまで、あれこれこだわってパウチを探しまわってきたのか。
そこは不問に付すこととする。
なお、この文章の最初の方で私は、ダメちゃんが「一度はダイエットに成功した」と書いた。現在のダメちゃんは横から見ても後ろから見ても、当時より明らかに丸々として見えるのだが、それは気のせいでなかったら、どうやら黒缶のせいではないかと思われるのだが、そこも不問に付すことにする。
所詮、人間はご都合主義の動物なのだ。
だがこの話は、これで終わりではない。
こうして始まった猫山家の黒缶時代は、その後、思いもよらぬ展開を迎えることとなる。
ほどなく、アタゴロウが、黒缶にいちゃもんをつけはじめた。(これは想定の範囲内。)
それだけではない。
何と――。
前代未聞のこと。ある日、ふと見ると、ダメちゃんが皿によそった黒缶を、ほとんど手つかずで残していたのだ。
食欲がなかったわけではない。ドライフードはガツガツと食べた。
そんな日々が、何日も続いた。
ダメちゃんが好き嫌いを言うなんて…。
私は激しくショックを受けた。
が。
しばらく見ているうちに、まてよ?と思い始めた。
どうも様子がおかしい。
なだめすかして食べさせるため、ダメとアタの黒缶には(玉音は喜んで完食する)、かつおぶしや煮干し粉をかけてみたり、カリカリを乗せてみたりしたのだが、そうした場合、アタゴロウとダメの反応が違う。アタゴロウは明らかに、黒缶の味が気に食わないらしいのだが、ダメちゃんには他の理由があるようなのだ。
さらに観察して、ようやくその理由が分かった。
黒缶はゼリータイプのフードの中でも、粘度が高い。このため、歯のないダメちゃんには、舌でこれを舐め取るというのは、なかなかに難題であるらしいのだ。
そこで、皿に少量の水を入れてみたが、解決には至らない。むしろ水で匂いが薄まるらしく、特にアタゴロウには不評であった。
それで、どうしたかと言うと。
水はやめた。その代わりに、ダメちゃんの食事介助が始まった。彼の皿は、粘度の高いフードが皿に貼りつかないように、出来る限り山を作ってこんもりと盛りつけた上で、左手で捧げ持って口元に近付けてやる。さらに、食べている間は、餅つきの相の手よろしく、右手に持ったスプーンでかきまぜて空気を含ませ、舌か唇で舐め取りやすくしてやるのである。
ふと、学生時代にボランティア先の老人ホームで聞いた「調理師さんのこだわり」の話を思い出す。
刻み食はね、ふわっと盛るのよ、ふわっと。美味しそうに見えるように。
そう。ふわっと。ふわっと。
しかし、これはどうしたことだろうか。
もともと、私が猫のウェットフードにパウチを選択したのは、自分の手間を減らし、猫の食事のために割く時間を短縮するためではなかったのか。
あれほど量とカロリーにこだわったのは、ダメちゃんを太らせないためではなかったのか。
それなのに。
結局、私は食事のたびにつききりでダメにお給仕し、そうやってはぐはぐと残さずキレイにご飯を平らげた結果、ダメはほれぼれするほど、丸々と肥えている。
これは、不問に付して良いことなのだろうか。
ああ。
今にも耳もとで、Sさんの声が聞こえる気がする。
「大治郎さんに甘い。」
追記。その後、「ウェットとドライを混ぜ混ぜご飯にする」という方法で、黒缶問題はほぼ解決した。彼等は湿気たカリカリを好まないようなのでその方法は見送っていたのだが、やってみたら杞憂だったものである。ただし、それでもダメのご飯は、最後の方のウェットが皿に貼りついて残ることが度々あるので、二回に一回くらいは最終的に介助が必要である。