「猫なんかよんでもこない」という漫画がある。
実は、私はまだ中身を読んだことがないのだが、先入観なしにそのタイトルだけを聞いた時、「あたりまえじゃないか」と思ったのは、私だけではあるまい。
我が家の猫どもは、もちろん、呼んだって来ない。(メシの時は別である。)それも、歴代全員が、である。レジスタンス精神丸出しのジン子姐さんは論外としても、他の連中も誰一匹、「おいで」と言って素直に来たためしはないし、名前を呼んでも、せいぜい、しっぽぱたん、が、いいとこである。
で、あるから。
友人から「お返事猫」という言葉を聞いた時、それこそ、心臓がひっくり返るくらい驚愕した。
そんな奇特な猫が、この世に存在するのか!!
だが。
同時に、かすかな疑問が頭をかすめた。
そうした猫は、猫たるアイデンティティを捨てていないか。
そもそも、呼んだって来ない・返事もしないから、猫は猫なのではないか。
その「お返事猫」ちゃんは、結局、その友人が飼うことになったのだが、たいへんな人見知りちゃんだったため、私はちらりとしか見せてもらっていない。聞くところによれば、家人にはスリスリの甘えん坊なのだそうだ。
以来、私の中には、「お返事猫」への、相反する二つの感情が常にせめぎあっている。
憧れと、排斥感情。簡単に言えば、そんなところだろうか。
名前を呼んだら「ニャ〜ン」と、可愛くお返事をして走って来る。そんな心温まる関係を、猫との間に築いてみたい。だがそれは、私が「猫派」であることを放棄する行為でもある。
「ダメちゃん!」と呼んだ時、彼が「ニャ〜ン」と言って走って来たら。
そのとき、私は喜ぶだろうか。それとも、失望するだろうか。
自分でも、分からない。
そしてそれは、永遠に確かめることのできない問題なのだ、と、思っていた。
今朝までは。
そう、今朝までは。
つまり――。
その有り得ないことが、起こってしまったのだ。
その事態に直面して、私が何を思ったか。あるいは、どう考えるべきだったのか。
その判断は、これを読んで下さった皆様一人ひとりに委ねることとしよう。
ここにその、顛末のみを記す。
日曜日である。
このところ、休日でも平日とさして変わらない時間に起きることも多かったのだが、昨夜、「ご飯がない」ことを理由に、珍しくおかずをつつきながら一人晩酌をしてしまった都合で、今朝は起床が遅くなった。
例によって、大治郎くんは大騒ぎである。
ちなみに、彼は私が目を覚ますまで、私を起こそうとはしない。ただし、家主が目覚めたと見るや、
「メシ!メシ!」
と、私が起きて彼等のメシを皿に盛り付け始めるまで、驚異的な持久力をもって騒ぎ続ける。
そんなこんなで、ぐーたら家主もようやく寝床を出て、猫どもの朝ごはんは、つつがなく終わった(かに見えた)。
次は、人間の朝飯である。
が。
食事の前に何のかのと雑用を片付けているうちに、ふと北側の部屋に行ったところ、誘惑を避けるためにそちらの部屋に置いてある、友人さくらから借りた「鬼灯の冷徹」を、ついつい手にとってしまった。
で。
ついつい、一冊読んでしまった。
読み終わったところで、おっといけない、と、現実に帰り、台所に戻った。
日が当たり始める前である。リビングには、起床時に点けたヒーターがまだ点けっぱなしになっており、猫どもはその近辺で、くつろいで朝寝の体勢に入っていた。
ヒーターの前のビーズクッション(小)の上で、満足気にうたた寝するダメちゃん。
何て可愛いんだろう、と、思った。
愛しい感情が、つい、口から出た。
「ダメちゃん。」
その瞬間――。
彼の閉じた目が、ぱっちりと開いた。
「ニャ〜ン!」
目にもとまらぬ早業で、彼はビーズクッションから滑り降り、小走りでこちらに向かってきたものである。
(え…!?)
家主の驚愕をよそに、彼はまっすぐに家主を見つめながら走り寄り、が、途中で微妙に方向転換して、洗面所へと足を踏み入れた。
「ニャ〜ン」
彼の視線は、家主から、ウェットフードのレトルトが積んである、猫トイレの上の棚に移っていた。
「やだ。朝ごはんは、もう食べたでしょ。」
「ニャ〜ン」
彼は視線を、レトルトの箱からゆっくりと家主へと戻した。
「鳴いたってあげないよ。」
「ニャ〜ン」
「ごはんはもう終わり。」
「ニャ〜ン」
彼はまっすぐな瞳で、レトルトの箱と家主とを代わる代わるに見つめながら、「お返事」を繰り返した。
だってあなた、僕のこと呼んだでしょ、と、言いたげに。
これは、まずい。
確かに、呼んだのは私だ。
呼ばれたからには、何か用があると考えるのは、普通ではないか。
ついでに言えば、私が漫画を立ち読みしていた北側の部屋は、カリカリの保管場所であり、ペットシーツの保管場所でもある。猫どもの食事中、カリカリが足りなくなると、私はそこに取りに行って、足りない分を補給する。また、夕食の後はトイレ掃除と決めているので、猫どもの夕食の前はいつも、事前にペットシーツを取りに北側の部屋に行く。
状況証拠は、揃っているのだ。
確かに、この件は、私の方に非がある。
私は素直に、非を認めた。
「悪かったよ。用はありません。だからもう、帰っていいよ。」
「ニャ〜ン」
「用もないのに呼んだ私が悪かった。帰っていいよ。」
「ニャ〜ン」
「用はありません。帰っていいです。」
「ニャ〜ン」
「だから、用はないの。帰ってよし!」
「ニャ〜ン!」
「用はない!帰ってよし!!」
「ニャ〜ン!!!」
――これが、お返事猫の実態であった。
何かちょっとしたことで、うっかり、得体のしれない会社に問い合わせをする。
あっと言う間に、訪問の営業マンが飛んでくる。
営業マンは玄関先にどっかりと居座り、頼んでもいないものも含め、あれこれと高額契約を迫ってくる。そんなつもりはなかったからと、丁重にお断りしようとすると、そっちが呼んだんじゃないか、契約しないなら出張費用を払えと、今度は法外な出張料を請求してくる。
よくある、悪質商法のパターン。
あるいは。
未熟な魔術師が、不完全な魔法で妖精や悪魔を召喚する。
お出ましいただいたのはいいが、召喚者が未熟すぎてその妖精や悪魔を使役できない。お帰りいただく方法も分からない。
どうかお帰りください、と、お願いすると、そっちが呼び出したんだから、一定期間が経過するまでお前のそばにいるのだ、と宣言し、好き放題に悪さを始める。
ファンタジー小説や漫画にありがちなパターン。
どちらも、軽い気持ちでヤバい相手を呼んだりしたのが失敗だったのだ。
そう。
猫を使役できない人間は、うっかり猫なんか呼ばない方がいいのだ。
猫にはクーリングオフ制度は適用されないのだから。