神は試練を与え給う


 
 
 私は白い光につつまれた聖堂の中にいた。
 辺りは静寂が支配し、私のほかに人影はない。天窓から差し込むやわらかな日差しが、冷たい床の上に小さな陽だまりをつくり、その明るさの中に、微かな埃がキラキラと輝きながら舞うのを、私はただ一心に眺めていた。
 あれは――猫の毛だろうか。
 私は先刻から、この聖堂の中でひとり、固いベンチに腰かけて祈っていた。私は心に深い悩みを抱き、誰にも救われることなく、ただ静寂のみを求めて、ここに来たのだ。
 どのくらい経ったろう。
 頭を垂れた私の前に、ふと影がさした。目を上げた私の瞳に、長身の老人の姿が映った。彼がゆっくりと振り向いて私を見たとき、その老人が神であることを、私は悟った。
 私は思わず跪いて、神に手を差し伸べた。
「神様。私を救ってください。私の悩みは深く、自分の進むべき道を決めることができません。私が愛する若者のために、どの道を選ぶべきか、どうか、答えをお示しください。」
 私はそのまま額づいて、神の言葉を待った。答えはない。沈黙に耐えかねて、私がそっと仰ぎ見ると、神は固く口を閉ざしたまま、ただじっと、私を見降ろしていた。あたたかく、だが厳しい目だった。
「それはならぬ。」
 やがて、神は厳かに口を開いた。
「お前には保護者としての責任がある。お前はお前の愛と理性と献身をもって、アタゴロウのためにもっとも幸いなる道を選ばねばならぬ。これはお前に与えられた試練である。お前がまことの愛をもってあらゆる猫を俯瞰したとき、おのずと答えは導かれるであろう。」
 神はそのまま背を向けて、聖堂の奥に去ろうとした。私は我を忘れて、その裳裾に縋り付いた。
「神様。どうか私を見捨てないでください。私の心は小さく、まことの愛は私には重すぎるのです。私には選び取る力がありません。どうか、あなたの手で、アタゴロウの嫁とすべき猫を、私の手の中に置いてください。」
 神は立ち止まった。私は必死に祈った。長い長い沈黙だった。
「では、それが、お前の心からの望みであるのだな?」
 神の声が聖堂に響いた。私は目を閉じたまま深く頷いた。
「よろしい。お前の願いを叶えよう。――それがお前の、まことの願いであるなら。」
 私は目を開いた。午後の陽は傾き、天窓から差し込む日差しには、すでにオレンジ色の光が含まれていた。翳りゆく聖堂の中には、私のほかに、誰の姿もなかった。
 
 
 と、いうようなことが、私の寝ている間に、夢の中で起こっていたに違いない。
 私の願いは叶えられた。
 が。
 安易に神に縋ろうとする人間への戒めなのであろうか。こうした場合、神様は、えてして人間の足許を見るものと、相場が決まっているのである。
 
 
 何しろ――
 
 

  
  
 びっくりするほど、可愛くない猫が来た。
 

 

  
  
 この顔。どこから見てもオッサンだよ。
 すまない、アタゴロウ。面目ねえ。
 
 

  
  
 生まれつきの器量の悪さは仕方がないとしても。
 少なくとも、この女子、美容院に行ったことがないものと思われる。
 明らかに、自宅カット。
 
 

  
 

  
  

  
  
 拾った時から、いやーな予感はしていたんだ。
 でも、薄暗いし、汚れているし、キレイにすればいくらか見られるかも、と、期待と言うより祈りを抱いて、動物病院に連れて行ったものである。
 だが。
 結果は、これだった。
 
 

  
  
 ハイ。ワタクシが悪うございました。
 確かに、このブログにも書きましたよ、「誰かが『ハイ、この猫』と、決めてくれればいいのに」って。
 でもね、神様。ブス子は甘んじて受け入れるとしても。
 せめて、もう少し、ノミを取っといていただけると、有難かったのですが…。
 
 
 時は木曜日の夕方。
 ほんの少しだけ、残業をした。
 六時を過ぎたし、そろそろ帰るか、と、一緒に残っていた先輩に、
「スミマセン、お先に失礼します。」
と、声をかけて、上階の更衣室に行き、着替えて建物を出た。
 仕事を切り上げた時間から計算するに、多分、六時半かそれよりちょっと前頃だったと思う。辺りはすでに夕闇に包まれていた。
 オフィスの入っている建物の前に、郵便ポストがある。いつものように通り過ぎようとして、ふと、ポストの下に大きな段ボール箱が置いてあることに気が付いた。
 何だろう?と、何気なく中を覗いてしまったのが、運の尽き。
 あ。
 猫がいる。
 その瞬間、何が起こったのか、全く理解できていなかった私。
 まだ小さい。仔猫じゃん。
 ――と、そこで、ようやく事態に気が付いた。
 げげげっ。
 こ、これって。もしかして、捨て猫ってやつ?
 同時に、何だか感心してしまった。
 いやあ。マンガ以外で、初めて見たよ。郵便ポストの下に箱に入れられて捨てられている仔猫なんて。
 これで「もらってください」って紙が付いてたら、完璧だな。
 なんて、呑気に感心している場合ではない。
(どうしよう…)
 とりあえず、その段ボール箱ごと、職場の中まで運びこんだのだが、運びながら、
(これ、どうせ私が持って帰るんだよな。)
と、観念はしていた。
 とにかく、一緒に残業していた先輩に相談しようと思ったのだが、時すでに遅し。事務室のドアを開けてみると、室内はすでに薄暗くなっていた。
(やっぱり、持って帰るか。)
 そう思いながら眺めていると、たまたま、顔見知りの他の係の男性が通りかかったので、
「ねえ、猫ひろっちゃった。」
「え、猫ですか?」
 箱を覗き込んだ彼に、
「仕方ないからうちに連れて帰るけど、この箱じゃあねえ。もうちょっと小さいのはないかしら。」
「ありますよ。ちょっと待って。」
 彼が持って来てくれたのは、A4サイズのチラシが入っていたらしい、実にお手頃なサイズの段ボール箱であった。
 職場で使っている古いタオルを失敬して、そのA4箱の底に敷き、チビネコを持ち上げて異動させつつ、ついでに尻尾を持ち上げてみると、
「女の子だね。」
 まあ、雄よりは良かった。どうせ雌を飼うつもりだったのだから。
 
 
 ちなみに、チビネコが入っていた段ボール箱はこれ。
 
 

 
  
 このチビに、玉ねぎ二十キロは笑える。
 が。
 ということは、もしかして、最初はもっと何匹も入っていたのかも。
 よかったよ、それ全部拾わなくて。
 ちなみに、箱の底には、何か食べ物らしきものが少し入っていた。ドライフードかなと思ったが、良く見ると、人間のお菓子らしい。どうやら「おっとっと」の砕いたものであったようだ。猫だから魚なのか?そんなバカな。
 
 
 まあ、そんなわけで。
 ドキドキしながら電車とバスを乗り継ぎ、家に帰り着いたのだが、有難いことに、こいつは乗り物の中では全く動きも鳴きもしなかったので、周囲の人に白い目で見られることだけは免れた。
 元気がないし、近所の夜間救急に連れて行くつもりであったのだが、あいにく夜間診療は夜九時から。その間、とりあえず箱に入れたまま、湯たんぽと電気毛布で箱ごとあたためる。水とウェットフードを鼻先に持って行ったが、無反応であった。オシッコもしない。
 そういえば、これまで何匹か猫は飼っているが、こんなに本格的に仔猫を拾うのは、これが初めてだ。
 ミミさんは、成猫だったし。先に動物病院に連れて行って入院させちゃったし。
 実家で最初に飼ったジンちゃんは、すでに六ヶ月の中猫だった上、ノラにしては珍しいほど健康だったので、今考えれば素人の恐ろしさ、いきなり風呂場直行で、人間用のボディシャンプーでごしごし洗った後、日なたで自然乾燥し、二〜三日してから動物病院に連れて行くという乱暴な取り扱いでも、全くノープロブレムだった。
 しかし。
 こいつはガリガリで、明らかに猫風邪をひいているし、しかも、ちょっと毛の根元をひっくり返してみると、黒い点々がいっぱい。素人の私でも、ノミだらけだと分かる。被毛の色は大部分が白なのだが、その白が、血の色なのか赤っぽくなっている。
 しかも、低体温ときたもんだ。
 早く病院が開かないかしら…と、最初は心配でヤキモキしていたのだが、しばらく様子を見ていると、
(でも、何かこいつ、妙に気持ち良さそうに寝てない?)
 最初は元気なく丸まっていたのだが、途中から、どうにもリラックスし切った様子で、体を包むように被せたバスタオルから前足を伸ばして、ほとんど家の猫のようなシアワセ顔で寝始めたものである。
(こいつ、けっこう大物かも…)
 
 

  
  
 そして、夜間救急である。
 受付で、
「実は、猫を拾っちゃって…」
と、告げると、
「うちは救急病院なので、昼間の診療より高い料金をいただいていますが、いいですか?」
とな。
 まあ、それは仕方がないだろう。
「診察料だけで、八千円以上かかりますが。」
 その言葉には、
(拾った猫に、そこまでお金をかけていいんですか?)
というニュアンスが含まれていたように思う。
「え…。」
 さすがに、絶句した。
 まさに、私の愛と理性と献身とが、試されているではないか。
 しかし。
 ここでケチっておいて、朝になったら冷たくなっていた、なんてことになったら、あまりにも後味が悪い。
 ああ。
 給料日前なのに。
 だが、幸か不幸か、ここは「防犯上の理由で」と、支払いはクレジットカードとなっている。
「いいです。お願いします。」
 先日、ネットで猫飯を買い貯めしちゃったんだよな。ああ。次の支払いがコワイ。
 そうして、結構混雑している待合室で、待つことしばし。
「猫山さーん。」
 呼ばれて診察室に入ってみると、中にいた先生は、受付で説明をしてくれた男性だった。故に、拾い猫であることは説明済みである。
 が。
 問診をうけながら、次第に肩身が狭くなってきた。
 そもそも、救急病院というところは、自宅で急に病状が急変したペットや、事故に会った犬猫が運び込まれてくるところだろう。ところが、こいつ、さんざん暖かくして寝ていたせいか、ゴキゲンに元気なのである。
「あの、低体温だったんで。温めてはみたんですが。」
「いや、むしろ体温高いですよ。ま、温まりすぎたんでしょうけど。」
「えーっと、ゴハン食べません。」
「ちょっと待ってください。」
 いったん奥に引っ込んだ先生が持ってきたのは、皿にのせてちょっと温めたAD缶である。
「ホラ猫ちゃん、ごはんだよ。」
 するとこいつ、嬉しそうにガツガツと食べるではないか。
「匂いが分からなかったのでしょう。」
 確かに、それはちょっと思ったのだが、ゴハンを温めるところまで頭が回らなかった。
「オシッコもウンチもしません。」
「出るものがないですからね。もうちょっと様子を見てください。」
 ううう。立場が…ない。
 そこで、最後の切り札を出す。
「ノミがいるみたいで。」
「ああ、いますね。」
 先生は、仔猫の口を開けて歯ぐきを見ると、
「ははあ。貧血になってますね。だいぶ吸われたらしい。」
 そして、私を見て優しく微笑むと、
「じゃ、ノミ落としの薬をつけておきましょうか。」
「お願いします。」
 何と。
 つまり、私はこいつを、メシとノミ取りのためだけに、天下の救急病院に連れて来てしまったのだった。
(ちなみに、気になる料金ですが、「診察料だけで」という先生の計らいで、しかも、かかりつけが「協力病院」だったためか、六千円代で済みました。)
 
 

(画面上、黒い点々もしくは汚れのように見えるのは、目の錯覚ではなく、ノミ糞です。ちなみに、病院で替えてもらい、さらに帰宅して替えた、三組目のタオルの上。毛が固まって見えるのは、フロントラインスプレーで湿っているため
 
 
 そして、翌日。
 かかりつけの先生のところで、改めて診察を受ける。
「あれ、今日は?」
「実は、仔猫拾っちゃって。」
「ああ、降ってきちゃいましたか。――で、里親探すの?」
「いや、ウチで飼います。」
 と。そんなやりとりの後。
 まずは体重測定。
「550グラムですね。」
 まあ、そんなもんだろう。
「今、何ヶ月くらいですか?一ヶ月は過ぎているかなと思いましたけど。」
「二ヶ月くらいでしょう。もうちゃんと猫の形してるし。太っていれば、900グラムくらいにはなっている大きさですよ。」
 続けて、ノミ取り櫛で体についているノミ糞やら死骸やらを取ってもらい、お尻の辺りは毛が固まっていたので刈ってもらい、爪を切ってもらい、あとは、インターキャットの注射と、脱水っぽいので皮下補液。そして、虫下し薬の塗布。
 その間、こいつ、偉そうに助手のおねえさんの指を舐めていた。何をされても平気な奴である。
 風邪の方は、大したことはないらしい。飲み薬だけが出た。
「半端な長毛ってところね。」
 ボサボサしていて汚いので、指摘されるまで、そこには気付いていなかった。だが、確かに、触ったときの感触が、見た目以上にガリガリだなとは思っていたのだ。毛の量が多い分、嵩が増していたのか。
 猫の場合、被毛の長さは七難隠す。これで、こいつのブスっぷりも、いくらかごまかせるだろうか。
「大きくなれば、結構きれいになるかもよ。」
 ありがとう、先生。
「とりあえず、洗いたいんですけど。」
「まだ駄目ですよ。二〜三日は、ノミ取りの薬の効果が落ちちゃうし、体力的にも無理。お風呂に入れて死なせちゃったら、元も子もないでしょ。」
 じゃあ、まだ当分、汚いままなのか。
「あ、それから、ガムテープとかで周囲をこまめに掃除してくださいね。成虫は死んでも、卵が落ちますから。」
 おいっ!!
 聞いてないぞ、そんなワナ。
 
 
 と、いうわけで。
 チビはまだ、かつてアタゴロウが入っていたムショに隔離されたまま、別室で生活している。
 特に抵抗なくトイレも使ったし、人の顔を見るとサイレントニャーをするし、ごはんが足りないと砂かけしてお代わりを要求するし。全く物怖じしないしない奴である。
 現在は、カルカン「子ねこ」にキャットミルクを混ぜたものと、ロイカナベビーとを食べさせているが、栄養がよくなって毛ヅヤが改善したのか、横から見れば、何とか見られる感じにはなってきた。猫風邪の方は軽かったようで、くしゃみもしていないし、目ヤニが出る程度で、今は鼻水もほとんど出ていない。
 最初の、目ヤニと固まったハナミズでグシャグシャ顔の写真を送ったら、Yuuさんに、
「しっかり点眼をしてあげてください。きれいな大きな目になります…ように。」
というメールが来た。
 そう。
 その「ように」の方だったわけだ。
 こいつの目が小さいのは、別に風邪のせいで塞がっているわけではなく、本当に元から小さかったのである。
 それにしても。
 初心者にはよく分からない。このチビ、いつまで隔離しておけばいいのか。
 アタゴロウくんの花嫁との対面の日は、いつやってくるのか。
 そしてそれが、彼にとって、幸運の日となるのか、絶望の日となるのか――。
 
 

(アタゴロウの嫁になるはずだった美しき令嬢。安暖邸にて)
 
 
 毎度のことながら、Yuuさんの慧眼には恐れ入る。
 ひと目で、今度の仔猫を真のブスと見破った。
「わはははっ!すごいブチャだわ〜。やったね、私好み。」
 イエ。有難いお言葉ですが、Yuuさんに気に入っていただいても、ねえ。
 肝心のアタゴロウが、気に入ってくれるか。
 いいや、きっと気に入るに違いない。だって、あのブス子は、神様がアタゴロウのために選んでくれた娘なのだから。
 女はカオじゃない。愛嬌!もしくは度胸!こいつ、度胸なら満点だし。
 
 
 それにしても、神様――
 
 
 やっぱり、ノミは先に取っておいていただきたかったです(涙)。



 
 
 見るなーっ!!アタゴロウ。お前は見ちゃイカン!!