その男には水難の相がある


 
 
 で。
 アタゴロウくんの目である。
 先週、妻の逆襲に遭い、メインカメラをやられたアタゴロウくんであるが、一週間経った今、まだ治療中である。
 冒頭の写真は、たった今撮ったものである。瞼の充血も治まっているし、もうほとんどいいような気もするのだが、なぜか、カメラを向けると、目が痛そうな顔をする。普段は両方のお目目をぱっちりと開いているくせに。
 いや、文句を言ってはいけない。元はと言えば、私が悪かったのだ。もっと早く、アタゴロウを先生に診せていれば、きっともっと、治りも早かったのに違いない。
 このブログを読んで下さっている方の多くが、猫を飼っていらっしゃることと思う。その中には、おそらく、私なんぞは及びもつかないプロの猫飼いさんも多く含まれるであろうから、私なんかが言うのはたいへんおこがましいのであるが。
 今回の教訓。私は猛省した。
 みなさん、素人判断は駄目です。異常を感じたら、すぐ病院に連れて行きましょう。
 
 
 アタゴロウの目ヤニに気が付いたのが、金曜日の夜。
 あ、やられたな、とすぐに分かった。
 前回、玉音がアタゴロウに目をやられた時にもらった薬が、まだ残っている。いただいたときに先生が「他の子にも使えるし…」と、ちらっとおっしゃっていたのを思い出した。
 なるほど。これが「他の子にも使う時」なんだな。
 そう思って、早速、その点眼薬と眼軟膏を取り出してみたのだが。
 誤算は、点眼薬の残りが、意外に少なかったこと。
 一〜二回点したら、もう空になってしまった。
 眼軟膏の方は、まだたっぷり残っている。そこで、とりあえず、眼軟膏だけを続けて塗ってみることにした。
 ところで、その金曜日の夜であるが、アタゴロウは夕御飯を食べなかった。
 さすがに、これは心配した。
 怪我ではなく、何かの病気なのだろうか。だったら、明日には病院に連れて行かないと。
 が。
 結論から言えば、彼の食欲不振は完全に一過性のものだった。翌朝には、元気にご飯を食べ、元気に走り回り、懲りもせず、玉音とやり合っていた。
 目ヤニも、昨夜よりは少なくなった気がする。
 私はここで、安心してしまったのだ。
 じゃあ、やっぱり、軟膏で様子を見よう。そう思って、土曜・日曜と、せっせとアタゴロウをつかまえては、眼軟膏を塗り続けた。
 当初、ほとんどつぶったままだった右目だが、日曜日の時点で、常に半開きくらいになっていた。目ヤニも、かなり少なくなった――と、思った。
 玉音の時も、結局一週間以上かかっている。すぐに良くならないのは仕方がない。
 だが。
 日曜日の夜、ふと思いついて、急に心配になった。
 ひょっとして、あの「点眼薬と眼軟膏」というセットは、両方合わせて効果を発揮するものだったんじゃないだろうか。
 その夜、その日最後の眼軟膏を塗りながら、考えた。
 明日の朝になっても、目が全開にならないようだったら、会社の帰りに、点眼薬をもらってこよう。
 仕事の休憩時間に病院に電話しておき、帰りがけに回り道して、動物病院に寄れば良い。急いで帰ってくれば、終業後でも間に合うのだから。
 
 
 そして、翌朝。
 アタゴロウの右目は、まだ半開きのままだった。
 
 
 病院に電話した時、私は実に軽い気持であった。
「いやあ、今度はアタゴロウが玉音に目をやられまして…。」
 かくかくしかじか、と状況を説明し、
「なので、とりあえず眼軟膏だけ塗っているんですが――」
 点眼薬もいただいた方がいいですか?と続けるはずだったのだが、どうやら電話の向こうの雰囲気が怪しい、ということに、遅ればせながら気が付いた。
「うーん、角膜を傷つけているかもしれないんですよね。」
「はあ。」
 さらに状況を訊かれ、私がそれに気付いがきっかけが、「目ヤニがたくさん出ていた」ことだと言ったとたん、突然、緊迫感が五割増しくらいになった。
「あの、連れて行った方が、いいでしょうか?」
 電話の向こうの圧力に負けた。
「ええ、そうですね。」
 ほとんど、職員室に呼びだされた小学生の気分である。
「じゃあ、近いうちに連れて行きます。」
 でもさ、近いうちにって言ったって、これ、二日も三日も待っていいハナシじゃないよね、と、電話を切りながら私は激しく後悔した。
 ああ。こんなことなら、昨日のうちに病院に連れて行っておけばよかった。
 
 
 というわけで、やむをえず、その日は一時間早引きをさせてもらい、いったん家に帰ってアタゴロウを病院に連れて行くことにしたのだが。
「すみません。実は、今日、病院に行かなければならなくなりまして…。」
 上司や職場の皆さんに打ち明けると、
「えっ、玉音ちゃん!? どうしたの!?」
「いや、玉音は加害者の方で…。」
 誰もが、患者は玉音だと勘違いするのである。(ついでに、「病院」としか言っていないのに、患者が私本人だという勘違いをした人は、誰もいなかった。)
 どうやら、皆様のイメージの中では、未だに玉音は「死にかけているところを拾われて一命を取り留めた、いたいけなか弱い仔猫ちゃん」であるようなのだ。
 その実態が、自分の三倍くらいあるアタゴロウに取っ組み合いを仕掛け、飼い主の私を見ると全速力で逃げる、家庭内野良の不良娘であるとは、誰しも夢にも思わないらしい。
 と、なると。
 そんなか弱い仔猫ちゃんにやられちゃうアタゴロウって。皆様のイメージの中で、彼は、どれほど情けない男に見られているのだろうか。
 
 

(不良娘近影)
 
 
 そして、病院である。
 キャリーの底にへばりついて頑張っているアタゴロウを引き剥がして、診察台の上に乗せつつ、
「目が半分くらいしか開かなくて。」
 言いながら見ると、アタゴロウの奴、右目をぱっちりと開けているのである。
 おいっ!
 せっかく連れて来てやったのに。
 が、先生は、診察台の上のアタゴロウを見て、
「ああこれね。左目でしょ。」
 へ!?
「いや、右ですが。」
「どれどれ…ああ、右もね。両方だわ、こりゃ。」
 まぶたをひっくり返して、
「ほら、真赤だわ。ちょっと見てみよう。」
 そこから先は、私も初めて見る光景だった。
 最初のうちは、何をしているのか、分からなかったのだが。
 リトマス紙にたらした薬を、アタゴロウの両目にちょいちょいとつけ、その後、鮮やかな黄色の目薬らしきものを、注射器でピューっと、けっこう大量に目に注入する。(針は刺していません。)
 それから。
「電気消して。」
 助手さんがアタゴロウをおさえたまま、片手で診察室の灯りを全て消灯する。先生はペンライトで、アタゴロウの目を照らし、念入りに覗きこんだ。
 そう。目に試薬を入れて、傷がないか確認していたのである。
 そういえば、自分がコンタクトレンズで角膜を傷つけたときも、同じようなことをやられたような気がする。
「傷は…大丈夫みたいね。灯りつけて。」
 何か、すごい。
 でも、玉音の時は、こんなことしなかったんだけど。
 それに、以前、はるか昔の話だが、確かダメとミミもやり合って、どちらかが目を負傷したことがあった。そのときも、こんな大掛かりなことはやらなかった気がする。
 何故だろう。今回がいちばん大怪我だったということだろうか。
 私の「大量の目ヤニ」発言が響いたのか。
 まあ、それは良いのだが。
 実は、その後が凄かった。
「じゃ、洗っときますか。」
 先生はさり気なく言ったのだが、その「洗っときます」は、「器具を洗う」のではなくて、「アタゴロウの目を洗う」ということだった。
 どうやって洗うかって。
 助手さんが、さらにしっかりと、アタゴロウを保定する。先生は再び注射器に、今度は清水を吸い上げ、アタゴロウの目を指でしっかり開かせると、その目をめがけて、注射器で水鉄砲攻撃を連射したものである。
 すげえ…
 飼い主の私がびっくりした。と、同時に、感心した。
 確かに、他に洗う方法、ないよね。
 黄色い試薬は、けっこうな量を入れていたからだろう。それを洗い流すのも、通り一遍の洗い方では足りないらしく、片目に付き三回くらい、それを繰り返していた。
「びしょびしょになっちゃったわねえ。」
 助手のお姉さんが優しく笑って、アタゴロウの体を拭いてくれた。
 でも、お姉さん。びしょびしょになっちゃったのは、あなたもですよね。
 
 

  
 
 その後は自宅で、飲み薬と点眼薬二種類での治療と相成った。
 飲み薬は四日分。
「ごはんに混ぜて食べさせればいいですから。」
と、先生には言われたのだが、四回のうち三回は、目薬のついでに口に放り込んで普通に飲ませた。できるじゃん、ワタシ!
 最後の一回だけ、横着をしてごはんに混ぜたら、アタゴロウの奴、きれいに薬だけ残したものである。そのため、結局、つかまえて口に放り込むことにしたのだが、すっかり湿ってしまった錠剤は、指にくっつくし、やわらかくなって崩れるしで、二回失敗した。やはり、普通に飲ませた方がいいらしい。
 問題は、目薬の方であった。
 写真はかなり拡大されて映っているが、右側の「ヒアルロン酸ナトリウム」は5ml、左の「トブラシン」は3mgである。
 見てのとおり、右側の一本、角膜を保護するという「ヒアルロン酸」の目薬の方は、左側の「トブラシン」に比べ、妙に大きい容器に入っている。実際、容器に比して中身は最初からスカスカであった。
 このため、容器を相当強く押さないと液が出てこない。出てきても少量で、よく見ていないと、出たんだか出ないんだか、見逃してしまう。
 一度に出る量を少なくするために、敢えてそうしているのかもしれないが、これは、目薬を点す側にとっては、実にやりにくい話である。
 何しろ、猫の方は、渾身の力をこめて目をつぶっているのである。こちらは腿と腕で体を保定し、片手で顔を抑えて仰向かせながら、両手の開いている指を使って目を開けさせるのだが、まさか爪をたてるわけにもいかない。このため、ほとんど猫の目蓋と人間の指の力比べで、少しでも目が開いたところで「ポトッ」とやりたいのだが、とにかくタイミングがずれる。
 となると、液体が投下された時には、すでに目が閉じていたり、顔が動いてしまって狙いが外れたりで、二滴、三滴とやりなおすうちに、猫の顔はびしょびしょになってしまう。
 しかも、二本目がある。
 順番に指定はないが、私は先にヒアルロン酸の方を点していた。時間が経つほど、猫の抵抗は激しくなるから、先に点しにくい方を終わらせるという意味合いである。
 が。
 ヒアルロン酸目薬は、相当力を入れて容器を押さないと、液体が出て来ない、と書いた。
 そのお陰で、もう一本の「トブラシン」を点す時に、力加減を間違えるのである。ついつい、指に力が入り過ぎ、あっと思う間に、ボタボタッと、大量にたらしてしまう。
 当然、猫の目に入りきらない滴が、顔に溢れる。
 そういうわけで、またしてもアタゴロウくんの顔はびしょぬれになるのである。
 ついでに、滴が落ちた瞬間に、まあこれは仕方が無いが、顔を動かしてブルブルっとやるので、滴が顔からころがり落ち、胸や肩まで濡れてくる。
 と、いった具合で、この一週間、アタゴロウくんは毎日、濡れ場を演じ続けていたのだった。
 
 

(本件の被害者と加害者)
 
 
 これで、アタゴロウくんの目薬レポートは終わりである。
 目ヤニはほとんど出ていないし、瞼の充血も治まったし。
 あとは、カメラを向けても目をパッチリ開けていられるようになったら(?)もう大丈夫であろう。タイミング良く(と言っていいのか分からないが)、目薬の方も、そろそろなくなりそうな減り具合である。今ある分を全部点し終わったら終了かな、と考えている。
 ちなみに、金曜日の夜に彼がごはんを食べなかったことについては、
「痛かったんでしょう。」
と、先生は即答した。
「痛くて、ご飯どころじゃなかったんだと思いますよ。」
 そうか。そうだったのか。
 ていうか、そこまでやったのか、玉音!!末恐ろしいオナゴだ。
 
 
 ところで。
 動物病院で、アタゴロウくんが水鉄砲攻撃を受けていた時。
「びしょびしょになっちゃったわねえ。」
 そう言われながら、助手のお姉さんに体を拭いてもらうアタゴロウを見て、私は一年半前の記憶がフラッシュバックするのを感じていた。
 そう。
 こいつは、自らの仔猫時代、ここで毎週、風呂に入れてもらっていたのだった。
 その後は自宅で、私に後足を洗われていた。といっても、暴れるし、後足だけで済むはずはなく、常に最低でも下半身はずぶ濡れになって、ドライヤーで乾かされていたものだった。
 ふっと、アタゴロウの台詞が、頭の中にひらめいたのだ。
(ぼくは、ここに来ると、いつもずぶ濡れになる。) 
 病院で。そして、その後の自宅で。
 アタゴロウは、何かあると、いつもずぶ濡れになるのである。他の猫は、そんなことはないのに。
 
 
 この男、水難の相がある――。