玉ちゃんの退院三日目である。
朝、スマホのアラームが鳴って目を開けると、玉音とダメが両側から私の顔を見降ろしていた。
「玉ちゃん、おはよう。」
ああ、玉ちゃんが布団に来ている。
嬉しくなって、玉音の首のあたりをちょっと撫でたりしたのだが、いかんせん、起きられない。実は、昨夜、ブログを書いているうちにけっこうな夜更かしとなってしまい、予定の起床時刻ではまだ寝足りなかったのである。
ダメちゃんが、私の顔をつついたり、舐めたりして、懸命に努力したようだが、結局、グータラ家主が勝った。
もう一眠りして、ようやく起床した時には、すでに玉音はこたつの中であった。
後になって、ふと気が付いた。
賢いダメちゃんは、もうとうの昔に、このグータラ家主を起こすことを放棄している。彼が寝ている私の顔をつついたり、舐めたりなんて、一体、何年ぶりだろう。そして、どうして今日は、珍しくも起こそうという気になったのだろう。
(ほら、起きなきゃ。玉ちゃんに薬飲ませるんでしょ。)
彼は私に、そんな注意喚起を行っていたのかも――なんてね。
昨日は張り切って、一日に五回、給餌を行ったのだが。
今日は何時と何時にあげようかな、などと考えていて、そういえば明日からは会社だ、ということに、遅ればせながら思い至った。
出勤するとなると、頑張っても玉ちゃんに食事をあげられるのは、朝・夜・寝る前の三回だ。一日五回から三回へ、いきなり回数が減るのはいかがなものか。
気分の問題かもしれないが、そこで、今日は、間をとって四回にすることにした。
回数を減らすということは、一回当たりの量が微増するということだ。
本当は、「回数を減らすから量を増やす」ではなくて、「量を増やせたから回数を減らす」という考え方が正しいと思うのだが、いずれにしても目指すところは同じである。
朝ご飯は、昨夜と同様、グラタンソースくらいの固さ。量は昨日より若干多め。
さっそく、玉音をこたつから捕まえて膝の上に抱き上げ、昨夜と同じスプーンで、少しずつ口元に運んでやった。
しかし。
どうも、うまくいかない。
玉ちゃんに食欲がないわけではないようだが、口とスプーンの位置関係が、どうしてもうまく決まらない。昨日はいい感じだったのに。
玉ちゃんが、もうちょっと下を向いてくれればいいんだけどな。
なぜか、上を向いたり横を向いたりするので、スプーンが傾き、中身がエリザベスカラーの中にこぼれてしまう。顎がびしょびしょになり、せっかくのマダムミツコのミニドレスにも、食べこぼしの染みがついてしまった。
頭をかるく上から押したり、顎下のエリカラをちょっとひっぱってみたり、あれこれ苦労して何とか食べさせたが、終わるころには、傍らにティッシュの山ができていた。
本当は、あまり食べたくなかったのだろうか。でも、一応食べていたし。
やはり、シリンジの方がいいのかな。
だが、自分で食べられる子にシリンジを使うのは、何となく嫌だった。
そんなこんなで、たいへん苦戦した朝ご飯であったが、食後の薬は難なくクリア。片手で飲ませているにも関わらず、ほとんど一発で成功。
食べさせたし、飲ませたのだから、まあこれで良しとしよう。
二回目。
前回学習したので、今回は最初から、顎の下のエリカラの中にティッシュを押し込んで「よだれかけ」にする。
そうしておいて、前回と同じく、グラタンソースをすくったスプーンを玉ちゃんの口元に押しつけてみたのだが。
玉ちゃんは抵抗した。そして、私の腕をふりはらって、走り去ってしまった。行先は、例の即席ベッドの上。
「玉ちゃん、食べたくないの?」
だが、その時点で、もう朝食から六時間近く経過している。お腹は空いているはずだ。
それに、玉ちゃんは前脚をそろえて座り立ちしたまま口をぺちゃぺちゃし、エリカラについたグラタンソースを舐めていたりするのだ。
あ…。
そうか。
分かった。「抱っこ」の体勢がいけなかったのだ。
膝の上に抱き上げた状態だと、そのままうつむくとお腹を圧迫する。玉ちゃんは、傷が痛くて下を向けなかったのだ。だから、頑固なほどに顔を上げていたのである。
ぜんぜん思いもつかなかった。介護の基本がなっちょらんかった。
ごめんね、玉ちゃん。
すでに冷たくなってしまったグラタンソースを温め直し、スプーンも、もう少し大きいもの(多分、コンビニでドリアかチャーハンを買った際に付いてきたもの)に替えて、即席ベッドの上の玉ちゃんの口元に、改めて差し出してみた。
食べた。
マダムミツコのミニドレスで盛装したお嬢様は、姿勢正しく背筋を伸ばしたまま、乳母が差し出す食事をきれいに完食したのだった。
三回目。いつもの夕ごはんタイムである。
嬉しいことが起こった。
男どもが騒いで、立ち上がった私の後について食事場所に参集すると、マットレスの陰でじっとしていた玉ちゃんも、その後から、一緒にごはんをねだりに来たのである。
ついに、自分から食べたいと言い出した。
これなら、皿から食べられるようになるのも、時間の問題ではないか。
もちろん、傷が痛むだろうから、よく老犬にやるように、台の上に皿をのせてやれば良い。何かちょうどいい、箱か何かなかったかな。
そう考えて、男どものご飯が一段落すると、いつもの小鉢状の食器ではなく、平たい皿で、フードを溶いた。
今度は、ラザニアソースくらいの固さ。
玉ちゃんは、またしても即席ベッドの上にいた。手近な箱を台にしようとして持ってはきたのだが、何しろ椅子の下だから、これは狭くて入れにくい。そこで、箱は諦めて、皿を玉ちゃんの口の高さに差し出してみた。
無反応。
やっぱり、まだ皿からは無理か。
再びコンビニドリアのスプーンを取り出し、ラザニアソースを鼻先まで持って行った。最初は分からなかったのか、頭を反らして避けようとしたが、やがて積極的に食べ始めた。
ほとんどこぼさない。綺麗な食べ方である。
ほどなく皿が空になったので、ほんのちょっぴりお代わりを作って、再び鼻先に差し出した。そのお代わりも、玉ちゃんは完食した。
今回、ラザニアソースの原料となったペーストの量は、お代わり分も含めると、普段玉ちゃんが食べている一回分のウェットフードの量とおそらくさほど変わらない。ただし、普段はこのほかにカリカリを食べるので、まだ一食分の量には至っていないことになる。
回数を増やす意味は、一応、まだあるわけだ。
明日は三食になる。もう少し、一回当たりの量を増やせるだろうか。
なお、玉ちゃんはその後、今もそのまま即席ベッドの上で寝ている。
午前中はこたつだったが、午後はマットレスの陰。そして、夜は即席ベッド、即ち椅子の下。
少しずつ、明るいところに出始めたようである。
出てくれば、ダメちゃんが気遣うように挨拶に行く。二匹はもう、普通に接している。
ちなみに、昨夜も玉ちゃんはきちんとウンチをした。私が気付かないうちにトイレに行っていたらしい。昨日のウンチは、水様便ではなくて軟便であった。今日はどうなるだろう。
回復が目に見えるというのは、嬉しいことだ。
ただし。
アタゴロウだけは、未だに玉ちゃんを避けている。小さく唸り声も聞こえる。
彼だけが何となく、時流に乗り遅れた感がある。
(乗り遅れた男)