カビ男の逆襲


  
 
 我が家で不評の「大玉サンド」。
 それでも、猫たちは何となく慣れてきたらしく、今では三匹とも、ごく普通に用を足している。
 三匹の中でも玉音嬢は、最初から特に何の抵抗も示さなかった。やはり、血統正しき野良のたしなみとしては、トイレ砂ごときにとやかく言うなど、はしたないとされるのであろう。
 アタゴロウは、何しろ、退院してきたら砂が変わっていたので驚いたのかもしれない。退院直後、落ち着かなげにうろうろしていたのは、「このトイレ、使っていいのかな?」と、判断つきかねた結果だったのだろうか。だが、彼にとってもっと深刻な問題は、大きなエリカラがトイレの入口にひっかかることであった。この非常事態に直面しては、とても砂にいちゃもんをつけている場合ではなかったものと思われる。
 一番問題となったのは、大治郎氏である。
 こうした場合、えてしてこいつが一番、抵抗を示す。ジジイは気難しいのである。
 彼の名誉のために黙っていようかとも思ったのだが、実は、当初、彼は大玉サンドの上に「大」をすることができず、常にトイレの前に危険物を放置していた。私はたまたま、投下の瞬間を見たのだが、彼はトイレの前でためらい、前足を踏み入れたところで、奥まで進む決心がつかず、結果的にお尻がトイレからはみ出したままに、自らの思うところを為していたのである。彼はとにかく胴体が長いので、「大」のときは、きっちり奥まで進まないと、ホームランと見せかけて大きなファウルだった、ということが簡単に起こる。彼の危険物放置は、決して嫌がらせではなく、不幸な事故であったと言っていい。
 この事情を知ってしまったら、とても怒る気にはなれない。そこで私は、自ら「トイレの前にペットシーツを敷く」という自衛策を講じることで、全てを不問に付すことにした。
 このごろでは、彼もファウルではなくホームランを放っているのだが、今となっては、私はむしろ、彼にファウルを打ってほしい、とさえ思う。
 そのくらい、「大玉サンド」はやっかいなシロモノなのだ。
 
 

(大玉サンド)
 
 
 そもそも、私がシリカゲル砂を選択しなかった理由は、「実は扱いが難しいから」であった。
 特に、猫が下痢をしているときには。
 私が今の家で猫を飼い始めた当初、その初代猫のミミさんは、保護当初に下痢をした。もう記憶が曖昧なのだが、そのとき、私はシリカゲル砂を使っていたのではないかと思う。その始末に散々苦労をして、シリカゲルを放棄したのではなかったか。
 シリカゲル砂の落とし穴は、水洗トイレに流せないというところにある。
 猫がしっとりコロコロのしっかりウンチをしている時はいい。「つまんで流すだけ」で、確かに、楽なことこの上ない。
 だが、下痢便や軟便で、砂がべったりウンチに付着する事態になってしまうと、これはもう、悲劇としかいいようがない。ミミの下痢の時、私はそれをどのように始末したのだろうか。すでに記憶にないが、とにかく苦労した、という印象だけが残っていた。
 そして、今回の大玉サンドである。
 シリカゲル砂のどこが大変か、私は細かいことを忘れていた。だから、たまたま家にあったからと、それだけの理由で安易にこれを採用したのだ。
 だが。
 言わずとも分かるだろう。我が家は現在のところ、だれも下痢はしていないが、「べったり」は、確実に起こったのである。
 ここでも一番問題がないのは、やはり玉音嬢。
 彼女のウンチは「しっとりコロコロ」タイプの上、これは野良のたしなみではないと思うが、何故か排泄物を埋めないので、そもそもあまり砂が付着しない。
 大治郎氏は、もとより便の柔らかい男である。それゆえ、べったりと砂が付着する。腸管が太いのか、サイズも、人間の赤子か?というくらい大きいので、かなりの付着量になる。ただ、喜んでいいのか悪いのか、彼はボス猫らしく全く埋めないので、始末する時に転がしさえしなければ、上半分は一応無事である。
 アタゴロウは、便の質としては玉音嬢と大治郎氏の間くらいなのだが、彼だけは、上手にしっかり埋める。結果、砂が全体にまんべんなく付着することになる。
 これら、付着してしまった砂をどうするか。
 やむを得ない。一粒ずつ剥がしているのである。
 同じシリカゲルでも、小粒の砂なら、少量なら水洗トイレに流してしまっても大丈夫かもしれないが、何しろ、直径一センチほどもある大玉である。これを水洗トイレに流す勇気のある人は、そうそういないのではないか。
 あるいは、ウンチごと燃えるごみに出す、という手もあるのかもしれない。だが、私の住んでいる自治体のごみ出しルールでは、「紙おむつ」の欄に「汚物は取り除いてください」と書いてあるのだ。ウンチは基本的に、燃えるごみに出してはいけないのである。(シリカゲルそのものは可燃物である。)
 ついでに言えば、前にも書いたが、大玉サンドはほとんど尿を「素通り」させてしまうので、システムトイレの場合、すのこの下のペットシーツがすぐにびしょびしょになってしまう。我が家は現状、三匹で一つのトイレを使っているから、とても一日もたない。シーツ交換も一日二回になってしまった。
 特定の商品をブログの中で批判するのは、あまりよろしくないとは思う。だが、こんなに使い勝手が悪いのに、メーカーさんは気が付いていないのだろうか。不思議で仕方がない。唯一の良い点は、砂が飛び散りにくいということだが、代わりに、粒が球形なので、とんでもないところまで転がってしまう。仔猫がいたら、喜んで玩具にするだろう。
 まあ、使い勝手の良し悪しは、ユーザー側のライフスタイルに因るところも大きいのだから、これが使い易いという人も、きっとどこかにいるのだろう。だが、少なくとも、私には使い勝手が悪すぎる。早くアタゴロウの抜糸が終わり、砂をもとの崩れる木砂に戻したいものである。
 
 

  
  
 その、アタゴロウの抜糸であるが。
 今日は退院後二回目の通院日であった。抜糸自体は、今週の金曜日の予定であったのだが、
「その前に、週明けくらいに、一度見せに来て下さい。」
という、院長先生のご指示により、今日は診察を受けに通院したのである。
 祭日ゆえであろう。動物病院はいつになく混んでいた。
 アタゴロウくんには、少々気の毒なことであった。
 そもそも、出発の時点で、かなり時間を食っていたのである。
 まず、アタゴロウ自身が、退院以来、何でも私にされるがままになっていたものが、昨日の夜あたりから、私が水でも飲ませようかと考えると、危険を察知して逃げるようになっていた。動物病院は彼にとって最大の危険である。それゆえ私は、彼の隙を見て、早めに捕まえてキャリーに押し込んでおいた。
 その後、出かけるまでの間に、やれ自転車の空気が甘いだの、診察券を忘れただのと、何だかんだ仕度に手間取ってしまった。それゆえ、出発したときにはすでに、彼はおそらく、キャリーの中に飽きていたのである。
 さらに、着いてから、待合室で結構な時間を過ごすことになったわけだ。一時間は経っていなかったと思うが、三十分以上は待ったと思う。
 退屈と不安と怒りで不穏となったアタゴロウは、キャリーの中で暴れ始めた。私は時々、天面の窓部分から手だけを入れ、彼の顔を撫でてやったりしていたのだが、断続的ながら、今回の彼の暴れっぷりは凄かった。
 何度目かに手を入れた時、異変に気が付いた。
 エリザベスカラーの位置が変なのである。
 私の使っているリュックキャリーは、窓の部分が細かいメッシュで、中から外は見えるが外から中は見えない。それゆえ、手で触ってみてはじめて分かったのだが。
 アタゴロウは、エリカラを肩に被っていた。
 そう、つまり。
 何と彼は、エリカラを裏返しにしてしまっていたのである。
(いったい、どうやったんだ…。)
 写真を撮りたいという欲求がふと頭をかすめたが、何しろ待合室である。うっかりキャリーの蓋を開けたら、興奮している彼が飛び出してしまわないとも限らない。
 仕方なく手探りで、裏返ったエリカラを元に戻そうとしてみたが、結局、全部は戻しきれなかった。下手に無理矢理ひっくり返そうとすると、喉を圧迫してしまうかもしれない。
(仕方ない。診察の時に、直してもらおう。)
 尻ハゲ男、恐るべし。
 
 

(魅惑のぼっちゃん刈り)
 
 
 そして、診察室。
 まず、エリカラを元にもどしてから(例によって、院長先生はすこぶる冷静である)、お尻の傷を見てもらう。今回は、院長先生一人であった。私がアタゴロウの上半身を押さえ、先生がお尻をためつすがめつする。
「おしっこは出てますか?」
「出てます。おしっこもウンチも、普通にしてます。強いて言えば、ちょっとだけご飯が少なめかなと。カラーで食べにくいせいかもしれませんが。」
 それでも、出るモノは立派だけどね。
「おしっこの色は?」
「綺麗になりました。あの後すぐ、血尿は止まったみたいです。血が出ている様子もないですし。」
「尿漏れはないですか?気が付いたら床が濡れてたとか?」
「ないです。」
と、断言したが、床の濡れをいちいち気にするほど注意深い生活は送っていない。台所や洗面所の床が濡れていても、自分が水を撥ねさせたのだと勝手に納得してしまうこと確実である。
「うん。傷口は大丈夫ですね。順調です。」
 ひとしきり傷を検分してから、院長先生がおっしゃった。
 私は、確認がてら、疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「その黒い所はカサブタですか?」
「そうです。どうしても少しは出血しますからね。」
 じゃあやはり、剥がそうとしなくて正解だったんだ。傷口の周りに点々と付いていた黒い塊と、肛門周りの付着物は、院長先生のおっしゃったとおり、濡れタオル(実際は柔らかい紙のナプキン)でふやかして、拭きとってやったのだが。
 院長先生は、傷の隣にある、十円玉大のカサブタのようなものを指さして、
「むしろ、こっちが気になりますね。」
「何ですか、それは?」
 私もかねてから気にはなっていたのだが、これも内出血の痕なのかなと思い、これまで敢えて質問していなかったものである。
「ああ、これは、皮膚炎をおこしちゃっているんですけど、この周辺のカビが気になりますね、培養検査してもいいですか?」
「え!? カビ?」
 
 
 またカビかい!!
 
 
 五年前の、あの地獄の光景がフラッシュバックする。
 前回の玉音のときと違い、パニックにはならないものの、私にとってカビの恐怖は、もうすっかりトラウマと化しているのだ。
 だが、幸いにも今、アタゴロウはエリカラを付けている。前回、かかりつけの動物病院で玉音のカビ疑惑が発覚した際、助手さんは「カラーをつけておいて、何日かお薬を塗ってやったら、すぐ治った。」と言っていたではないか。アタゴロウは玉音ではない。確実に、お薬を塗ってやれる猫なのである。
 
 

  
  
「あ、もちろん、お願いします。――アタちゃん、あんた、またカビだってよ。」
 後半はもちろん、アタゴロウに話しかけた言葉。それを先生は聞きとがめて
「前にもやったことがありますか?」
「ええ。仔猫のときに。そのときは、普通の真菌の薬が効かなくて、アカルスの薬が効いたって言ってました。」
 一応、情報提供してみたのだが、院長先生はアカルス問題には関心がなかったらしい。ま、それはそうだよね。菌は毎回違うのだから。
「では、ここのカサブタの部分を採ります。」
 ピンセットで、白っぽいカサカサの部分を少しだけ剥がし取り、培養液の中に落とす。
「お薬をつけておきましょう。」
 正確には、薬ではなく、薬用シャンプーのようなものだったらしい。患部に塗布して少々時間をおき、
「じゃあ、すすぎます。」
 と、濡らした脱脂綿で何度か拭い、最後に乾いた紙タオルで水気を拭きとって終了した。
「培養検査の結果が出るまでに一週間くらいかかります。来週には分かるでしょう。」
「その間、何かしてやることがありますか?」
「いや。他の子にうつっていないかだけ、注意しておいてください。」
 うつってないかって言ったって、何しろ玉音ちゃんは、始終、どこかしらハゲてる子だからなあ。こういうのは、気にし始めたらきりがない。腹をくくって、検査結果を待とう。
 しかし。
 正直に言おう。私はその時、「抜糸が終わってから、また検査結果を聞きに来るのは面倒くさいな。」と思っていたのだ。
 ところが、院長先生は、私が思ってもいなかったことを口にした。
「じゃあ、次は抜糸ですね。お薬が終わったころに来て下さい。」
 あれ?
 抜糸は金曜日って、決まっていたんじゃないの?
「抜糸、金曜日ですよね。」
「ええ。金曜日でいいですよ。」
 話が噛み合わない。
「金曜日には、検査結果出てますか?」
「ぎりぎり出ているかもしれません。暑ければ早く結果がでますから。寒くなってきてしまうと、もう少しかかるかも。」
「それじゃあ、」私はふと思いついて言ってみた。「抜糸を土曜日にしてもいいですか?」
「あ、いいですよ。土曜日なら、結果も出ているでしょう。」
「じゃあ、そうしてください。」
 と、いうわけで。
 抜糸は一日延びて、土曜日になった。これで、お休みを取らないで済む。通院も一度で済む(多分)。
 しめしめ。
 八方丸く治まった、と、ほっとしつつ、動物病院を後にした。
 
 
 ま。
 アタゴロウくんには、ちょっと気の毒だけどね。
 エリカラの期間が、一日延びるわけだから。
 
 
 と、そこで気が付いた。
 いやまて。エリカラだけじゃない。
 抜糸が一日延びたってことは…
 
 
 大玉サンドの期間も、一日延びたってことじゃないか!!
 
 
 入院中、「よくもこんな目に合わせてくれたな!」と、私にシャーシャー言っていたアタゴロウ。
 エリカラが裏返しになるほど、怒りに燃えてキャリーの中で暴れていたアタゴロウ。
 彼は私に対する恨みを、忘れてなどいなかったのだ。
 幼少期の記憶から、彼は私の弱点を見抜き、捨て身の技に転じたのである。
 
 
 卑劣だぞ、カビ男!
 しかし。
 
 
 ――やるな、おぬし。
 

 
 

(カビ男の呪い)