今日も今日とて…
朝から動物病院へ。
ただし、今日の病院は、このところ日参していた猫専門病院ではない。そして、話題の男は、愛宕朗ではない。
大治郎おじさんである。
ただし。
大治郎氏は、私が霧雨の中、自転車を走らせている時分、リビングの座布団の上でぬくぬくと食後の惰眠を貪っていた。私と共に病院に行ったのは、彼の「尿」であった。
話は、九月二十五日月曜日に遡る。
その前の木曜日にアタゴロウの手術が決まり、報告のために、かかりつけの先生のところに寄った。
そのときの話題は、アタゴロウの手術と、玉音ちゃんの「なんちゃってしこり」。そして、ダメちゃんの健康診断。
前回のダメちゃんの健康診断は、昨年の十二月である。その一年後と考えたら、今回も同じく十二月なのだが、
「もうちょっと早くしてもいいですかね?」
「別にいいですけど、どうしたの?」
「実は…」
気になることが、あるのである。
ダメちゃんはこのごろ、少しスリムになった。
それはおそらく、フードの好き嫌いが激しくなり、自分が好みでないごはんに対して執着がなくなったことが主な原因だと思っていた。歳をとると痩せてくるっていうのは、こういうことなのかなと。
が。
他に気になることが生じてきて、にわかに心配になってきた。
水の飲み方が、何と言うか、しつこくなってきたのである。
一日中、のべつまくなしに飲みたがるということではない。彼が水を飲むのは、主に夜である。それは変わらないのだが、一回に飲む水の量が増えてきたように思えるのだ。
一度飲み始めるといつまでもべちゃべちゃやっている。さんざん飲んで、ああやっと終わったなと思うと、そのままUターンし、再び水場に行って飲み始めることもしばしばである。
また、私がお風呂から上がると、早速風呂場に行って、
(おかしいなあ。例のモノがないんだけど…。)
とでも言いたげに、床の上を探しまわっているフリをしたりする。つまり、早く水を汲んで出せという要求である。
水をたくさん飲むこと自体は良いことだと思うのだが、何しろ私には、ミミの慢性腎不全の最初の兆候を見逃したというトラウマがある。猫の水飲みには、少しばかり神経過敏なのだ。
「なので、早く検査してほしいんですよ。ミミのことがあるものだから、心配で。」
「それなら、血液検査より尿検査をした方がいいですね。先におしっこ採って持って来て。はい。」
怪しげな棒のような物体を二本、渡された。
「何ですか、これ?」
「これでおしっこ採って。」
パッケージには「ウロキャッチャー」という、これまた怪しげな名称が書いてある。
「どうやるんですか?」
「猫がおしっこ始めたら…」
先生は指で、お尻の下に差し込むしぐさをしてみせた。
「はあ、なるほど。やってみます。」
そういえば、姉が亡くなったななちゃんの尿検査で、お尻の下に棒みたいなものを突っ込んで採ったって、言ってたな。
ミミのときは、先生が「どれどれ」ってお腹を押しておしっこさせていたような気がするけど。今時は違うのか。
ま、確かに。
連れてきた時、おしっこが出るとは限らないしな。
微妙に自信がない気がしたが、とりあえずチャレンジしてみようと思い、二本を押しいただいて持ち帰った。
二本ということは、失敗することも見越しているわけだわね。
「きれいなペットシーツにしてくれたら、それでもいいけど。」
うーん。そっちの方が、もっとなさそうだ。
で。
その怪しげな物体がこれ。
裏返すと、
調べてみると、ウロというのは泌尿器科のことらしい。
どうしても「ウロボロス」を思い出すが、それは関係ないようだ。
と、いうわけで、ウロキャッチャーをトイレの上の棚にすぐ出せるように準備して、チャンスを待っていたのだが。
やがて、いくつか疑問が生じてきた。
まず、これは、砂に座っている猫の、前から差し込むべきなのか、後ろから差し込むべきなのか。
私は勝手に後ろからだと思っていたが、砂の上にお尻をつけて座っている猫の後ろから、しっぽの妨害をかわして差し込むというのは、なかなかに至難の業ではないか。かといって、前からだと、こちらが良からぬことを企んでいることが猫にモロバレである。
だいいち、猫がこっちを向いて用を足すか、あっちを向いて用を足すかは、向こう様次第である。
うーん。
本当にできるのかな、私。
それと、もう一つ。
首尾よくおしっこを採れたとして、それはいつまでに、動物病院に持ち込めばいいのか。
数日は保つものなのだろうか。
私は勤め人だから、いつでもすぐに動物病院に駆け込むというわけにはいかない。だいいち、家にいるのは夜から朝にかけて、動物病院の診察時間外である。尿を採っても数日は持ち込めない可能性が高いのだ。
ううむ。どうしよう。
と、いうところで、妙案が生じた。
来る二十九日は、アタゴロウの手術の日である。朝、アタゴロウを入院させ、夕方に面会に行くわけだが、さすがに手術中に何かあると怖いので、その日は一日家にいる予定である。
そうか。この日に採ればいいんだ。
アタゴロウを入院させ、家に帰ってきたら、終日、ダメを見張っていればいい。トイレに行ったらすかさずウロキャッチャーを差し込み、採れた尿は、夕方の面会の時に一緒に持って行く。と言っても、アタゴロウの病院で検査してもらうというわけではなく、面会が終わったら、その足でかかりつけの先生のところに寄るという寸法だ。
丸一日あれば、ダメも二〜三回はトイレに行くのではないか。ワンチャンスでなない。ウロキャッチャーも二本ある。何とかなるだろう。
と、内心期待するところ大であったのだが。
もう、オチは分かるだろう。その日のダメちゃんは、アタゴロウの大事な日であるにも関わらず、昼間はノンストップの爆睡であった。トイレはおろか、起きてさえこなかったのである。
「先生、その採ったおしっこって、どのくらいもつんですか?その日のうちじゃなくても大丈夫ですか?」
「うーん、数時間ですね。」
十月三日。アタゴロウの入院五日目。
かかりつけの先生のところに報告に寄ったついでに、ダメの尿検査の件も尋ねてみた。
「先日、アタゴロウの手術で家に居たから、その日に採れないかと思ったんですけど、昼間は起きて来ないんですよ。困りました。」
「まあ、夜採って、翌日朝、持って来てもらうとかですね。そのくらいなら大丈夫です。」
「じゃあ、チャンスは休前日の夜ってことですね。ヨシ、じゃあ、今度の週末に頑張ってみます!!」
先生はちょっと意外そうな顔をしていた。先生ご自身、そんなに早く成功すると思っていないのだろう。
「実は、今、チャンスなんですよ。アタゴロウのために、トイレの砂を替えるもんで。」
ペットシーツでもいい、と言った先生の言葉が、頭に残っていた。
今後、抜糸までの間、我が家のトイレ砂はシリカゲルの「大玉サンド」になる。大玉サンド自体は、私は好きではないのだが、一つだけ利点がある。それは、おしっこがほとんど吸収されず、すのこの下のペットシーツに落ちることだ。
もし、シーツを替えた後、他の子がするまえにダメちゃんがおしっこをしてくれたら、それをそのまま持参すればいいことになる。
「あー、なるほど。」
先生は、あまり乗り気でない様子だった。できればウロキャッチャーで採ってほしいという気持ちだったのだろうが、同時に、「その方法はきっと成功しない」と思っている様子がうかがえた。
もちろん、それは私の推測であって、その時、先生が何をお考えだったかは、ご本人に訊いてみないと分からないことなのだが。
でもね。
あんまり本気にしていなかったことだけは、確かだと思うのよ。
今日、私が動物病院に飛びこんだら、びっくりしてたもの。
「あれ、今日は何ですか?」
だって。
「先生、採れました!!」
勝利の松明を掲げるごとく、誇らしげにウロキャッチャーを差し出す私。
「ああ、おしっこ。」
先に気が付いたのは、助手さんの方だった。
「採れたの、昨日の七時二十分頃ですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫でしょう。どれ。」
早速、ウロキャッチャーのスポンジ部分を絞り、スポイトで尿を採取する。見た目よりたくさん採れていた。それを試験紙に垂らし、色の変化を見る。
とある部分が、綺麗な緑色に染まった。
「だいぶ濃いですね。」
おしっこそのものが、ということ。
「タンパクが出てます。」
その緑色が、タンパクだった。だが私には、今一つ状況が掴めない。
先生が、壁に貼ってある図を指し示して、例によって詳しく説明してくれた。
「今の状態は、この糸球体の働きが十分でないということ。つまり、タンパクの再吸収ができてないんです。だからおしっこに出ちゃう。」
「はあ。」
「これでおしっこが薄々だったら、腎臓が機能していないってことだから心配だけど、それはないから、まだそれほど進行はしていないでしょう。」
じゃあ、おしっこが濃いというのは、必ずしも悪い指摘ではなかったのか。
「フードのせいってこともありますか?」
「うーん、あまりないですね。フードの影響だったら、血液の方に出ます。」
なるほど。
先生は、図の進行段階の部分を指し示し、
「今はこの『予防期』くらい。ここで食い止めるようにしないと。腎臓はね、治らないんですよ。」
それは知ってる。
「フードはお年寄り用のを食べてる?」
「いいえ。今はお年寄り用じゃないです。プレミアムフードにしたので。」
「そう。プレミアムでも、お年寄り用にしてください。タンパク質を低く抑えてあるやつ。」
先生にも、私が脱ロイカナを狙っていることが、だんだん分かってきたらしい。
「『腎臓サポート』は、食べたことがありますか?」
助手さんが口をはさむ。
「あります。サンプルでもらったのを、おやつ的に食べさせましたけど。――腎臓サポートって、健康な子には、あまり良くないんですよね?」
「まあ、常食にしなければ大丈夫ですけど。でも、まあ、今のところはそこまで行かなくてもいいでしょう。」
「お薬とかは?」
「まだ必要ないです。」
と、いうわけで。
兆候はあったものの、まだ治療を要する段階ではなかった。
つまり、結果的に言えば、要するにダメちゃんは今回、先生から「お年寄り」のお墨付きをもらったわけだ。
ところで。
ここまで読んで下さった皆さんが、おそらく一番気になっていること。
どうやって、ダメちゃんのおしっこを採ったか。知りたいでしょう?
実は、「大玉サンド」が役に立ったのである。
昨夜、何か家の用事をしていたときに、ダメちゃんがトイレに入ったことに気付いた。あ、と思って駆けつけ、トイレの中を覗き込むと。
ダメちゃんは、トイレの中で、少しだけお尻を浮かせておしっこをしていたのである。
彼ははっきり言って、大玉サンドがキライである。
人間に置き換えてみれば、砂ではなく砂利の上に座るようなものだから、おそらく座り心地が悪いのに違いない。また、普段使っている木の砂より熱伝導性が高いから、座るとひんやりするのだろう。
とにかく、彼はこちらを向いて、実に真剣な顔つきでふんばりつつ、お尻を浮かせておしっこをしていた。
と、いうわけで。
後は簡単である。こうなったら前も後ろも関係ない。後足の間にウロキャッチャーを差し込み、「ジャー」という音が聞こえなくなる位置でしばしキープして、たっぷりと沁み込ませた。人間だってそうだが、猫だって、催している最中に何かうろんなことをされているなと思っても、出始めたものは途中でやめることができなかったものと思われる。
我が家では何かと評判の悪い大玉サンドだが、こうして、意外なところで役に立ったのであった。