昨年十一月十八日。
後ろめたさにびくびくしながら猫専門病院の診察室を訪れた私を迎えたのは、イケメン獣医師の爽やかな笑顔だった。
「やあ。きょうは、どうしましたか?」
――へ!?
怒られるかと思いきや、“どうしましたか”って…。
むむむ。そうきたか。
全く悪意も殺意も感じさせない自然体の微笑み。これがいわゆる、柳生新陰流無刀取りというやつだな。
「いえその、尿検査に…。」
私は全力で、引きつった笑顔を作って答える。
「ああ、そうでしたか。」
「あの、暑かったんで、無理矢理連れて来て熱中症にでもなったらと思いまして――。」
「どれ。じゃあ診せてください。」
いやいや。あろうことか、イケメン先生は、私が尿検査をサボっていたことの言い訳なんか、聞いちゃいないのである。
その前の尿検査が、二月二十四日。「二~三ヶ月に一度は検査を」と言われていたのに、すでにおよそ九ヶ月が経過している。要するに、二回連続でサボった計算となる。
(さては、サボっている間に、「この飼い主はダメだ」と、見捨てられたか。)
ま、そのとおりなんだけどさ。
こうしてお咎めなしでアタゴロウを先生に預け、待合室で待つことしばし。
検査が終わり、イケメン先生の示した結果は、予想どおりとも、予想外とも言えた。
「やっぱり、ストラバイトが相当出ていますね。」
「・・・・・。」
示された検査結果の紙を見て、私は思わず絶句した。
何なんだ、この「+」の数は。
こんなに頑張ったのに。いや、手間ではなくて、かけたのはお金だけ、だけど。
先ほどの問診の際、与えているフードを訊かれて「ドライはc/dのマルチケアコンフォート、ウェットはc/d缶とphコントロールパウチをローテーションで、加えてクランベリーリリーフ(サプリメント)を週に一~二回。他のものはあげてません!」と自信たっぷりに答え、先生も満足げに頷いていたのに。何もかもが、結局、全然効いていなかったのである。
「でも、手術したからもう詰まることはないんですよね。このままだと、何が良くないんですか?」
「結石になります。」
ハイ、愚問でした。
これでもう、ダメ飼い主決定である。
再び、s/dを勧められたが、食べないからと断り、
「たまに、私が目を離した隙に他の子のごはんをつまみ食いしちゃったりするので、そういうことがないように気を付けます。」
と、遠回しにアタゴロウ自身に責任をなすりつけておいて、逃げるように猫専門病院を後にした私であった。
その後の私の行動には、賛否両論あるかもしれない。
猫専門病院を出た私は、そのまま自転車を進め、かかりつけのドクター・ミツコのもとに駆け込んだのである。
「先生、どうしましょう。」
「うーん、よっぽど出来やすい体質なのねえ。」
先生も途方に暮れた表情で言う。
「でも、s/dは、常食にはできないんですよね。」
「ああ、あれはダメ。長くても半年。」
s/dには、わずかではあるが塩分が含まれている。喉を乾かせ、水を飲ませるためだ。だが、その塩分の影響で、内臓脂肪が溜まり、お腹の中がベタベタになっている猫を、ミツコ先生は見てきているという。
「それか、phコントロール・ゼロにするか。」
「ゼロは維持食になるんですか?」
「あれは大丈夫ですよ。もう、アタゴロウくんくらいのレベルだったら、ゼロにした方がいいかもね。」
それでストルバイトが消えるなら、ある意味、いちばん簡単な解決法である。
「じゃあ、今あるc/dを食べ終わったら、ゼロにしてみようかな…。」
先生にともなく、自分にともなく、弱々しい声で呟きながら、だがそこに、深い敗北感を噛みしめている私がいる。
結局、ロイカナに頼るしかないのか。
でもねえ。
アタゴロウにロイカナを出したら、間違いなく、もっと大きな猫が釣れちゃうよね。
「でも、いちばんいいのは、お水をたっぷり飲ませること。」
「・・・・・。」
実は、シリンジ給水は、とっくの昔にやめている。アタゴロウが嫌がるのを見て、だんだん可哀想になってきたからだ。
でももう、飲み水は三箇所に置いている。これ以上、彼等にとって身近かつ、置きやすく蹴飛ばしにくいところがあっただろうか。
「ささみのゆで汁とかは、飲ませてもいいんですよね。」
「ああ。大丈夫ですよ。」
だが、言いながら、
(ぜったいやらないな。)
という、妙な確信があった。何度かやってみたことはあるが、うちの猫どもは、その手のものに関する関心が今一つ希薄だ。頑としてキャットフード以外のものを食べさせずにきた私の方針が災いしたのか。だいいち、私はそんなにマメじゃない。
友人さくらは、やっちーに薬を飲ませるため、薬をくるむ白身魚のペーストを、毎日手作りしているというけれど。
もう一つ。
気になっていたことを尋ねてみた。
「あの、尿検査なんですけど、あちらの病院では、その場でお腹を押してオシッコを採っているんですが――。」
「ああ、圧迫排尿ね。」
「その場で採った尿で検査したいからってことなんですけど、先生はやらないでしょ。」
「ああ、あれはねえ。猫にストレスがかかりますからね。それに、オシッコが腎臓に逆流しちゃう可能性があるんですよ。」
先生は淡々と言う。
「あっちでは、二~三ヶ月に一度、尿検査って言われてるんですけど。」
「まあ、その程度なら大丈夫でしょうけどねえ。」
ミツコ先生だって、圧迫排尿を全然やらないわけではないのだ。現に、慢性腎不全で亡くなった故ミミさんの、最初の診察の際には、先生は私の目の前でおしっこを絞り出して検査している。あれは要するに、慢性腎不全が進んでいるに違いないという先生なりの確信があり、それゆえ飼い主(しかも、何もできない私)に採尿させている余裕はないという判断だったのか。
だが、同じく腎機能が弱ってきている(ことが血液検査により判明した)ダメちゃんの尿検査については、「ここで採ってもらえないんですか?」と頼んでみたがニベもなく却下された。基本的には、「猫が自然排尿したところを、飼い主に自分で採らせる」主義なのである。
しかし、ミツコ先生がここまで圧迫排尿を避けているとなると、アタゴロウの尿検査についても、二~三ヶ月に一度とはいえ、無理に圧迫排尿させることに不安が生じてくる。現に今日だって、イケメン先生は『いやあ、あまり溜まってなくて大変でしたよ』とおっしゃっていたのだ。
「ハイ、これ。」
またウロキャッチャーを渡された。
「ありがとうございます。じゃあ、もし採れたら持ってきます。」
受け取りながら、だが、心の中で、いつになるか分からないけどね、と、つぶやく。
アタゴロウ以前の問題で、当初、昨年の春先の予定であったダメちゃんの尿検査だって、未だに出来ていなのである。何しろ彼は、私が家にいると、朝オシッコをしないのだ。夜はこれ見よがしにするくせに。
ところが。
アタゴロウには、ジジイにない素直さがまだ残っていたのである。
二月十六日土曜日のこと。
私が朝、歯を磨いていたら、アタゴロウがやってきて、トイレの中を嗅ぎまわり始めた。
あ、これは…、と、ピンときた。
私の予感は当たり、見事、オシッコ採取成功。しかも、普段なら土曜日の午前中は用事があるのに、この日はたまたま空いていたときたもんだ。
ついでに、ダメちゃんもしてくれないかな、と淡い期待を抱きつつ、アタゴロウの尿を採取したウロキャッチャーの袋に「ア」の字まで書いて、ジジイに熱視線を送り続けたのであるが、残念ながら百戦錬磨のジジイはその手には乗らず。
結局、「ア」の字の袋だけを握りしめて、ドクター・ミツコの元に勇み乗り込んでいったのであるが――。
結果は、予想だにしないものであった。
ウロキャッチャーから絞り出された尿に浸した試験紙には、鮮やかなオレンジ色の反応が表れていたのである。
「これは…。」
混乱のあまり言葉が続かない。呆然と立ち尽くす私に、
「酸性ですね。」
ドクター・ミツコは、厳かに、そう、告げたのだった。
その瞬間、私の脳裏を掠めたのは、自分の尿結石に関する知識は、そもそも全て根本から間違っていたのではないか?という疑いであった。
「てことは、ストルバイトは…。」
「そ。今度心配なのはこっち。」
先生は、以前にも見せてくれた説明用のチャートを取り出して、「シュウ酸カルシウム」の項を指さして見せた。
「ストルバイト、ストルバイトって大騒ぎしていたら、いつの間にかシュウ酸が増えちゃったっていう…。」
それは、アタゴロウのような個々の猫についても「あるある」であるようだが、同時に、世間的な潮流でもあるらしい。
「――ゼロ、恐るべし。」
私は思わず、小声でつぶやいていた。
在庫がたっぷりあったc/dコンフォートをようやくにして消費し、我が家に「phコントロール・ゼロ」がやってきたのは、一月二十日前後。まだ切り替えて一ヶ月も経っていないのに。
ゼロの破壊力は、アタゴロウの「++++」のストルバイトを跡形もなく溶解し、なかんずく、彼の尿を完全に酸性に傾けたのだ。
私のつぶやきが聞こえたのか、先生がさりげなく提案する。
「もしかしたら、ゼロじゃ強すぎるのかもね。1(ワン)にしてみるとか。」
あ、そういうシリーズ構成になっていたんだっけ。
もとよりロイカナを食べさせる気がなかったので、真面目に調べたことがなかった。
猫でもワンなんですか?というオヤジギャグがつい頭に浮かんでしまったのだが、それはそれとして、その時、私の頭の大半を占めていた思いを、もしあのイケメン獣医師が知ったなら、おそらく私は、猫専門病院を出入り禁止にされたことだろう。
そのとき、私が心から思っていたことは、
(ゼロを買い足さなくて良かった…。)
という安堵感、ただそれだけだったのである。
一月二十日頃にアマゾンで購入したゼロは、二キログラムのパックである。予想どおり、アタゴロウは喜んで食べたので、想定以上に減りが早く、そろそろ次を買い足そうかと考えていた矢先であった。しかも、こんなに消費が早いなら、今度は何パックかまとめ買いしようかな、とさえ、ぼんやりと思っていたのである。
(ああ、危なかった…。)
ギリギリセーフ、であった。
だが、そうは言っても、我が家のゼロだって、まだそこそこの量が残っている。
いくら何でも、あれを全部捨てちゃうのもちょっと、ねえ。
そこで、
「じゃあ、少しずつゼロに切り替えてみて、完全に切り替わってしばらくしたら、また、オシッコ採ってきます。」
と、前向きなのか後ろ向きなのか分からない発言をしてみたのだが、
「そうですね。完全にワンに切り替えて、一週間くらいしたらまた持ってきてください。」
――一週間!(早い)
そんなにすぐに、変化が表れるものなのか。
でも、次がいつになるか、正直、約束はできないんだけどな。
まあ、いいか。先生はウチにあるゼロの在庫の量なんて知らないんだから、「やっと切り替え終わりました~」のテイストで、にっこり笑って来ればいいや。
「じゃあ、先生、もう一本ください。」
「ハイ。じゃこれ。」
おかみさん、もう一本付けてくんな――はいよ、ほどほどにしときなさいよ。
ああ駄目だ。今日はもう、まともな思考ができそうにない。それもこれも、ゼロショックで脳味噌が壊れたせいだ。
と、いうわけで。
アタゴロウくんのオシッコ問題は、未だ解決に至っていないのである。
これは後で気が付いたのだが、今回の酸性発覚でギリギリセーフだったのはゼロだけではない。サプリメントとして与えていたクランベリーリリーフについても、そろそろ底が見えかけてきたところであった。これも買わなきゃと思っていたところだったのである。
だが。
そのことに思いあたり、別の可能性が浮上した。
ひょっとして、今回の酸性値の原因は、ゼロが強すぎたのではなく、クランベリーリリーフが余計だったということではないのか。
今回の尿検査のちょうど一週間前まで、アタゴロウはゼロに加え、クランベリーリリーフをも摂取していた。一週間前に喘息の薬を飲ませ始めたので、そのとき、薬を飲んでいる間はお休みにしようと思って止めたのだが、それまではせっせとウェットフードに混ぜて食べさせていたのである。
ドライフードをc/dからゼロに替えた際に、サプリメントは要るのだろうかとちょっと考えはしたのだが、アタゴロウのストルバイトがあまりにも酷いので、やはり併用した方がいいのではないかと思って、そのまま与えて続けていた。
しかし。
ゼロ、恐るべし。
私が考えていた以上に、ゼロの効果は凄かった。
先生の話しぶりから、食餌によって尿のph値に変化が出るタイミングは割合早いのだということが分かった。先生は「(フードを)切り替えてから一週間」とおっしゃったが、それを言うなら、クランベリーリリーフを止めてから今回の尿検査まで、ちょうど一週間経っている。喘息の薬は尿phには関係ないと、先生はおっしゃっていた。ではやはり、あの驚異の酸性値は、ひとりゼロの威力に因るものであったのか。
微妙なところである。
うーん、やはり。
ゼロ、恐るべし。
それにしても、あの朝、アタゴロウが私の目の前でオシッコをしてくれて、本当に良かったと思わざるを得ない。
でかしたぞ、アタゴロウ。良くやった。
ところで。
実は、ゼロ効果は、尿ph値だけにとどまらなかったことを報告しなければならない。
アタゴロウが、ウェットフードをよく食べるようになったのである。
ロイカナは猫にとって美味しいのだろう。ロイカナを出すと食いつきよく完食する、というのはもとより分かっていたことであるが、アタゴロウの場合、なぜか、ドライの前に出すウェットフードまで綺麗に一気食いするようになったのだ。
これまで、後半戦はドライフードをまぶしたりして、なだめすかして食べさせていたのに。
もちろん、ゼロ=ロイカナドライに対する執着は強い。c/dの時より多めに食べさせていると思うのだが、それでも未練がましく、いつまでも皿の前に座って視線を送ってくる。最初は本当に足りないのかと思って少しずつ「お代わり」を与えていたのだが、どうやらきりがないらしいと知ってやめた。(もう終わりよ!と言い続けていると、やがてあっさりと諦める。)
だがなぜ、ウェットフードまでよく食べるようになったのか。
謎である。
ちなみに、私が当初警戒した「ロイカナを出すともっと大きな猫が釣れてしまう」という事態であるが、これは起こらなかった。起こり得なかったと言っていい。
なぜって。
もっと大きなジジイが、アタゴロウの残り物を求めて彼の皿を覗きに行っても、そこにはもはや、草一本生えていないからである。
とはいえ、以前はその巨体の発する空気圧でアタゴロウを排除し、彼の皿を強奪していたジジイである。その気になれば、まだロイカナを食べているアタゴロウを強制的に立ち退かせ、自分がそれを横取りすることだって、できなくはないはずである。
なぜジジイがそれをやらないか。それは、アタゴロウがロイカナを一気食いしているとき、彼は彼で、自分のご飯を必死に食べているからである。
そう。
この説明のつかないゼロの効果。それは、
「アタゴロウだけでなく、他の二匹もよく食べるようになった」
ということなのである。
玉音ちゃんも、お得意のジプシー食いをやめて、男子チームの食事場所にほど近い椅子の下で待つようになった。そして、移動・休憩なし、または休憩一回で、きれいに完食するようになった。
賄い婦としては、実に助かる話ではある。
とはいえ。
私の心中には、若干複雑な思いが残っている。
あれほど苦労して、ロイカナを卒業したのに。
うちはロイカナなんか出しません。プレミアムフードざますから、と、間接的にロイカナをディスりまくっていたのに。
結局、ロイカナの恩恵をありがたく享受することになろうとは。
嗚呼。
返す返すも――。
ゼロ、恐るべし。
いや。おそらくこの効果は、ゼロからワンに切り替えても同じだろう。同じであることを祈っている私がいる。
ついでに言うと、ゼロは一種類だが、もしワンに切り替えられたとしたら、ワンの方は味が二種類あるのだ。ローテーション(といっても単なる交代であるが)が組めることになる。アタゴロウ自身は大して気にしていないかもしれないが、飼い主的にはちょっと嬉しいのである。
いやはや。
ロイカナ、恐るべし。
いや、本当に。
恐れ入りました、と、言うほかはない。
やっぱり、人であれモノであれ、うっかり悪口なんて言うもんじゃないな。
ちなみに、これがクランベリーリリーフ
中身は粉末