キャリアウーマンとその夫はDINKSになれるのか

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 実は、つい先日まで、三匹目の猫を飼おうかと画策していた。

 迷いはなかった。亡くなった子に申し訳ないなどとは、昔から考えたことがない。私が一匹飼えば、その分、他の一匹の命が繋がる。それはほとんど信念に近いものだ。我が家の猫はみな保護猫であり、そうやって命を繋がれてきた子たちである。ミミもムムもダメも、きっと理解してくれると信じている。

 もちろん、今いる二匹が落ち着いてからという配慮はあった。

 具体的に考え始めたのは、四月末くらいからだろうか。

 ステイホームのお陰でゴールデンウィークはほぼ完全に引きこもっていたのだが、家にいると、アタゴロウが構えとうるさい。

 こいつ、暇してるな、と、ピンときた。

 とはいえ、奴は昔からそういう猫なので、これは単なる直観に過ぎない。

 だが、客観的に見ても、ダメがいなくなって、アタゴロウは全くと言っていいほど、暴れなくなった。走っているのはウンチハイの時と、玉音にセクハラしようとして逃げられた時くらい。元気に駆け回って遊ぶことがなくなってしまったのだ。

 まあ、どのみち、彼もそれなりに、いい歳だからね。(今度の十月で八歳である。)

 とはいえ。

 やっぱり、遊び相手がいた方がいいんじゃないかな、と、思った。

 残念ながら、玉音ちゃんは彼の遊び相手にはならないのだ。彼女は彼に輪を掛けて、駆け回って遊ぶことがない。いや、走らないとは言わないよ。毎日、私から逃げようとして、機敏にダッシュしているのだから。

 

 

 どんな猫がいいだろう。

 雄がいい。

 それもできれば、生後四か月から一年未満くらいの、大きめの仔猫か中猫。

 そう考えたのには、理由がある。

 まず、大前提として、新しい猫は、性格が温和で、我が家の二匹と仲良くできる子でなければならない。

 その前提で考えると、シニア猫だと、そもそもアタゴロウの遊び相手にならない可能性がある。かといって、あまり小さい猫でも、今度は活発すぎて、二匹が持て余すだろう。

 では、若い成猫がいいか。

 そこが難しいところで、大人の猫だと、玉ちゃんとの関係がどうなるか?という問題が生じてくる。

 まず、雌は論外だ。成猫の雌同士は、リスクが高すぎる。

 なら雄なら良いかと言うと、玉ちゃんの場合はこれも微妙だ。

 玉音はとにかく、弱い猫である。体力・膂力的にもおそらく弱い方だし、彼女自身にもその自覚があるのだろう、とにかく気が弱い。喧嘩になったら、睨み合っただけで負けを認める子であることは間違いない。

 性格の温和な雄なら、その子が玉音を威嚇するようなことはないだろうが、玉音の方がどうだろうか。「シャー」の捨て台詞を残して、押入れに籠城するのが目に見えるようだ。

 だが相手が“子ども”であれば、玉音も少しは強気でいられるのではないか。

 折しも季節は晩春。保護活動をしている人々のブログには、仔猫保護の記事が毎日のように掲載されている。そして、今年は七月に五連休がある。九月にも四連休がある。その頃には、早めに生まれた春っ子たちが、射程範囲内の大きさに育っているのではないか。

 ついでに言えば、コロナの影響で譲渡会が開けないなど、どこの団体も保護猫の里親探しについて苦しい状況が続いていると聞く。となると、もっと早く生まれた冬生まれの子たちは、“適齢期”を逃し、状況が落ち着いて譲渡会が行われるようになるころには、主役の座を春っ子たちに奪われるのではないか。私が欲しいのは、むしろそうした、トウの立った仔猫なのだから、これはどちらにとっても良い話になるのではと思った。

 トライアルは七月か九月か。それはその子の月齢による。思えばこの頃が、一番楽しく、仔猫情報を眺めていた日々であった。

 

 

 新しい猫は、どんな毛色がいいかしら。

 何度も書いているように、私の理想はサビである。だが、サビは雌だ。今回は涙を呑んで諦めた。

 で。

 各色検討した結果、私がセレクトした希望の毛色は「茶トラ」(もしくは茶白)である。

 正直に白状する。それは、写真うつりを考えてのことだ。ただしそれは、いわゆる「映え」ではない。

 見分けの問題である。

 我が家には「ほとんど黒に近い黒白」と「ほとんど白に近い白キジ」がいる。高性能のカメラと撮影の腕があるなら別だが、私ごときがスマホで遊び半分に撮った写真だと、柄の似ている猫は、案外写真にすると見分けが付きにくい。これは、ダメちゃんと、実家で最初に飼っていたサビキジのジン子姐さんのケースで、既に経験済みだ。色合いも、大きさも、さらに背景まで違うはずなのに、写真を見て「あれ、どっちだっけ?」と、一瞬混乱することは、飼い主の私でさえ意外に多いのである。

 まして。

 こんなに更新スピードが遅いのに口幅ったいが、今回は一応、写真をブログで公開すること、即ち自分以外の人に見てもらうことを念頭に置いている。新しい子が黒猫だったとして、その子とアタゴロウがくっつきあって寝ている写真を投稿したら、見る側にはどっちがどっちかさっぱり分からん、という事態を回避したかったのだ。

 それに、それだと「映え」ないしね。

 そうなると、「黒」「白」「黒白」「白キジ」、そしてそれに類する色合い(グレーやスモークなど)も排除される。

 サビは先述のとおり、雌だから排除。同じ理由で三毛もおそらく無理。

 雄猫かつ、他の二匹と一目で見分けがつく毛色といったら、やはり、赤(オレンジ)系がダントツだろう。

 あとは、赤が入っていなくても、トラ柄という手もある。だいいち、保護猫の中で圧倒的に数が多いのが、原種に近いといわれるキジトラだ。

 だが――。

 そこだけは、完全に私の気分の問題で躊躇した。

 ジン子とダメのときと同じだ。キジトラの猫だと、将来、写真を見て、ダメちゃんなのかその子なのか、区別がつかなくなるのではないか。それを考えると胸が痛い。

 ダメちゃんは私の、永遠のキジトラなのだ。少なくとも、そうあってもらおう。今のところは。

 

 

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上:ジンちゃん、下:ダメちゃん。この写真ならさすがに間違えることはないけれど。

 

 

 今だから言うが、当時、もうすっかり「うちの子」にするつもりで、狙っていた仔猫がいた。

 実際には、その子はもう里親さんが決まって幸せに暮らしているらしい。もしかしたらその里親さんが、このブログを読んでいるかもしれない可能性を考慮して、名前や出自は言わないが、春っ子たちより明らかに早く生まれている、つまり私が狙っている大きさの子だった。

 最も自粛が厳しく、里親探しが難しいときに、いちばん愛らしい時期を迎えてしまうというタイミングの悪さ。普通の状況であればあっと言う間に里親さんが決まっただろうに、万一自粛が長引いてしまったら、この子は売れ残ってしまうかもしれない。そのタイミングの悪さ・運のなさが、何となくダメちゃんを彷彿とさせた。

 そして、何より。

 推定月齢から逆算するに、彼はおそらく一月生まれだ。

(ダメちゃんの生まれ変わりなんじゃないか――。)

 一瞬、そんな思いが頭をよぎったのも事実である。

「貰っちゃいなさいよ。」

 友人さくらは私にそう言ったのだが、

「いやあ。もうちょっと様子を見る。うちよりもっといいお家に行けるかもしれないしさ。」

 果たして、そうなった。

 縁はなかった。彼は別に、ダメちゃんの生まれ変わりではなかったのだろう。

 いや、もし彼の生まれ変わりだったとしたら、今度はもっとお世話の行き届いた家庭で、幸せな猫生を送ってほしいものである。我が家に在りし頃、彼はいつも、猫カフェ荒らしのSさんによれば「全てを諦めた顔」、ボランティアのAさんによれば「困り顔」をしている猫だったのだから。

 

 

 長々とお付き合いいただいた後で恐縮であるが、ここまでは全て前置きである。

 これより、本題に入る――。

 

 

 件の「ダメちゃんを彷彿とさせる」子がめでたく婿入りした後、私は急に、どうしたら良いのか分からなくなってしまった。

 とりあえず、七月は諦めて九月のシルバーウィークを目標に据えることにした。そして、春っ子たちが里親募集時期を迎えるのを待つことにしたのであるが。

 今度は、どう探したら良いのか、分からなくなったものである。

 保護猫カフェのサイトでちょっと気になる子がいても、そうしげしげ、猫カフェに足を運んで良いものか。

(私自身が不特定多数の人と接する仕事をしているので、自分が感染することもさることながら、それをバラ撒いてしまうことに、さらに恐怖を感じるのである。)

 だが、よく考えると、私自身はどんな猫でも可愛いわけだし、相性を見るのは「私と猫」ではなく「猫たちと猫」である。迎えに行ける、あるいは届けてもらえる範囲であるなら、必ずしも私が「通う」必要はないのではないか。

 まずは、問い合わせてみよう、と思った。

 先に結果を言ってしまうが、二件打診して、二件とも遠回しに断られた。

 いや、断られたというのは、適切ではないだろう。どちらも親身に相談に乗って下さり、私によく考えるようにというアドバイスを与えてくれた。その結果、私は、三匹目を飼うことを断念したのだ。その経緯が、この記事の本題である。

 

 

 まず、一件目。

 ちょっと気になる茶トラがいたので、問い合わせをした。だが、その子は本当に可愛い、誰から見ても美形の子だったので、「もしその子が、もう里親さんが決まっているようでしたら、他の子を紹介していただけますか?」と併せて依頼してみた。

 もちろん、我が家の状況についても、詳しくお知らせした。

 返事は、思ってもみないものだった。

「そういうことなら、まずは、アタゴロウくんがFIVに感染していないか、検査をしてもらえませんでしょうか。」

 仔猫は感染しやすいので…、ともあった。

 冷静に考えれば当たり前のことなのだが、ここにきて突然、玉音のFIV+が問題になったのである。

 私自身は、それを何らかの問題と考えたことはなかった。

 いつの日か、玉音が発症するかもしれない。そのときに備えて覚悟を固めておこう、と思っていた程度である。

 言い訳かもしれないが、私が玉音を保護した当時は、キャリアの猫とノンキャリアの猫を一緒に飼っても、普通に暮らしている分には問題ないというのが、少なくとも一部では、一般的な認識だったと思う。当時、保護活動をしている人から、「今どきは、エイズは感染しないというのが、保護活動の現場では常識」と言われた記憶がある。(昔の話なので、ここまで強い表現ではなかったかもしれない。)

 玉音の検査結果が出た時も、獣医さんには「そんなに心配しなくても、普通に接して大丈夫だから。」と励まされ、別に隔離しろとは言われなかった。その後も、病院に行くたびに、猫たちの生活ぶりは話している。一緒に暮らしていることはご存知のはずだ。

 もちろん、今も昔も、獣医さんの中には、キャリアの猫は他の猫とは完全に隔離するべきだと言う人もいる。医学的見地からは、確かにそれに越したことはないだろう。うちの猫たちがお世話になっている先生は、地元の保護団体にも協力している人らしいので、視点としては保護活動家に近いのかもしれない。

 であるから。

 交尾か噛みつき合いの大喧嘩でもしない限り大丈夫。感染を恐れて、キャリアの猫たちをやたらに敬遠するべきではない――保護活動をする人たちの認識は、そういう方向なのだと、勝手に信じ込んでいた。

 現場の空気が、変わってきたのだろうか。

 そういえば、このところ、保護活動をしている人のブログなどにも、「キャリアの子を隔離している」といった内容の記述を目にすることが多くなった気がする。

 知見を積み重ねて、“常識”が変わる。それは当然のことだ。そうやって、医科学は進歩してきたのだから。

「そうね。確かに、アタちゃんは一回検査した方がいいかもね。」

 さくらは言う。

「うちの親戚の家でも、キャリアの子とノンキャリアの子を一緒に飼ってたけど、何年か後に検査してみたら、ノンキャリアの子がいつの間にか陽性になってたって。その二匹は、割とクールな関係だったらしいけど。」

 だが、私は、そこで考えてしまった。

 だからといって、今、アタゴロウのFIV検査をしたところで、それが何になるのだろう?

 もし、彼が陰性だったら、新しく来る子も安全だろうということか?

 いや、それは有り得ない。「猫エイズは感染する」という認識に立つ限り、玉音が陽性である以上、どんな子をもらっても、(そして、アタゴロウにも)感染のリスクは決して無くならないのだ。

「そういうことなら、ちょっと考えます。」

と、私も婉曲表現で、申し込みを取り下げた。

「どうしても、成猫同士でも感染は有り得ます。それが現実です。」

 優しいけれど、厳しいアドバイスだった。

 そう。それが現実なのだ。 

 

 

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「確かに、検査はした方がよさそうだけど、それは何かついでがあった時にするよ。今、それが分かったところで、どうするわけにもいかないんだから。三匹目は諦める。」 

「でもねえ。」

 さくらは、遠慮がちに言う。

「もし、検査の結果、アタちゃんが陽性だったら――。」

 その先は、言って欲しくない。

「そしたら、キャリアの子は飼えるってことじゃないの?」

 私は黙る。それは私も考えたことだったからだ。

「分かってるよ。でもさ、それって、まるでアタゴロウが感染していることを願ってるみたいじゃないの。そういうのは嫌なの。」

 

 

 二件目の話は、私が三匹目をとっくに諦めたころに来た。

 私から申し込んだ話ではないが、別に「飼ってくれ」と頼まれたわけでもない。強いて言うなら、里親候補として私の名前が挙がった、といったところか。

 人を介しての話なので、正確ではないかもしれないが、だいたいこんな話だ。

 大人しい成猫の男の子が、猫カフェで他の猫に苛められるようになったので、保護主さんがその子を自宅に避難させた。だが、そちらのお宅には別の保護猫がいて、その先住保護猫が彼を苛めるようになった。彼は居場所がなく、ベッドの下に潜ったきり出てこなくなってしまった――。

 このままでは、その男の子が弱ってしまう。頼まれたわけではないけど、何とかしてあげたい。あなた飼えない?という、友人からの打診であった。

 成猫とはいえ、他の猫から苛められて、ベッドの下から出て来なくなってしまうような大人しい子。そして雄。シニアではないらしい。

「別に飼えるよ。でも、向こうから断られると思うけどね。」

 正直、私は、どっちでもいいやという気持ちだった。だが、その男の子のことは、可哀想で気にかかった。

 我が家の事情と、先日の茶トラのくだりを説明すると、彼女も相当悩んだようだが、とにかくその保護主さんに話してみることにしたらしい。数日後、彼女を介して、その保護主さんから私へのアドバイスが届いた。

 とても丁寧な、長文のメールだったという。それをかいつまんで友人が私に伝えてくれたものを、さらに要約すると、こういった内容になる。

 

 まず、件の男の子については、大人しすぎて、アタゴロウの遊び相手にはイマイチだろうということ。

 だが、アタゴロウにはやはり、遊び相手がいた方が良いのではないか。今の状況では老け込んでしまうかもしれない。

 玉音とアタゴロウの生活圏を徐々に分離できないか。その上で、アタゴロウに新しい友達を迎えたらどうか。玉音は一人でも大丈夫だろう。

 

 見も知らない私と二匹のために、ずいぶん親身になって考えてくれたんだな、と、感謝を通り越して申し訳ないくらいの気持ちになった。

 だが。

(無理だ…。)

と、私は心の中で、即座にその提案を拒否していた。

 せっかく考えて下さったのに、申し訳ないけれど。

 まず、「玉音はひとりでも大丈夫」だと、私は思っていない。

 ただし、この「ひとり」の定義が、おそらく、保護主さんの意図するところと、私が言いたいことのとの間には、ズレがあるものと思われる。

 確かに、猫同士の関係において、玉音は他猫がいなくても平気だろう。むしろ、単頭飼いの方が適していたのではないかと、私自身、思う時がある。

 だがそれは、玉音が孤独を愛する猫、孤独に耐える猫である、という意味ではない。

 駆け回って遊ぶアタゴロウ・新猫チームの生活圏と、大人しい玉音の生活圏を分けるとなると、私自身の生活圏の大半は、男子チームの側に属してしまうのは明白だ。だが、わざわざ自分の生活圏にいない玉音のもとを訪れて、その淋しさを埋めてあげられるほどの時間が、自分にあるとは思えない。彼女は孤独になるだろう。それでも不都合はないのかもしれないが、少なくとも、ようやく私に対し開き始めてきた心を、彼女は再び閉ざしてしまうに違いない。

 そして。

 そもそも、アタゴロウと玉音を、分離するということ。

 そんなことが、できるのだろうか。

 

 

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 アタゴロウと玉音は、ラブラブのカップルではない。

 しじゅうくっつき合い、舐め合い、一緒に遊んでいた、ダメとムムのような関係ではないのだ。

 だが、よそよそしいというわけでもない。

 お互い、たまたま近くを通りかかると、匂いを嗅ぎ合ったり、思いだしたように相手を舐めたりする。

 最近は玉音も私に甘えるようになってきたので、私が一方を撫でていると、もう一方が気にして近寄ってきたりするのだが、このときも、「ぼくにも」「私にも」という羨望のような感情はあっても、互いに嫉妬して相手を押しのけようとしているような様子は見受けられない。一緒に、同じように、幸せな時間を過ごしたいと思っているように見えるのだ。

 ひどく逆説的だが、私はこの二匹を見ていると、なぜか「夫婦のたたずまい」という言葉を思い出す。

 いや。彼等の間に、夫婦であるとか、カップルであるとか、そういった雌雄を意識した関係性はないのだろう。だが、一定の仲間意識はある。そして、これまでの暮らしの中で積み重ねてきた、彼等の歴史はある。

 そう思うのは、単なる私の感傷だろうか。あるいは願望だろうか。そうあってほしい、という。

 確かに、特に昼間、二匹はほとんど没交渉だ。であるから、別々の部屋に分けられても、実質的に何の影響もないかもしれない。

 それでも。

 私には、彼等を、分離させることはできない。

 そのことは分かっている。

 ただ悩ましいのは、それが「彼等のため」なのか、「私のため」なのかが、自分でも判別がつかない、ということなのである。

 

 

 いつの間にか話は、三匹目を飼う・飼わないの問題を越えて、アタゴロウと玉音の関係をどうするかという、深刻な議論に至ってしまっている。

 多分、アタゴロウの側に着目するなら、その保護主さんの言うとおり、「玉音を分離して新しい猫を迎える」というのが、最も正しい方法なのだろう。

 そうすることが、玉音の健康や安全を脅かすというわけではない。

 むしろ、今こうして、アタゴロウと玉音が一緒にいることが、アタゴロウの健康を――もしかしたら、生命さえ――脅かすことにもなりかねないのである。

 玉音可愛さのために、それに目をつむる。そこに何がしかの正当性は、あるのだろうか。

 もっと言うなら、最初の問題に立ち返って、玉音可愛さのために、つながるはずの別の一匹の命を繋がない、そのことについて、私に何の申し開きができるのか。

 アタゴロウが玉音の首を舐める。玉音がアタゴロウの横腹を舐める。

 そんな光景を目にした時、もうそれを、素直に微笑ましいと思えない自分がいる。

 同時に、もっともっと、彼等が互いに愛情表現をしてくれればいいのにと思う自分もいる。そうすれば悩まないで済むから。二匹を分離しないことに、ひとつの正当性を見出せるから。

「悩むんだったら、アタゴロウのFIV検査をしてもらえばいいじゃない。」

 多分、皆がそう言うだろう。だが、私は、その検査さえ怖い。

 陰性だったら、今の問題には何の進展もないことになる。

 そして仮に、もし、万一、陽性であった場合――。

 そのことで、自分がほっとしてしまうことが怖いのだ。

「だったらもう、分離するしかないじゃない。」

 そのとおりだ。

 それなのに、なぜ私は、その提案を受け入れることができないのだろう。

 

 

 ダメちゃんの抗がん剤治療をやめた時。

 あの時私は、若い二匹の健康を優先して、あっさりとダメちゃんの命を見捨てたというのに。

 

 

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