限りなく透明に近い黒白


 

 職場の昼休み。
 昼食をとりながら、何人かで喋っていた。話題が我が家の猫どものことになり、アタゴロウの話をしかかったところで、職場の才媛・語学堪能なO女史が、ふと、こんな疑問を口にした。
「そういえば、今、猫山さんちって、猫、何匹いるの?ダメちゃんと、玉音ちゃんと…。」
「三匹。あと、アタゴロウ。」
「ふうん。」
 O女史は、記憶を確かめるようにしばし考えてから、才媛らしい、はきはきと明るい口調で、笑いながら言った。
「アタゴロウは、存在感薄いよね。」
 猫飼いでないO女史にとって、それはごく何気なく漏らした、全く邪気のない一言であった。話題はそのまま、別のことに移った。
 その小さな石つぶてのような一言が、私の胸に起こした波紋に、誰ひとり気付かないまま。
 
 
 三匹目問題で真剣に悩んでいた頃、私が懸念したのは、アタゴロウのことであった。
 いや、正確に言えば、最初は甘え下手なダメちゃんを心配したのだが、よくよく考えて、やはり、他に何匹猫がいようと、ダメちゃんのナンバーワンキャットの地位は揺らぐことはない、と思いなおした。
 彼は私にべったりの猫で、就寝中の布団の上でも、常に私の顔にいちばん近い位置をキープしている。私の方も、「先住猫優先」を絶対とする猫の順列ルールは間違いなく守るわけだし、むしろ意識的に、ダメを気遣うようになるに違いない。
 となると。
 難しいのは、むしろ、アタゴロウの処遇である。
 チビネコは、基本的に放っておけばよい。新猫の登場により、精神的に不安定になるであろうダメちゃんには、「キミがいちばん大事なんだよ」というサインを、しつこいほどに送り続けるつもりだ。
 だが、「真ん中」になるアタゴロウは?
 ダメちゃんに気を遣ってちやほやし、何かと手がかかる仔猫にも構わざるを得ない生活の中、どのような匙加減でアタゴロウに接していけばいいのだろう。
 アタゴロウは、ストレスで体調を崩したりしないだろうか。
 あるいは、嫉妬から仔猫を苛めたりしないだろうか。
 だが、その心配は無用であった。
 玉音が我が家に登場し、当初のフーシャー状態が過ぎると、予想どおり、ダメちゃんは、ボスネコの威厳をもって、それまでと変わりなく私に絡んできた。
 そして、アタゴロウは——。
 私は彼を大いに見なおした。玉音が来る前より可愛く思えるほどだ。
「動物と一緒に暮らしていると、動物に教えられることばかりよ。」
 これは、先日、皆でメッセージ集を送った、今度定年を迎えられる猫好き大先輩の口癖である。
「本当に、そのとおりですねえ。」
 しみじみと相槌を打つ私の脳裏には、アタゴロウの姿がある。
 素直であることは美徳である——私はそれを、正に彼から教えられたのだ。
 
 

(2014年12月20日撮影)
 
 
 アタゴロウが最初から玉音に関心を示し、あっと言う間に仲良くなったことは、既に書いた。
 アタゴロウにしてみれば、格好の遊び相手ができたわけだから、当然といえば当然である。いかに大好きとはいえ、やはり、ダメおじさんとは歳が離れすぎていたのだ。若猫のあり余る運動エネルギーは、オジサン猫には少々荷が勝ち過ぎたものと思われる。
 あるいは、アタゴロウは、仔猫を可愛がるタイプの雄だったのかもしれない。猫同士の会話を人間が聞き取れるわけもないが、おそらく、アタゴロウは玉音に安心感を与える接し方をしたのだろう。玉音もそれに応え、すぐにアタゴロウに懐いた。
 純粋培養の野良娘で、笑っちゃうほど怖がりの玉ちゃんが、家の中で元気に走り回って遊べるようになったのも、半分はアタゴロウのお陰と言って良い。
 しかし。
 アタゴロウと玉音が急速に近付くにつれ、別の問題が生じた。
 ダメちゃんである。
 アタゴロウと玉音がくっつき合って眠り、ダメちゃんだけが別の場所にひとりで眠っている光景を何度も目にするにつれ、私の胸に微かな不安が芽生えてきた。
 ひとりぼっちで寝ているダメちゃんに、何となく悲哀を感じるようになったのである。
 そのころの彼は、ある種の疎外感を味わっていたのではないか。
(いいんだ、いいんだ。伸び伸び寝られて快適だし、しつこく絡まれなくなって、せいせいしたよ。)
 そんなふうに自分に言い聞かせながら、仲睦まじく寄り添って爆睡する若者たちを横目にひとり体を丸める、ダメちゃんの心の声が聞こえる気がした。
 だが。
 ここからがアタゴロウの凄いところである。
 アタゴロウは、そんなおじさんの複雑な心の裡を、ちゃんと読み取っていた。やがて彼は、引き続き玉音を可愛がる傍ら、タイミングを見ては、ひとりで寝ているダメおじさんの懐に潜りこみ、一緒に寝るようになったのである。
 ダメちゃんは、怒ってアタゴロウを追い払った。その態度はあたかも、後輩に気を遣われ、本当は嬉しいのに、プライドと面映ゆさから素直になれない、無骨な先輩のそれであった。
 アタゴロウはまるで意に介さないといった様子で、ごく自然に、先輩の寝床に潜り込み続けた。やがてダメちゃんは、以前のように、再びアタゴロウとくっつき合って寝るようになった。
 
 

(2014年12月28日撮影)
 
 
 アタゴロウは、家主である私の心も読んでいたのかもしれない。
 ちっとも懐かない玉音。機嫌を損ねてそっけない態度をとるダメちゃん。
 そんなとき、アタゴロウは膝に来る。
「可愛いねえ、アタゴロウ。お前はいいやつだ。」
 かつて、ムムが我が家に登場した時、ダメちゃんは急速に大人びて、それまでの無邪気な甘え方や、子どもらしいいたずらを止めてしまった。その代わりに、大猫の風貌に相応しい貫録と落ち着きを身に付けたわけであるが、そんな彼の変化に、私が内心、一抹の寂しさを感じていたことも事実である。
 この経験があったので、
(三匹目を飼ったら、アタゴロウは大人っぽくなって、私には冷淡になるんだろうな…。)
と、私は密かに、覚悟していたのだ。
 もちろん、それを残念に思わないといったら嘘になる。
 だが。
 確かにアタゴロウは、以前より大人っぽくなった。玉音の面倒を見てやり、手加減しつつ乱暴な遊びに付き合ってやる様子は、完全に大人猫の態度である。先述の、ダメおじさんに対する気遣いも、その範疇に入るかもしれない。
 しかし、私が少々悲しい思いで諦めていた、私に対する無邪気な「甘え」は、損なわれることなく、保ち続けられた。
 私が座れば、膝に乗って来る。
 私が床に寝ころべば、頭に頭を擦りつけてくる。
 抱き上げれば、素直に体を預けてくる。
 唯一、激減したのは、朝、私の寝床におもちゃを運んでくることくらいだ。かつては、それで、私に遊んでくれとねだっていたのだが、現在はその時間、玉音と凄まじい猫チェイスを繰り広げている。
 そればかりではない。
 玉音が来てから、突然、アタゴロウは私の脚の間で寝るようになった。それまでは、掛け布団の上でも、私の体と接触しない位置に寝ていたのに。
 私が布団に入ると、アタゴロウが私の腿から下腹の上に乗り、場所を作れと要求してくる。私が両脚の間にほどよく隙間をつくると、そこに嵌まりこんで寝る。
 特筆すべきは、そのアタゴロウにくっついて、玉音も一緒に寝るということだ。
 そうしているうちに、玉音は自分ひとりでも、私の体の上に乗って来るようになった。
 おそらく偶然であろう。だが、結果的に見れば、彼は私と玉音の間を取り持っていたのである。
 
 
 彼の一連の行動が、意図的であるのか、それとも、全ては結果論であるのか。
 もちろん、それを確かめるすべはない。
 だが、ひとつだけ言える。彼は誰に対しても、素直に心を開き、思いやりと愛情とを、何のてらいもなく表現してきた。そのことが、全ての確執の芽をあっさりと摘み取ってきたのである。
 素直さとは、美徳である——。
 私は彼に教えられた。そのゆえをもって、私の中で、彼の存在感はむしろ、日々、大きなものとなりつつある。
 今の我が家に、アタゴロウはかけがえのない存在である。彼のいない猫山家など、もはや、想像もできない。
 
 

(2015年2月3日撮影)
  
 
 ヨシハル♀くんの転勤が決まった。
 決まった、と言っても、もともとこの春に異動することは確実と言われていたし、本人も上司からそれとなく言われていたようなので、感覚としては「行き先が決まった」といったところだろうか。
 内示の前日。こちらも猫好きのK先輩のおごりで、職場の女性五人で飲みに行った。
 オフィスの入っているビルのすぐ近所に、Aという居酒屋がある。古くからある、正しい飲み屋さんといった感じのたたずまいで、地元で愛されるタイプの店である。職場の男性陣がデイリーに入り浸る、定番の店でもある。
 私も以前からその店の存在を知っており、近所に勤めるのだから利用する機会も多いことだろうと思っていた。美味しいと聞いていたのでそれなりに楽しみにしていたのだが、なかなかその機会が巡ってこない。三年を過ぎた辺りから、これはもう、自分で機会を作って行くしかないと思い始めたが、さすがの私にも、職場から目と鼻の先の、オヤジ系居酒屋で「おひとりさま」をする勇気はない。かといって、後輩の女子たちは、全く飲めないか、「たしなむ程度」のお嬢様ばかりで、そういう子を、自分も足を踏み入れたことのない居酒屋に連れて行くというのも、今一つ躊躇することであった。
 で、あるから。
 唯一の酒豪であり、若手男子チームと何度もその店に行っているヨシハル♀に、一年ほど前から「連れて行ってよ」と頼んでいたのだが、
「いいですねえ。是非行きましょう!」
と、話ばかりが盛り上がり、実行に移されないままに、三月も半ばと相成ってしまったわけである。
 内示の日を翌日に控えて、
「アンタはアタシを見捨てるのね。」
と、恨みがましくヨシハル♀くんに苦情を申し述べる私の台詞を聞き咎め
「なら、今日、Aに行きましょう。ご馳走してあげる。」
K先輩が気前よく誘ってくれた。
「駄目ですよ、先輩! 私達を相手に、それは無謀です。」
 ヨシハル♀と私は並んで固辞したのだが、Aに行きたいと同時に、ヨシハル♀に劣らぬ酒豪と誉れ高いK先輩と飲みたいという誘惑に勝てず、結局、ご厚意に甘えることにしたのだった。
「そのかわり、一時間よ。一時間で帰るからね。」
 もちろん、それが一時間で終わらなかったことは、言うまでもない。
 
 
 そうやってAに繰り出した面子の中に、私が「異星人ムー」と呼ぶ、二年生女子がいた。
 なぜ異星人なのかといえば、これが、超がつくほどの天然だからである。
 先日、ムーの机の上を見たら、誰かが置いたお土産のお菓子があった。そこで、いたずら心を起こした私は、「猫山」のシャチハタを押した付箋を、そのお菓子に貼っておいた。
 これがヨシハル♀なら、
「猫山さんヒドイ。私のお菓子〜!!」
と、抗議してくるところである。
 ところがムーは、こともあろうに、
「猫山さん、ありがとうございます。」
と、シアワセいっぱいの笑顔で、お礼を言ってきたものである。
「へ?何で?」
「お菓子をいただいたので。」
「・・・・・。」
 そ、そうきたか。
 負けた、と思った。
 やっぱり、異星人には勝てない。
 以上は余談であるが、要するに、彼女はそんな汚れを知らぬ星から来た人なのである。
 そのムーは、端っこの席で静かに飲んでいたのだが、
「おや、この子、地味に酔ってますよ。」
 何のきっかけかは分からないが、隣席のヨシハル♀が、彼女に目を止めて言った。
「ハイ。久々に酔っ払いました。」
 ムーはまたしても、シアワセそうな微笑を満面に浮かべて答える。
「あー、ヤバい。何かアタシも、もう回ってきた。」
 K先輩とヨシハル♀のピッチに煽られたせいだろうか、私も予想外に早く、酔いが回ってきた。
「空きっ腹に飲んだからじゃない?」
 K先輩が心配そうに声をかけて下さる。
「というより、水分が足りなかったかも。今日、午後、全然お茶飲む暇がなかったから。」
 私が何気なく答えると、ほぼ同時に、ムーが立ち上がった。
「あ、いいよいいよ。こんどお姉さんが来た時に頼むから。」
 その背中に、私は慌てて声をかけたが、そう言い終わっていくらも経たないうちに、私の前には、お冷のタンブラーが置かれていた。
「ありがと、ムーちゃん。」
 いい子だなあ、と、酔いも手伝って、私はしみじみと思った。
 素直だし、周囲に気を遣うし、先輩を立てるし。
 まるで、アタゴロウみたいな奴だ。
 ムーはいつも、皆が退勤した後に一人で残って勉強していたりして、人一倍頑張っている。だが、いかんせん大人しく、自己主張しないので、職場の中ではどちらかと言えば目立たない方の部類だ。
 こんなにいい子なのに。みんなもっと、彼女の存在を認めてあげてもいいんじゃないだろうか。
 素直ないい子って、ある意味、報われないよね。
 ふと、家で待っているアタゴロウのことを思った。
 
 

(膝の上のアタゴロウ)
  
 
「あああ。可哀想なダメちゃん。」
 突然、騒ぎ出した私に、
「どうしたの?」
 K先輩が不審気な眼差しを向ける。
「可哀想なダメちゃん。この調子だと、きっと今日は、晩メシ抜きだわ。」
「駄目ですよ!猫山さん。ちゃんとご飯あげてください!!」
 一斉に湧きあがる大ブーイング。
「努力はする。でも、自信ない。」
「そんなこと言わずに、頑張ってください!」
 結論から言えば。
 ちゃんと、猫どもに、ご飯は食べさせましたよ。
 ついでに、その日は生協の配達日だったので、届いた食材を冷蔵庫にしまうこともした。
 そこで、力尽きた。
 自分でも心得ているので、無理はせず、すぐやらなければならないことだけを片付けると、さっさとパジャマを着て布団に潜りこんだ。
 そうして、三〜四時間ほども眠っただろうか。
 深夜、日付が変わった後に目が覚めた。
 だいたい、予定どおりである。とりあえず目が覚めたところで、猫トイレの掃除をし、お風呂に入って寝なおせばいい。
 ダメちゃんは、私の横で一緒に寝ていた。
 若い連中は、例によって「夜遊び」しているらしい。
 ガタガタガタ…と、何やら騒がしい音がする。
「うるさいなあ。」
 私がもそもそと起き上がると、ダメちゃんがぱっちりと目を開いて、時ならぬメシくれコールを叫び始めた。
 
 

  
 
 翌日。
 休憩室でお弁当を食べながら、一緒に休憩に入っていたヨシハル♀と異星人ムーに、私は昨夜の次第を語り聞かせていた。
「大丈夫だったからね。ちゃんと、猫たちに、ごはんはあげました。」
「良かったです〜。」
「ただねえ。その後、アタシ、力尽きて寝てたんだけど、目が覚めてみたら…。」
「え、何かあったんですか?」
「ウチさ、リビングと玄関の間にドアがあるでしょ。普段、そのドアは閉めてあるんだけど、目が覚めたら、いたのよね、アタゴロウが。扉の外に。」
「ええっ、じゃあ…」
「そう。閉め出しちゃってたの。」
「そんな。可哀想じゃないですか!!」
 そこへ、O女史がコンビニの袋を提げて、休憩室に入って来た。
「ああ、猫山さんちの猫の話?」
 O女史は自分のランチを広げながら、私達の会話に加わった。
「そういえば、今、猫山さんちって、猫、何匹いるの?ダメちゃんと、玉音ちゃんと…。」
「三匹。あと、アタゴロウ。」
「ふうん。」
 O女史は、記憶を確かめるようにしばし考えてから、才媛らしい、はきはきと明るい口調で、笑いながら言った。
「アタゴロウは、存在感薄いよね。」
「そんなことないよ!可愛いんだよ、アタゴロウ。素直で。」
 私は全面的に抗議した。話題はそのまま、別のことに移った。
 
 
 だが。
 小さな石つぶてに似た、O女史のその発言は、私の胸に大きな波紋を引き起こした。
 
 
 それならなぜ、昨夜、私は扉の外にいるアタゴロウの存在を忘れたのか——。