玉音ちゃんのこと

(2022年3月27日撮影)


 ずっと放置していたこのブログに、急に投稿する気になったのは、単に、記録を残すべきだと考えたからである。

 私自身のために。

 だから、この文章は、読み物として面白くあることを意図していない。読んで下さる方には、先にそのことをお詫びと共にお断りしておく。

 だが、もし、私が今後もこの記録を続けることができたなら、それは他の一部の人にとっても、有益なものになるかもしれない。もし、そうなれば嬉しい。玉音ちゃんのためにも。

 だから、簡単なものであっても、できる限り書き続けたいと、少なくとも今は思っている。

 

 玉音がFIVを発症した。

 私がそれを知ったのは、四月二十二日金曜日のことである。

 この日、玉音は歯科の専門病院で、全顎抜歯の手術を受けた。口内炎が悪化し、口の中に潰瘍のようなものができて、ご飯が食べられない状態になっていたためである。

 事前の血液検査で貧血を指摘されていた。全身状態が悪いから待合室で待機するようにと指示されたが、手術自体は一時間半ほどで無事に終わった。

 手術後に先生から説明を受けた。ほとんど全ての歯根が病変し、すでに何本かの歯が失われていたこと。外見上はまだしばらく保つと思われた犬歯も、抜いてみたら奥が腐っていたこと。潰瘍になっていたのは左下の奥歯付近であったが、実際には左上の奥歯がいちばん酷く、腐った部分が鼻腔付近まで達していたこと。

 歯を全部抜き、腐った組織を取り去り、傷口は縫合してある。だが、血小板が少ないために出血が止まりにくく、止血しては縫い、止血しては縫い、を繰り返したそうだ。

 続いて、手術直前の血液検査の結果について説明があった。

 やはり、極度の貧血だった。それも、赤血球・白血球・血小板、全ての値が極端に低かったのである。

「この子はFIV陽性だそうですね。もう、エイズ期に入っているんじゃないかと。」

 歯科の先生は淡々とおっしゃった。

 私は絶句した。

 

 正直に言うと、その時、私は「エイズ期」がどの段階を指すのか、はっきりと把握していなかった。FIVは感染直後の急性期の後、無症状キャリア期が何年も続き、その後、発症する子もいる。そこまでは分かっていた。だが、発症後に辿る経過については、それまで現実的に考えたことがなかったのである。

 家に帰ってからインターネットを検索し、発症後は「持続性全身性リンパ節症期」「エイズ関連症候群期」「後天性免疫不全症候群期」という経過を辿ることを確認した。この「後天性免疫不全症候群期」がいわゆる「エイズ期」である。だが、その時私が見たサイトがたまたま全て「後天性~」という表記を使っていたため、ここに至っても私は、玉音のステージが「エイズ関連症候群期」なのだと勝手に思い込んでいた。

 翌日になり、改めて色々なサイトを覗いてみて、ようやく「エイズ期」が「後天性免疫不全症候群期」であることを理解した。同時に、自分がそれを認めたくなかったのだということも自覚した。

後天性免疫不全症候群期」は、つまり、末期、ということなのだから。

 

 その数か月前。

 友人さくらと、たまたまFIVの話になったことがある。

「でもさ、正直なところ、私、実際に猫エイズが発症したって話、聞いたことがないのよね。」

 さくらは言った。

「確かに、そうだよね。そういうブログとかも、あんまり見ない気がする。」

 相槌を打ちながら、私は呑気に笑っていた。さくらは私よりずっと猫友も多いし、動物医療関係の知り合いも複数いるらしい。そのさくらが「聞いたことがない」というのだから、実際に、キャリアであっても発症するケースは非常に少ないのだろう。キャリアの子は大事にされるからむしろ長生きするという話も、他で聞いたことがある。

 玉音が発症することがあったとしても、まあ、少なく見積もっても十年は大丈夫だろう。十五年か、うまくすると、二十年近く長生きするかも。そのとき私は、何の根拠もなく勝手にそう考えていた。

 それが、たった七年で発症したのだ。

 

 以下、思い出せる限りで経過を書いてみる。

 

 事の発端は昨年の十二月、私が気まぐれに、玉音のフードを替えようとした時点に遡る。

 玉音の常食は「モグニャン」である。良いフードだし、玉音は特に不満もなく食べている様子であったが、そろそろフードローテーションを考えた方が良いのではないかと、ふと思い付いた。

 ずっと同じフードだと、いつか飽きるかもしれない。他に二、三種類、常食できるフードを確保しておいた方が良い。幸い玉音はあまり好き嫌いのない猫である。この辺りで一度、別のフードを挟もうか。

 と、いうことで、手始めに購入したのが、以前も与えたことのある「ファインペッツ」であった。

 ファインペッツを選んだのには理由がある。ファインペッツは通常食だが、尿路結石にも配慮されており、マグネシウム等の値が療法食並みに低いということを聞いていたからである。アタゴロウが盗み食いしても、他のフードよりは心配が少ないのではと思ったのだ。

 記録を見ると、そのときの購入分が自宅に届いたのが十二月の初旬。だが、そのときはまだ「モグニャン」が残っていたはずであるから、多分、実際にフードを切り替えたのは、年が明けた後だったのではないか。

 おそらく、どの猫でもどのフードでも同じだと思うが、開封したてのファインペッツを、玉音は凄い勢いで貪った。多分、新鮮で香りが良いからだろう。

 だが、そこに落とし穴があった。

 私がファインペッツに対して抱いている唯一の不満が、キブル(粒)である。モグニャンは小さな円筒形だが、ファインペッツは細かくて薄べったい手裏剣型をしている。全ライフステージ対応を謳ったフードゆえ仔猫が食べることを想定してこの形状なのかもしれないが、大人の猫にはむしろ食べにくいのではないか。現に、玉音がファインペッツを一気食いしながら、誤嚥しそうになったと思われる場面を、私は何度か目撃している。

「玉ちゃん、そんなに慌てないで。誰も盗らないからゆっくり食べなよ。」

 まあ、この一気食いも、最初の二、三日のことだろう。私の予想は当たり、数日すると玉音は普通にぱくぱくと食べるようになった。それに伴って「飲み込み損ね」の頻度もだいぶ減ったようであるが、それでも時折、びっくりしたように皿から飛びのいていたから、やはり食べにくい形状であるには違いないのだと思われた。

 そして、ある日。

 日付は覚えていない。ファインペッツを与え始めて一、二週間経った頃か。

 玉音が食べながら悲鳴を上げた。同時に、頭を振ったり身をよじったりしてもがき始めた。吐き出そうとしているように見えた。

 おそらく、玉音が丸呑みしたファインペッツのキブルが、喉に引っかかったのだ。

 私はなすすべもなく見守るだけで、正に肝が冷える思いであったが、幸いにもその“発作”は数分で治まった。おそらく、喉にひっかかったものが嚥下できたのだろう。その後は何事もなかったのだが、それをきっかけに、玉音はファインペッツを敬遠するようになった。

 仕方がない。またフードを替えよう。

 次のフードは、ちょうどアタゴロウの分の購入時期でもあったので、二匹揃って「ザナベレ」を食べさせることにした。アタゴロウには「ウリナリー」、玉音には「アダルトチキン」である。

 新たに封切った「ザナベレ・アダルトチキン」を、玉音は問題なく食べた。三月上旬のことである。

 だが。

 やがて「ザナベレ」も残し始めた。

 折よく、というのだろうか。その頃、すっかり忘れていた定期配送の「モグニャン」が届いた。宅急便が着いたのが四月一日。その後も数日は「ザナベレ」で粘ったのだが、どうにも食いつきが悪いので諦め、届いて間もない「モグニャン」の封を切った。

 玉音は「ファインペッツ」から「ザナベレ」に替えた後も、何度かドライフードを喉に引っかけていたようだ。いずれも最初のような大事にはならなかったが、食べている途中で突然飛び退ったり、前足で口の周りを拭うようなしぐさを見せたり、口の中に残ったフードを吐き出したりしていた。

「ザナベレ」はいつもの「モグニャン」と、キブルの形も大きさもほぼ同じである。それなのに、「ザナベレ」に替えた後も玉音がドライフードを喉に引っかけるというのは不可解であったが、逆にそうなると、玉音が「ザナベレ」を食べたがらないのは、食べにくいというより嗜好の問題なのかもしれない。その判断から「モグニャン」に戻したのだが、果たして初日、玉音は予想通り、「モグニャン」をぱくぱくと美味しそうに食べた。やっぱりそうだったのか、と、その時は納得した。結局、元の鞘に収まったのだと思った。

 だが、そうではなかった。

 玉音が「モグニャン」を積極的に食べなくなるまでに、たいした日にちはかからなかった。食べないわけではないが、大半食べ残す。しかも、やはり時々、飲み込み損ねているようなのだ。その後、アタゴロウの「ザナベレ・ウリナリー」を食べたりもしたが、やはり続かない。そしてついに、ウェットフード(黒缶)すら食べ残すようになった。

 いずれも、お腹は空いているのか、食べ始めはするのだが、ほんの少し食べたところで止めてしまう。止めるときには、必ず後退して皿から離れながら、口から食べ物をこぼす。食欲がないというより、飲み込みが困難なのではないか。それで途中で止めてしまうのではないか。

 最初にファインペッツを喉に引っかけたとき以来、頭の片隅にあったその疑いが決定的となったのは、三月二十二日の夜だった。

 玉音が、ウェットフードを一口食べて、悲鳴を上げたのである。

 

「先生、この子、食道炎なんじゃないかと思うんです。」

 翌日、玉音を連れて病院を訪れた私の推理はこうだった。一月下旬、例の“発作”のとき、玉音はファインペッツの手裏剣型のキブルを喉に引っかけ、そのとき、食道に傷がついた。そこが治りきらぬままに、何度も同様にフードを引っかけ、ついに食道炎になってしまった、と。

 ミツコ先生は私の説明を黙って聞いていたが、所詮は素人の憶測である。ひととおり聞くと、ただ冷静にこう言った。

「まあ、まず、体重を測りましょう。手を離して。」

 タイミングを見て一瞬だけ手を離した私の目にデジタルの数字は映らなかったが、先生はそれを見た途端、眉を寄せた。

「三・二キロ。痩せてますね。」

「ああ、やっぱり。何だか痩せたような気がしてました。やっぱり、食べてないから…。」

 先生は、唇を引き結んだまま、カルテのページを繰る。

「十二月の予防接種の時には、三・八キロあったんですよ、この子。それから三か月ですか。その間に、十パーセント以上減ってる。」

「そう言われると、そうですね。」

 痩せたなとは思っていたのだ。でも、三・八キロから三・二キロと言っても、私には「六百グラム」という程度の認識しかなかった。三か月で十パーセント以上、というのは、やはり獣医さんの視点だな、と、変なところで感心した。

「それに、熱もありますよ。三十九度以上ある。この子はいつも低めなんだけど。」

「え、熱もありますか。」

「毛もちょっとボサボサしてるでしょ。最近、グルーミングしているところを見ましたか?」

「いやあ、この子、いつも、あんまり見えるところにいないんで。」

 だが確かに、このところ、玉音のグルーミングを見た記憶がない。

「血液検査しましょう。いいですか。」

 どうやら、事態は私が考えていたような簡単なものではないようだった。私は急に不安に駆られながら、お願いします、と言った。

 先生は器具を取り出しながら、また小声でつぶやいた。

「それにしても、体重の減りが速すぎる。」

 

「貧血ですね。」

 開口一番、先生は私にそう告げた。

「あ、やっぱり。食べてないから…」

 先生は私の“言い訳”には耳を貸さず、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。下痢はしていないか、嘔吐はないか、水は飲んでいるか、走ったり遊んだりしているか、等々。

 実際のところ、私が自信をもって答えられるのは、食事と排泄のことくらいだった。もともと玉音は活動的な猫ではない。走っているところなんて、アタゴロウに絡まれて逃げるときくらいしか見たことがない。だが確かに、このところ、押し入れの外で寛いでいるところを、ほとんど見ないような。

 というより、最近になって、これまであまり顧みられていなかったキャットタワーのボックスがお気に召したようで、押し入れにいないときは、たいていその中に籠っているのだ。

「うーん。原因が分からない。」

 先生は頭を抱えた。

「これを見ると、腎臓とか肝臓の数値は悪くないんですよ。となると、消化器系のリンパ腫か…。」

「え、またリンパ腫ですか?」

「でも、下痢はしていないんですよね。」

「してません。」

 玉音は、便通だけは至って順調で、出すモノも常にしっとりコロコロなのである。

「あとは、うーん、甲状腺か。」

「でも、甲状腺機能亢進症って、むしろ活発になるんですよね。」

「まあ、そういう子が多いですね。」

 玉音の状態は活発にはほど遠い。私は違うと思った。先生も、本気でそう思ったわけではないようだった。

 だが、続いて出てきた病名に、私は驚愕した。

「それか――まさかと思うけど、FIPか。」

「え、FIPですか?」

 聞き違いかと思った。

「いや、年齢的にも、ほぼ考えられないと思うんだけど。可能性ゼロではないってことで。」

 だが、この全く予想外の病名が私に与えた衝撃は、他の全ての思考を完全に吹き飛ばしてしまっていた。

 FIP猫伝染性腹膜炎。詳しくは知らないが、保護活動に携わる人たちが、最も恐れている(らしい)、死に至る病――。

「でも…FIPって、今、お薬出てるんでしょう。」

「凄く高いけどね。効くかどうかも保証の限りじゃないし。」

 結局、その日は食道炎の治療も兼ねた粘膜保護剤とステロイドが八日分出た。なお、ステロイドが出た理由は、ひとつにはその時、玉音のアトピーが酷く、またもや首周りを派手に掻き壊していたためでもある。それに加え、

「骨髄を刺激して、血液を作る作用もありますから、ちょっとそこにも期待して。」

 私にとっての問題は、むしろ、粘膜保護剤の服用タイミングが「食前」だということだった。食前ということは、ごはんに混ぜるという手が使えないのだ。単体で飲ませるならと、錠剤ではなく、シリンジが使える粉薬(水に溶いて飲ませる)を選択したが、いずれにしても、これから毎日、朝一番に玉音を捕獲して投薬しなければならない。試練の八日間となることは容易に予測された。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、先生は最後に一言付け加えるのを忘れなかった。

「これで効かなかったら、FIPの検査をしましょう。」

 

 診察室を出る間際、私はふと、先日のさくらとの会話を思い出して、先生にこんな質問をした。

「そういえば、猫エイズって、実際に発症しちゃう子、どのくらいいるんですか?」

「完全室内飼いの子だと、ほとんど聞かないですね。お外の子だとそれなりにいますが。」

 この会話を交わしたことは、鮮明に覚えている。

 診察中にも私は、アトピーやら食道炎やらの「治りにくさ」について、FIVの影響があるのではないかと先生に質問していた。先生も、なくはない、といったような返事をしていた。

 つまりこの時点で、先生も私も、玉音のFIVを忘れていたわけではないのだ。

 だが、要するにいわゆる「うちの子に限って」という心理なのだろう。二人とも、発症の可能性については、完全に頭から排除してしまっていたのである。

 

 結果的にいえば、シリンジ投薬は全戦全勝だった。私の手に何本かの傷は残ったが、一度も失敗しなかった。

 ステロイドの方は、砕いて「ちゅーる」に混ぜて食べさせた。これも失敗はなかった。

 投薬の甲斐あって、シリンジ用の粉薬が終わるころには、玉音の体調はかなり回復した。投薬開始から二、三日後に、玉音がケージの最上段でグルーミングをしているのを見たとき、私は心の中で快哉を叫んだ。さらに、アトピーの方は、ステロイドの劇的な効果で、すっかりかゆみが治まったらしく、ほんの少しのカサブタを除けば、あとは毛が生えそろうのを待つばかりとなっていた。

 薬を飲ませるために玉音を押し入れに追い詰めて捕獲し、バスタオルで前脚ごと巻き込んで抱きかかえる。水に溶かした粉薬をシリンジで飲ませ、少量のちゅーるに混ぜ込んだステロイド剤を、指で口のまわりに塗り付けなめさせる。

 投薬の後、彼女が無抵抗なのをいいことに、私はしばらく、玉音の頭や顔周りを撫でて、滅多にできないスキンシップを楽しんだ。彼女も満更でもない顔をしている、と見えたのは、単に私の願望からくる思い込みだったのだろうか。

 

 とはいえ、食事の量は、元のレベルに戻っているとは言えなかった。通常の半分くらいだったろうか。

 痩せすぎも解消しない。背中を触ると背骨のゴツゴツが、はっきりと指に感じ取れる。

 そうしているうちに、次の通院日が来た。四月二日のことである。

「どうですか?」

「ちょっと元気になってきました。」

 確かに、前回よりはだいぶ元気だったのだ。が、それが裏目に出た。

「じゃ、体重測りますよ。手を離して。」

「あ、こら、玉ちゃん。逃げちゃだめ!」

 手を離せたのは、本当にほんの一瞬だった。獣医さんって、動体視力を求められる仕事だな、と、その瞬間、正にそう思ったのだ。

「三・〇。また痩せてる。」

 先生の口調に、鋭いものが加わった。

 今だから言うが、このときの計測は、実は誤測だったのではないかと思う。私が完全に手を離しきれていなかったか、私が手を離したタイミングと、先生が数字を読み取ったタイミングがずれていたか、それこそ動体視力の問題だったのではないかと。

 薬はまだ残っていたのでその日は診察だけで、三日後に再診することになった。

「とにかく食べさせてください。何でもいいから。」

と、このときはかなり緊迫したムードであったのだが。

 三日後。

「三・三キロ。あれ、戻ってる。」

 やっぱり誤測だったのかな?と、おそらく先生も思っていただろうが、お互い声には出さず。

「まあ、ともあれ良かった。薬が効いたんですね。じゃああとは、だんだんに減らして、切っていきましょう。」

 結局、急激に痩せたことと、貧血の原因は曖昧なままだったが、元気になるならそれで良し。やはり食道炎で食べられなかったせいなのだろう、と自分なりに納得はした。

 多分、先生の方は、本心から納得してはいなかったのだろうけれど。

 

 この間の玉音の食事がどんな内容だったか、すでに記憶が定かでない。

 三月二十三日の最初の通院の前から、ちゅーるは使っていたと思う。投薬が始まった直後は、朝ごはん(投薬時)にちゅーるを一本か二本と、多分、ドライフードも食べさせていた。ドライフードは、「モグニャン」かアタゴロウの「ザナベレ・ウリナリー」だったはずだ。夜は「黒缶」とドライフード。ドライフードは、むしろ玉音自身が食べたがったように記憶している。結果的には大して食べないのだが。

 そこからだんだんに、「ちゅーるのみ」に移行していくのだが、その過程はあやふやである。多分、「黒缶」をほとんど食べなくなって、まずそれを、ちゅーるに置き換えたのではないか。

 ドライフードは、状況からすれば食べられないはずなのだが、玉音自身が、気が付くとアタゴロウの食べ残した皿に頭を突っ込んでいたりするので、食べたいのならと出してやっていたような気がする。玉音も、一口か二口は、口をつけていたように思う。

 それがやがて、黒缶もドライフードも姿を消し、ちゅーるのみ、それも強制給餌(ぬるま湯で延ばしたものをシリンジで飲ませる。後半は猫ミルクも混ぜていた。)に移行する。強制給餌に踏み切ったのは、おそらく次の通院の頃だと思うが、前だったか後だったか。

 いずれにしても、どれも「記憶」というより「推測」である。今となっては、何一つ、自信を持って証言できることはない。

 だが、一つだけ確かなことがある。

 私は、玉音が食べるところ・食べようとするところを、私なりに観察していた。そして、一つの結論に至っていた。

 食欲はあるのだ。それは間違いない。

 これはもしかして、口の中に原因があるのではないか。

 何がきっかけで、それが確信に変わったのか。残念ながらその肝心のところが思い出せない。だが、その時期は分かる。次の通院日の前日、私は最初にミツコ先生に言うべき台詞を、頭の中で何度も反芻していた。

「先生、この子、口の中に何かできてるんだと思うんです。」

 

 口の中、という疑いは、実は当初からあった。なので、最初の診察のときにも、一応、口を診てもらっていた。

 ただし、その時は、玉音の方が頑として口を開けなかったので、唇を捲って歯茎を見ただけだった。歯茎がいくらか赤くなっているのが見えたが、

「食べられないほどのレベルではないでしょう。」

ということで、その場はやり過ごされていたものである。

 だが、今回は、私には確信があった。何としても口の中を診てもらう。それこそ、力づくでも。

 実際、力づくであった。

 私が腕を交差させて、片手で両前脚、もう一方の手で両後脚をがっしりと握り、診察台に押し付ける。先生はもがいて頭を振り回す玉音の後頭部を片手で押さえつけ、もう一方の手で、噛みつこうとする犬歯を避けながら、無理やり口をこじ開ける。

 静かながら、壮絶な闘いであった。

 しかし、ビンゴ!だったのである。

「あ、ここだ。分かりますか?潰瘍になってる。」

 残念ながら、私は動体視力に自信がない。とはいえ、一瞬だがはっきりと見えた。

 玉音の左下顎の、ずっと奥の方の歯茎に、赤黒く変色した部分がある。

これはひどい。相当痛かったでしょう。食べられないわけだ。」

「軟らかいものでも、その潰瘍の部分に入っちゃったんですね。」

「沁みたんでしょう。きっと。」

 亡きダメちゃんも、若い頃から口内炎で歯はボロボロだった。亡くなった時にはほとんど犬歯しか残っていなかったが、それでも、これほど酷いことにはならなかった。

「ここまできたら、全部抜くしかないでしょうね。」

 ダメちゃんも、いずれは全顎抜歯になるかもと言われていた。実際には、抜歯する前に自然に抜けてしまったわけだが。

「歯がなくても、猫は食べられるんですよね。」

「それは全然大丈夫。」

 歯がなくても食べられる、ということは、ダメちゃんの時に何度も聞いていた。現に、彼は歯がなくても普通に食べていた。

 このため、私は「歯を抜く」ことを、軽く考えていた。

「じゃあ、抜きます。」

「ここでは抜けませんよ。歯科の専門に行ってもらわないと。あと、結構お金かかります。」

「どのくらいですか?」

「うーん、三十万くらいかな。」

 飼い主としては、そこはビビりどころだったのではないかと思うのだが、私はそのとき、

(あ、そんなもんか。)

と、自然に受け止めてしまっていた。

 別に私がお金持ちなわけではない。その前にFIP疑惑をチラつかせられていたおかげで、GS治療の百万よりは安い、と思ってしまっただけである。

 

 このあと、ミツコ先生に紹介された歯科病院に、私は玉音を連れていくわけだが、幸運なことに、歯科病院も何とか自転車で行ける範囲内であった。

「完全予約制だから、まず電話してみて。」

 先生は、歯科病院の電話番号を私に手渡しながら言った。

「紹介状とか要るんですか?」

「一般診療もやってるから大丈夫。あと、日曜休診だから、今日電話した方がいいですよ。診療時間外でも、病院によっては電話に出てくれますから。」

「分かりました。じゃあ、家に帰ったら電話してみます。」

 歯科病院は電話に出てくれた。そして、午後の診療に来てくださいと言ってくれた。

 四月十六日土曜日のことである。

(つづく)

 

(最初の血液検査の結果。2022年3月23日現在)

 

 追記。この原稿では、当時私が考えたとおりに「ファインペッツのキブルが食道を傷付け、その傷がもとで食道炎になった」という説明をしているが、口の中に潰瘍が見付かった以上、その推理は白紙に戻すべきだと今は考えている。最初から、キブルが口腔内の患部に入ってしまったのだと考えても、全ての説明が成り立つ。この点について、特に獣医師に確認はしていないが、私の推理が、ファインペッツに対する「濡れ衣」である可能性も大いに考えられるため、ここで訂正しておく。