幻
明け方、夢を見た。
ムムが元気に走り回っていた。それも、なぜか高いところばかり。
夢の中の私は、それが夢だと知っていた。
だって、ムムは死んだのだから。
だが、夢の中の私は、それと知りながら、夢のムムと戯れていた。
嬉しかった。
近くに、誰かがいた。
姉だったような気もするし、友人の一人だったかもしれない。
そのひとは、夢のムムと戯れる私を見ていた。
そのひとが、私と同じムムを見ていたのか、幻と戯れる私をだけを見ていたのかは、分からない。
そのひとが言った。
「ムムちゃんは、待っていれば帰って来るんだね。」
ミミはちっとも帰ってこないけどね。
夢の中の私は、胸の中でひとりごちた。
同時に、もう一人の私の声が、夢の中の私の意識の中に響いていた。
それは、私がミミを忘れたからだ。
だったら、私はやがて、ムムを忘れるんだろうか。
そう考えたところで、目が覚めた。
目が覚めて、また泣いた。
私の布団の横に、座布団と毛布を重ねて、固くなったムムの亡骸がいた。
待っていても、ムムはもう帰ってこないのだ。
もう、泣きたくない。
泣くことは、苦しい。
頭が痛い。
目尻が、鼻が痛い。
悶えても身体の中から出て行かないものと闘うのは、苦しい。
人見知りで、来客があると隠れてしまうムムは、「幻の猫」と言われていた。
「本当に、幻の猫になっちゃったなあ」
と、昨夜、私は友人へのメールに書いた。
「ムムちゃんと、もっと仲良くしたかったな。」
別の友人が、書き送ってきた。
何度も我が家に来ているのに、友人たちは、ムムにちらりとしか触ったことがないのだ。
私以外の人間にとって、ムムはまだまだ「幻の猫」だった。
だが。
昨日の朝、私は病院で意外なことを聞いていた。
ムムは、同じ部屋に人がいると、ゴロゴロいっていたと言う。
同じ人間が何かしようとすると、怯えて固くなっていたというのに。
ムムは、淋しかったのだ。
生まれた時から、ひとりぼっちになったことなんて、なかった。
いつも近くに、可愛がってくれる人間か、仲間の猫がいた。
その子が、ひとりぼっち、病院のケージの中で、どんな思いを味わっていたことか。
傷の痛み。病の苦しさ。
それよりも、何よりも。
どれほどあの子は、おうちに帰りたかったことだろう。
昨日。
午前中、昼と、ムムの食事に付き添って。
夕方4時。休診の時間帯だが、食事に立ち会わせてもらおうと、三たび、病院を訪れた。
もう限界です。おうちに帰しましょう。
先生はいきなりおっしゃった。
もう、私が近付いただけで、緊張で唾液が流れ出てくるんです。
これでは、流し込んでも何も食べられません。
おうちで、おかあさんがごはんを食べさせてあげてください、と。
チューブは鼻に入ったまま。シリンジで流し込む方法は、これまで見ていて、だいたい理解していた。
おうちに帰らなければ、この子は食べられない。
おうちで落ち着いて、ごはんが食べられるようになれば、この子は頑張れる。
もっと酷い状態から、持ち直した子もいるんだから。
そう、頑張れる。
膿はもう出ていないのだから。
食べて、体力さえつけば。
手に取るように、はっきりと回復への道のりが、見える気がした。
だが、幻だった。
おうちに着いて。
いつになく、ムムはキャリーの中で焦って動き回っていた。
早く開けて、と、言わんばかり。
でも、自力で出られるのだろうか、と、少々いぶかしがりながら、キャリーの天井を開けた。
ムムは、自分で飛び出した。
そして、おぼつかない足取りで、いつも隠れるマットレスの陰に向かった。
隙間に潜ろうとして、潜れない。
エリザベスカラーが引っ掛かったのではなかった。ほんの入り口で立ち止まったまま、ムムは力尽きて、滑るように横倒しに倒れた。
それが、ムムの最期だった。
おうちに帰りたかったのだ。
どうしても、おうちに帰りたかったのだ。
おうちで死にたかったのだ。
そして、猫らしく、身を隠して死にたかったのだ。
そのために、命を振りしぼって、生き永らえていたのだ。
「元気にならないと、おうちに帰れないんだよ。」
と、私が言ったから。
ムムの時が止まった。
一緒に、何もかもが止まってしまった。
いいや、時間は止まらなかった。
夜が来た。
ダメは怒っていた。
猫生でまだ一度しか怒ったことのなかった子が、ずっと怒り続けている。
ムムのしっぽのにおいを嗅ぎ、遺体に向かって唸る。
あるいは、あらぬ方を向いて、鳴きわめき、「シャー」を言う。
何故、怒るの?
何に怒っているの?
そういえば、これまでの猫生で彼が怒った唯一の事件。それは、仔猫のムムが我が家にやってきたときだった。
もう寝ようね、といって、蛍光灯を消した。
枕元灯のほの暗い灯りの中に、ダメが落ち着かなく歩き回っているのが見えた。
ダメは、ますます怒り狂った。
ムムの亡骸を覗き込み、また離れ、ひっきりなしに唸り、喚き、シャーシャー言う。
いったい、何を見ているの?ダメちゃん。
何か禍々しいものを、彼は見ているのだろうか。
死とは結局、忌まわしいものなのか。
その感覚は、正しい。それがたとえ愛する者の死であっても。
彼はひょっとしたら、ムムを連れ去ろうとしている「何か」を見ていたのかもしれない。
その「何か」に、激しく怒っていたのかもしれない。
猫は時々、人間には見えないものを見ている。
だがそれは結局、見えない方がいいものなのかもしれない。
蛍光灯をつけた。
ダメは幾分落ち着き、私の枕の横に座った。
ただし、いつもとは逆側に。決して座らなかった側に。
ムムの亡骸とは、反対側に。
そして、あの夢が訪れた。
猫の耳は、普段は前を向いているが、死ぬと横を向く。
ムムの耳は、いつの間にか横を向いていた。
いつの間にか、死んだ猫の顔になっていた。
ムムの魂は、もうここにはいないのだ。
夜のうちに、誰かが扉の向こうへ、連れて行ってしまったのだ。
朝の風に窓を開けて、ムムに外を眺めさせてあげた。
小鳥が鳴いている。
きっとムムは、小鳥を熱心に見ている。
台所で洗い物をしながら、和室の襖越しに、横たわるムムを見る。
あの扉は、まだ開いている。
ミミのときと同じだ。
だが、それが閉まる日が、いつかやってくる。
扉に隔てられ、いつか、離れ離れに、別の空間に住む者同士となってしまう。
ミミのときのように。
でもまだ、扉は開いている。
ムムの存在は、私のすぐそばに生々しい。
忘れてしまうことが、怖い。
ムムが遠くに行ってしまうことが、怖い。
忘れることに罪悪感を覚えなくなることが、怖い。
たった3年。いや、2年と11カ月足らず。
ミミと一緒に過ごした時間にさえ、及ばない。
もしかしたら、私の生涯で、一番付き合いの短い猫になってしまうかもしれない。
そうしたら、やはりいつか、ムムは「幻の猫」になってしまうのだろうか。
忘れないために、今のうちに、全てを反芻し、記憶に刻んでおかなければ、と、思う。
でも、思い出すと、泣いてしまう。
もう、泣きたくない。泣くことは苦しい。
忘れることの優しいまやかしに逃げたい、私もそこにいるのだ。
そういえば、夢の中で、私はムムの体に触れたか、定かではない。
体温や手触りの生々しい記憶は、夢のそれにはなかったのだ。
幻、とは、そういうものなのだろうか。
夢の中で、幻のムムと戯れた私も幻であり、ミミを忘れたことを糾弾した私も、幻である。
はかないのは、手にふれられぬ幻であるのか。
それとも、今、手の中にある、あたたかく重い命であるのか。
すっかり甘ったれになった、ダメの寝息が聞こえている。
私の冷蔵庫には、3年を経て、ミミの皮下補液の残りがそのまま眠っていた。
深い意味は、なかった。
ただ何となく、捨てられなかっただけ。
そして、深い意味もなく、今朝、私はそれを捨てた。
液は腐りもせず、漏れもせず、おそらく、量もほとんど減っておらず、一瞬、私は、今からその袋の口に注射針を突き刺してシリンジに吸い上げるような、そんな錯覚に襲われた。
言うまでもなく、それは錯覚だった。