クチナシの季節
このごろ、考え事をしながら歩いていると、ふと、クチナシの香りに行き当たる。
自分が考え事をしている、ということにさえ気付かないほどぼんやりと。考え事というより、物想い、とでも言った方が良いのだろうか。とりとめのない思いにとらわれつつ、何気なく角を曲がったとたんに、あの独特の甘い香りが鼻腔に流れ込んでくる。
ああ、クチナシの季節なんだ、と、その都度、思う。
それはある意味、現実に引き戻される感覚でもある。
香りに触れて、今更のように気付く。自分は今、周囲のことに全く無関心なまま歩いていたと。周囲の景色や、季節の移ろいや、人々の動き。そういったものをすっかり忘れて、あらぬことに気を取られていた、と。
その、あらぬこと、とは、たいてい、ムムのことである。
ムムが亡くなって、昨日で一年。
その節目の意識から、このところ、半ば義務的に、ムムの思い出を辿ることが多くなっている。
クチナシの香りに、ふと我に帰り、自分がまたムムのことを考えていたことに気付く。
一年前のあの日、クチナシは香っていただろうか。
記憶にない。
忘れたのかもしれない。あるいは、最初から意識していなかっただけなのかもしれない。
一年という時間を、長いと感じるのか、短いと感じるのか。
それすら、私には判断がつかないでいる。
何だか、何もかもが、夢の中の出来事のように思えるのだ。
病院に通ったことも。
退院したムムが亡くなったことも。
その後、ダメと二人きりで過ごした半年間も。
新しい猫をあれこれと探したことも。山梨に行ったことさえ。
今の私のこの漠然とした「考え事」は、それらすべてが夢でなかったことを、自分に説明する作業であるような気がする。
そして。
ぼんやりと思考停止している私に、ムムの死を言い聞かせるもうひとりの私は、冷ややかな目でじっと観察している。
ムムの死を意識した私が、どれだけ胸を痛めて泣くのかを。
だが、私は泣かない。
時折、胸の奥で涙の塊のようなものが盛り上がってくるのを感じることはあるが、それが眸の外に溢れだすことはない。盛り上がった水面が波となって崩れ落ちることはない。
思考停止する私は、それでも、知っているからだ。
それが、本物の悲しみではないことを。
それは追憶に導かれた感傷に過ぎない。
感傷の涙を彼女に手向ける花とすることを是としない。それは最後まで良い飼い主になれなかった私の、彼女に対するせめてもの礼儀であり、けじめでもある。
都会の暮らしは、自分で意識している以上に、季節の感覚を奪っていく。
スーパーで買い求める花束の中には、一年中、同じ花が鮮やかな色合いを競い合っている。人工灯に照らされたマンションのリビングに飾るには、そんな花の方が、むしろ都合が良い。華やかで、日持ちがして、あまり香りのない花。限られたスペースに収まる、小さな花瓶にも生け易い花。猫たちの骨壷に供える花も、気付けばそんな基準で選ぶようになっていた。
トルコききょうは、本来、いつ咲く花なのだろう。
リビングに飾る花に、トルコききょうを選ばなくなって久しい。猫を「酔わせる」効果がある花だと聞いてから、意識的に避けるようになったわけだが、我が家の猫の中で、トルコききょうに反応したのはムムだけである。
一昨日、花瓶の花を生け替えるにあたり、ふと思いついて、久々にトルコききょうを加えてみた。
トルコききょうが「またたび」のようなものであるなら、それはムムの好物とも言えるのではないか。
ムムの骨壷側に寄せるようにして、花瓶代わりのタンブラーにトルコききょうを挿す。
ムムはこの花の匂いを嗅いだのだろうか。人間にはほとんど感じない匂いを。あるいは、人間にとっては、ほとんど季節と無関係になってしまった匂いを。
かつて、実家でジンが亡くなった時、棺のダンボールの中に、庭からローズマリーを切ってきてたくさん入れてあげた。ローズマリーが花をつけている季節だった。棺の中がローズマリーの芳しい香りで満たされ、だがその後、「お弁当」に持たせてあげた煮干しの匂いで、せっかくの芳香が帳消しになったことを覚えている。
思えば、ミミにもムムにも、そうした「香り」や「季節」の思い出がない。都会のマンションの中で飼われていた猫ゆえに、それは仕方のないことなのかもしれないけれど。
人間の五感の中で、記憶と最も密接に結びつくのは嗅覚だという。
それはまた、感性に直接訴えかけるものでもある。香りにより惹起される感覚の記憶は、追憶を超えた生々しい感情を胸の中に掻きたてる。
香りの記憶を持たないから、私にとって、ムムの死の悲しみは追憶の域を出ることができないのか。それは、ムムと過ごした日々を季節ごと受け止める感性が、私の中に不足していた故の味気なさなのか。
どうしたら、もっと痛みを感じることができるのだろう。
彼女の死は、夢ではない。彼女の生は、幻ではない。
生き生きと血が通う、匂いも、音も、重さも、ぬくもりも、確かに存在していたはずだ。
それは確かに、あまりにも短いものではあったけれど。
ムムを失った翌朝は、小雨が降るか降らないかという、曇り空だった。
和室の掃き出し窓の前に、座布団と毛布を重ねて、その曇り空を眺めるようにムムが横たわっていた。
鳥の声がした。
ムムは鳥を見ている、と、思った。
そんな最も夢に近い光景が、最も生々しく、私の中に残っている。
あれが雨の朝であったなら、雨の匂いが、私の記憶に留まっていただろうに。
長いこと、クチナシの香りが、今ひとつ好きになれなかった。
嫌な匂いだとまでは思わなかったけれど、あの強い香りの中にけだるく漂う蠱惑的な甘さに、何か違和感のようなものを拭い去れずにいた。
だが、大人になるにつれ、その甘さが許せるようになってきた。
短い花の季節。宵闇の中、はっとするほど白い花弁から立ち上る濃厚な香りは、甘さの中に、何か静謐な悲しみを帯びているような気がする。
悲しい時に、悲しいと言わない。だが、悲しみを隠そうとはしない。
諦念、と言えばいくらか近いだろうか。優しさに変わるギリギリの線で踏みとどまっている、孤高の悲しみの佇まい。
多分、悲しみという感情は、非常に閉ざされたあくまでプライベートなもので、芯の部分では、決して誰とも分かち合うことはないからこそ、それは悲しみなのだ。
そんなクチナシの香りは、雨が降る直前の空に似ている。
あの夜、クチナシはどこかで香っていたはずだ。
だが、私の窓に、それは届かなかった。
私は私で泣き、ダメはダメで、ムムの亡骸の匂いを嗅いでは、怒ったように唸り声を上げていた。
同じ部屋の中で、同じ死に直面しながら、私たちはそれぞれに、自分の悲しみとだけ向き合っていたのだった。
あの夜、雨は降っただろうか。それすらも、もうはっきり覚えていない。
ダメは覚えているのだろうか。
あの夜のことを。
今の私たちの生活は、私とダメとアタゴロウと、ずっと昔からそうであったように、ごく当たり前に日々が過ぎて行く。
だが、私には分かる。
ダメがいちばん好きなのは、やはりムムなのだ。
彼と話ができたら、と、時折、切実に思う。
訊いてみたいのだ。ムムを失った痛手を、彼が今、どう感じているのかを。
猫の情緒は人間と同じレベルであると、私は信じる。そうであるなら、ムムの死は、私にとってより、むしろ、彼にとって大きな打撃であったはずだ。
だが、彼は何も言わない。何事もなかったかのように、淡々と今日を生きている。
過去は振り返らない。
先のことは案じない。
現在しか見ないこと。それが、猫をはじめ、人間以外の動物たちの強さの理由なのかもしれない。
だが、人間はやはり、過去が欲しい。
思い出より生々しい、追憶より立体的な、記憶の確かな手ごたえが欲しいのだ。それが立ち上がれぬほどの痛みを伴うものであったとしても。
それは、何のためだろう。
私には分からない。
人間であるから。それだけしか、答えるべき言葉を知らない。
一年前に怖れたこと。
ムムの記憶が、薄れて消えてしまうこと。
彼女と過ごした日々の手ごたえが、記号化された思い出に変わってしまうこと。
結局、私は今も、それを怖れるがゆえに、ムムの記憶を手当たり次第に引っ張り出して触ろうとしている。それが供養となるのかどうかは分からないまま。
だが、一つだけ、あのときとは違う思いがある。
記憶は結局、消えるのだ。人間は忘れる。それは罪であるかもしれないが、だとしたら、それは避けて通れない罪なのだ。
生の輝きをそのままに保った思い出など、有り得ない。
押し花の花びらの色は、生花のそれではない。ポプリに残した花の香りは、生きて咲いていたときのそれとは、似て非なるものだ。
同じように。
あれから一年経った今、私が反芻するムムの記憶は、思い出の思い出であり、追憶の追憶だ。今から一年後の私はきっと、ムムを失って一年目の自分が、こんな気持ちでいたことを思い出して、その延長線上に、ムムを失った翌朝の曇り空を見るはずだ。
そして、その曇り空は、多分、あの日のそれと同じ色ではない。
真実の過去は、幾重にも重ねられた追憶のヴェールの中に埋もれ、もう決して触ることはできない。そのヴェールの頼りない手ごたえだけが、人間の手にすることのできる過去なのだ。
だが、もしかしたら――。
そのヴェールを突き抜けて、真実の過去に触れる、奇跡のような一瞬。
それが、香りにより呼び覚まされる感覚の記憶、なのかもしれない。
嗅覚が、人間が野性と決別したことにより、最も著しく失った感覚であることは、偶然だろうか。
来年の私は、クチナシの香りに、今の感傷を甦らせることができるのだろうか。
それは、来年になってみないと分からない。
だが、これだけは自分に言っておきたいと思う。
そうやって甦らせた感傷の涙を、私は決して、ムムに手向けない。その涙は、忘れることによって彼女の生と決別した、私の罪悪感に注ぐものだ。
ごめんね、ムム。
今の私は、今目の前にいる、二匹ばかりを見ている。できるなら、過去を振り返るより、今、命ある者たちとの時間を、移ろいゆく季節ごと記憶に刻みつけたいと思う。
だから、あなたを忘れない、という、約束はできない。
でもまだ、さよならは言いたくない。
今日、ムムを供養していただいたお寺を訪れた。
誰もいない本堂に、小さな千体地蔵尊を従えて、本尊の阿弥陀如来像が、静かに灯りの中に浮かび上がっていた。
ご本尊の背後を守護する千体地蔵尊の金色が、まばゆいばかりに見えた。
ミミとムムはあちら側にいるのだ、と、思った。現し身の人間には手の届かない世界に。
その私の想像する死後の世界は、何もかもが柔らかな光を含む、季節のない常春の原である。あの一面の金色が、それに似ていた。
ミミとムムをよろしくお願いします、と、ご本尊様にお願いして、本堂を出た。
境内の「犬猫供養碑」には、イチジクの枝が覆いかぶさるように茂っていた。枝には、まだ小さな果実が、数え切れないほど実っていた。
子どものころ、イチジクとヤツデの見分けが分からなかった私は、ご近所のイチジクの木には実がなるのに、我が家のヤツデにはなぜ、あの果実がつかないのか、不可解に思ったものだった。そんなことを、思いだした。
都会にも、季節の息吹はあるのだ。
梅雨の曇り空から、にわか雨がぱらぱらと降っていた。