プリザーブドフラワー
朝。
起きて布団をたたむ。
ダメが周囲を歩きまわりながら、「メシ!メシ!」と鳴きわめいている。
いつでもこうして私を起こすのはダメの役目で、要領のいいムムは、私が布団をたたみ始めるころになって、ようやく朝のご挨拶にやってくる。
だが、今朝は、来ない。
ああ、ムムはいないんだな、と、忘れていたわけではないが再確認する。
朝食を取りながら、キャットタワーのてっぺんに目をやる。
出勤前に、奥の部屋のオープンラックの最上段をチェックする。
ムムは、いない。
いないことは分かっているのに、分かっていながら、やはりいないことを確認する。
ムムはいないのだ、と、胸の中でつぶやいてみる。
涙が出そうになる。
涙が出そうになることを確認し、出そうになった涙が止まることを確認する。
通勤のバスの中で、ムムのことを考える。
また涙が出そうになる。
泣いちゃいけない。仕事に行くんだから。
涙はちゃんと止まる。出る前に止まる。
出勤して一番に、いつも一緒に仕事をしている後輩に会った。
「昨日はごめんね。」
ごく簡単に、挨拶する。
「いいえ〜。」
彼女は知らなかったのだろうか。にっこり笑って、明るく返事を返してくれた。
そこから、日常が戻ってきた。
天竜いちごさんが、ムムの絵を描いてくれた。
その表情が、あまりにも本物そっくりで、ドキリとした。
ムムは本当にこんな目をする。私が猫トイレの掃除をしていると、いつも私のそばに来て、こんな目で私を見て、甘えた。
思わず涙が出て、こぼれる前に止まった。
天竜さんと、もう一人の同僚が、「ムムちゃんに」と、小さなプリザーブドフラワーをくれた。
たくさんの人に、慰め、励ましてもらった。
素直に、嬉しいと思った。
涙は出ない。
人に訊かれたら、とても辛いだろうと思ったのに。普通に皆と話ができる自分がいる。
私は笑っている。冗談を言っている。
来月の仕事の心配をしている。
昼休みになれば、弁当屋のメニューに茶々を入れながら、それでも美味しく食べている。
問われれば、ムムの病気の説明もする。
仕事の合間、今ごろダメちゃんは寝ているだろうな、と思う。
ごく普通の生活。
ただ脈々と続いている日常。
何も変わったことはない。
ただ、ムムがいないだけ。
ムムは死んだのではない。消えたのだ。
私の生活から。
あの二日間は、この脈々と続く日常の中に、唐突に開いたクレバスに過ぎない。
そのクレバスにムムは落ちて、そのまま消えてしまった。
家に帰る。
いつものとおり、ダメが私の横をすり抜け、玄関に向かって突進する。
いつもなら、きちんとお座りして待っているムムの頭を撫でて挨拶するのが、私の帰宅の儀式だ。でもムムはいない。
振り返って、玄関の冷たいタイルの上でゴロゴロするダメを見る。
ダメが引き返してくるのを待つ。戻ってきた彼の頭を、するりと撫でる。
ダメに夕食を出す
いつもならムムが食事している場所に、私が腰を下ろしている。
ダメの食事に付き合いながら、ムムのことを思い出してみる。
涙は、出ない。
ただ、静かに胸が締め付けられる感じがする。
その、胸が締め付けられる感覚を、確認する。
いつの間にか私は、ムムの不在ではなく、ムムの不在に胸を痛める自分を、確認するようになっている。
忘れていられるのだ。
それなのに私は、わざわざ探し求めて記憶の中に降りて行き、そこからなるべく生々しい、胸の痛みを拾ってくる。
“苦しみを忘れるのは、罪ではありません。人の体は、そう出来ています。”
ブログを読んだ先輩が、そんなメールをくれた。
多分、私は、簡単に忘れる人間になるのが嫌なのだ。
否、簡単に忘れる人間であることを認めるのが嫌なのだ。
私は何をしているのだろう。
書くことが、すり替えの作業であることを、私は知っている。
生の感情を、赤裸々に書くこと。
それはあらゆる物書きが痛切に求めることで、そして、物書きである以上、決してできないことだ。
私は物書きではないけれど。
だが、自分のために書くといいながら、今この瞬間も、やはり読み手を想定していることは事実だ。
私が綴る私の「感情」は、生身の私のそれではなく、私が描くムムは、生きていた生身の彼女の姿ではない。
それは、作られた物語に過ぎない。
同じように。
止まってしまった時間を反芻する作業は、それをフィクションにすり替えて、確定する作業に過ぎない。
プリザーブドフラワーの鮮やかな色彩が、生花の色ではないように。
私のムムは、一体どこにいるのか。
私のブログの中のムムは、本物の彼女をモデルに、私が創作したキャラクターだ。
本物のムムを知る人間は、世界中に私しかいない。
その私が必死に繋ぎとめようとする彼女の思い出が、思い出すごとに、記号化されたフィクションへと変わっていくのに、生身の彼女を知らない天竜さんの絵が、一瞬の真実を繋ぎとめるのは、なぜなのか。
ムム。私のムム。
私だけのムム。
ムムは消えてしまった。たくさんの思い出を残して。
思い出なんかいらない。日常の中にあなたがいて欲しい。
真実のあなたにいて欲しい。
あの目で、あの表情で、私を見上げる、その一瞬が、たまらなく欲しい。
ダメは夕食後、いつものとおりに水を飲み、トイレに入り、キッチンマットの上に転がってグルーミングを始めた。
私もいつものとおり、猫トイレの掃除を始めた。
ムムは、来ない。
いつも傍らに来て甘えた、ムムの姿を一生懸命思い描こうとして、ふと手が止まった。
「ムム」
無意識のうちに、声に出して呼んでいた。
そのとき。
ニャア、と、答える声がした。
キッチンマットの上にいたダメが、まっすぐに歩いて来て、猫トイレの前の床に座った私の膝に、もたれるようにぴったりと体をよせてきた。
ダメの体のあたたかさが、例えようもない現実味をもって、私の脚に伝わってきた。
それこそ物語のようで、だがこれは、紛れもなく本当の話である。
ありがとう、天竜さん。大切にします。