幸福な猫飼い


  
  
 このところ、アタゴロウとよくやる「あそび」がある。
 実際には、遊びというほどのものでもない。私が畳やクッションの上に寝転んでいると、アタゴロウがやってきて、私の頭にじゃれつくのである。
 私も寝たまま、腕を伸ばして、彼の体をいじりまわすので、多分、この状態を「じゃれ合っている」と言うのであろう。
 じゃれ合っていると、ご多分にもれず、手を抱え込まれて蹴られたり、噛みつかれたりするのだが、この点、アタゴロウは安全な猫である。ちゃんと加減をわきまえている。
「痛いぞ、お前。」 
 甘噛みと呼ぶには少々強すぎるくらいの噛み方なのだが、怪我をするほどではない。キックも同様で、こちらが気をつけて爪を切ってやってさえいれば、全て「あそび」の範囲内で済む。ついでに言えば、その爪を切る時も、膝に抱え込んで脚を掴むと、ゴロゴロ言って喜ぶのだから、何とも扱い易い猫ではある。
(可愛い奴め。)
 頭のてっぺんに猫の脇腹を感じながら、ほのぼのとシアワセな気持ちになる。
(犬みたいな奴だな。)
 猫にしては、素直に人間に甘え過ぎる気もする。そういう意味では、少々モノ足りなさを感じてしまうことも否めないのだが。
 それにしても。
(そういえば、こんな経験、初めてじゃないか…!?)
 
 
 そう。
 私の猫飼い歴も20年近くなるが、こんなふうに、猫とじゃれ合って遊ぶことなど、これまで一度も、なかった。
 私を命がけで愛しているダメちゃんでさえ、私が顔を近付けると反射的に逃げる。スキンシップに関しては、未だに一部非解禁の状態なのだ。
 実際に猫を飼い始める前には、猫飼いの友人たちに話を聞いて、その濃密なスキンシップに、憧れを抱いていたものだった。猫と一緒にお風呂に入る。猫とひとつ布団で寝る。そして、友人さくらから聞いた、「目が覚めたら、猫とおでこをくっつけ合ったまま、うたた寝していた」という話――。
 そこで、はっと気が付いた。
 もしかしたら。
 もしかしたら、これこそが、本来の「猫を飼う喜び」だったのではないだろうか。
 アタゴロウが特別に犬的なのではなく、彼がスタンダードで、これまでの我が家の猫たちのサービス度が、冷戦時代の某国並みだっただけなのかもしれない。
 そして。
 当時の某国の人々と同様、私はそれが普通だと思って過ごしてきた。なかんずく、猫の人間に対する愛想のよさを「過剰サービス」と決めつけ、そんなことをしたり求めたりするのは西側的退廃だと、口をきわめて批判してきたのである。
 こうした思想統制による、我が家の文化的な遅れや経済の行き詰まりはさておき、為政者と思想的に近い人材(猫材)を集めた結果が、我が家の現状なのだ、ということに、私は遅ればせながら気が付いた。
 そういえば、我が家の猫どもは、私と同様、テレビを観ない。ついでにその、西側的退廃の象徴であるテレビは、どうやら、昨日から本格的に壊れたらしい。
 
 

ついてたって、観ないじゃない。
  
  
 だが、私がこのような大きな認識誤りに陥ったのは、ある意味、歴史的必然でもあった。
 と、いうのは。
 初代猫であるジン子姐さんが、「キケン」「ツンデレ」「知能犯」の3拍子揃った、今にして思えば上級者向きの、ファイティングスピリッツ溢れる激辛猫だったのである。
 彼女との付き合いは、実にスリリングであった。
 一瞬の油断も許されない。甘えてゴロゴロ言っている彼女をいい気になって撫でていると、次の瞬間、予告も前兆もなくいきなり本噛みされる。
 ツンデレのデレは母に対してだったが、その母でさえ、夜、同じ枕の上で眠っていたはずの彼女に、何度、頭を齧られたことか。
 ツンの対象だった私なんぞは、ついぞ生傷の絶えたことがなかった。
 そんな猫が頭に絡みついてきたら、シアワセどころか、緊張感で心臓バクバクである。
 無邪気にじゃれ合うなんて、そんな生ぬるい人間との付き合い方は、彼女には、ない。受けて立つ人間側は、常に真剣勝負の構えでないと、確実に怪我をする。そういう猫であった。
 知らないと言うのは怖いもので、猫飼い初体験だった猫山一家は、猫とはそういうものなのだと家族全員が勝手に納得して、すっかり激辛党に洗脳されてしまった。
 だが。
 ジンの後、そんな猫は、他に一匹も現れていない。
 全員が、程度の差こそあれ人間にはフレンドリーで、そんなにやたらに噛んだりしない。相当しつこくでもしない限り、本気で怒ることもないし、ましてや彼女のように、怒りで瞳孔を広げて目をギラギラさせながらシャーシャーなんて言わないのだ。
 アタゴロウは、ジンの後、6匹目の猫である。
 この頃になってようやく、我が家族は気付き始めている。
 猫という連中は、そんなにいつも、噛んだり蹴ったりするわけじゃない、と。
 我が家族も、ようやくにして、猫との生ぬるい付き合い方を体得し始めたのである。
 だが。
 やはり、私の中にはまだ、孤独なランボーの血が流れているらしい。無邪気に頭にじゃれついてくるアタゴロウを、
(猫の風上にも置けない奴。)
と――、
 そして、そうやって甘えられてやに下がっている自分自身を、
(平和ボケだ!)
と――、
 そんなふうに、心の中でひそかに、切り捨ててしまっている自分がいる。
 別に、猫と闘って負傷したいわけではない。だが、猫という連中は、人間の期待をことごとく裏切るからこそ、猫なのではないか。
(もっと猫らしい猫はいないのか…。)
 簡単に言えば、激辛党とは、Mな猫飼いのことなのである。
 
 

 キミに対してはね。確かに。
  
  
 私のような激辛党は、私以外にも、確実に世の中に存在する。それは確かだ。
 それなのに。
 私が新しい猫を探してリトルキャッツさんに相談していたとき、Yuuさんは、
「懐かない猫がいいと言われても、みんな懐いちゃうのよねえ。」
と、おっしゃっていた。
 無理もない。
 いかに誇り高き猫でも、日々、美味しい食事と、快適な住環境と、自分にかしずきチヤホヤしてくれる召使を与えられたら、いとも簡単に、西側的退廃への途を転がり落ちて行くことであろう。
 激辛党の人間だって、猫にゴロニャンされて別に悪い気はしないのだ。となると、人間大好きな「可愛い猫」になった方が、猫自身が幸福になれる可能性は拓けてくる。
 一方、人間側は、無邪気に懐いてくる「可愛い猫」と暮らせば、猫の柔らかい手触りと体温と、愛されているという実感とを、いともたやすく手に入れることができる。
 私がアタゴロウにじゃれつかれて感じる幸福は、「素直過ぎ」のモノ足りなさを打ち消して余りある。脳味噌を麻痺させる甘味の奔流である。
 つまり、猫の素直化は、双方にとって、翳りなき幸福を約束する最良の手段なのだ。
 それなのに――。
 これまでの話とは全く関係ないが、私はアンチ・ディズニーである。ディズニー映画は一種の芸術だと認めるし、TDRは楽しいところだとも思う。だが、その功罪を考えた時、やはりどこかに、受け入れがたいものが、どうしても残る。
不思議の国のアリス」にとどまらず、イギリスはじめヨーロッパの幻想文学世界を、アメリカ的なピカピカの「夢の世界」に塗り替えてしまっていることが許せないのだ。現実世界の厳しさが投げかける影と、闇と、笑えないシニカルなユーモアがあってこその、ファンタジーではないのか。暗さや不気味さを完全に排除し、夢と魔法と明るい笑いを追求し尽くした王国が、ひどくうすっぺらな、欺瞞的なものに思えてならない瞬間が、私には、ある。
 猫と人間との付き合いも、それに似ている気がする。
 西側的退廃に陥った猫。爪を立てることを忘れた猫。甘味の奔流に麻痺させられ、それが甘いだけで旨味のない、うすっぺらなものだということに気付かない人間。
 それを幸福と呼ぶことは、私の猫飼いとしての誇りを捨てる行為であるような気がする。
 私にとって、激辛なジン子姐さんの存在は、燦然と輝く記念碑に似た、何か冒しがたい特別なものなのだ。
 とはいえ。
 ノーテンキなアタゴロウも、やはり、文句なしに可愛い。
 朝夕の涼しさが肌寒さに変わろうとしている昨今、膝に乗せる猫の体温は、体感的な幸福を、理屈抜きで飼い主に与えてくれる。
 
 
 爪のない猫をして「空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆に陥った天才」に擬した梶井基次郎は、その同じ「愛撫」という短編の中で、こんなことを書いている。
 
「私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠(あしのうら)を、一つずつ私の目蓋にあてがう。快い猫の重量、温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。」 
 
 この文章について、もしもこの猫がそのまま爪を立てたら、瞼の下の眼球はどうなるのかハラハラする、と書いている人がいた。事実、梶井自身も「仔猫よ!後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。」などと続けているが、いずれにしても、さすがにこれはやり過ぎだ、と、一読して私も思った。
 猫に瞼を踏まれることが、「この世のものでない休息」だって!?
 あまりにも楽観的過ぎる。
 踏み外さなければ大丈夫ってもんじゃない。
 踏み外さなくたって、奴等は爪を立てるかもしれないじゃないか。私はそこまで、猫という輩を信用していない。
 梶井はその点、幸福な猫飼いだったのかもしれない。
桜の樹の下には屍体が埋まっている」という、世にも美しく頽廃的な一文を送り出した彼が、昭和初期の時代から、私の言うところの甘味の奔流、あるいは西側的退廃に毒されていたのかと思うと、激辛党の私には、その意外性が、何故とはなしに可笑しい。
 もっとも、彼の文学の背後にある「近代的頽廃」は、アタゴロウの西側的それとは、まったく次元の異なるものであるのだけれど。
 
 
 それにしても。
 
 
 近代的頽廃とは無縁ながら激辛党の私は、やっぱり、サビ猫を飼うべきなんだろうか。
 
 
 

(西側的退廃に転落するの図)