野良娘が野良娘であることについて


  
  
 玉音がわが家に来て、二ヶ月半。
 月齢にして四ヶ月。やんちゃ盛りである。
「かわいい盛りでしょ。」
と、人は言う。
 だが——。
「それが、あまり可愛くないんですよね…。」
「えーっ、どうして!?」
 いや、どうしてと言われても。
「可愛い」には、主観的な意味と客観的な意味がある。客観的な面から言えば、まあ遠目には、仔猫らしく遊ぶ姿は無邪気で可愛いのだが。
「あまりにもヘンな柄すぎて。おっさん顔だし。」
「そんなの。大きくなれば可愛くなるわよ。」
 私も、それを密かに期待している。というより、そこに一縷の望みを繋いでいる。
 問題はむしろ、主観的な意味の方である。
「何かね、あんまり懐かないんですよ、こいつ。」
 
 
 玉音は、野良っ子である。
 二ヶ月半、人間の家で暮らしているのだが、未だに野良猫の矜持を失わずにいる。人間大好きスリベタちゃんになる気配なんて、微塵も感じられない。
 生活に困窮し、人に情けをかけられる身の上となっても、自らの血統の誇りを忘れない。この娘を育てたお母様は、さぞかし立派な方であっただろうと、敬服の念とともにご推察申し上げる今日この頃である。
 例を挙げれば——。
 人間と目が合うと、それがエサヤリさん(私)であっても、ひとまず逃げる。それも、本気で逃げる。
 おもちゃを振っても、気にはなるようだが、疑り深い目で様子を窺っているばかりで、なかなか食いついてこない。(その前に、アタゴロウが釣れてしまう。)
 私を迂回して歩く。
 そして。
 この娘は、夜にならないと姿を現さない。昼間は寝ているのだが、こたつや押入れ、マットレスの陰など、必ず、見えない・触れない・暗いところに潜って眠るのである。他の二匹は、ポカポカ暖かいリビングの日だまりで、長くなって眠っているのに。
 安全なはずの家の中でも、常に用心を怠らない。決して母の教えに背くことがない娘なのである。
 
 
 これまで私が一緒に暮らした猫は、ムムを除き全員が保護猫である。(ムムは母猫が保護されてから産んだ子なので、彼女自身には野良経験がない。)
 あとは、強いて言えば、実家のなな姐さんは、捨てられた直後に拾われたと思われるので、おそらく野外生活は経験していない。だが、他の子たちは、期間に長短の差はあるが、一応、全員が野良生活を経験している。
 が——。
 今まで、誰もいなかったよ、こんな野良。
 初代のジンちゃんは、私が自分で拾った子だし、その前に最低二ヶ月は野良をしていたことは、私自身が目撃して知っている。であるから、保護してしばらくは、ゴミ箱漁りの癖がやまなかったし、台所からごはんを盗み食いしたり、リビングに置いてあった姉のひざ掛けを食い破ったり、まあ色々なことはしてくれた。だが、保護してすぐに、人間には懐いた。
 他の子たちは、全員、最初から飼い猫モードである。
 なぜ、玉音だけこうなのか。
 思うに、他の子たちはみな、生まれは飼い猫で、その後、捨てられたのではないか。
 賢いジンちゃんは、家の中に入れてもらったと思ったら、その後半年間、玄関を全開にしても、絶対に外に出ようとはしなかった。明らかに確信犯である。彼女は、最初から人間に飼われることを狙っていたのだ。ということは、既に飼い猫生活を知っていたということになる。
 アタゴロウは、生後二ヶ月くらいで保護されているが、鳴きすぎて声が涸れていたという。つまり、声が涸れる前は飼い猫だったということだ。
 ミミさんは、首輪をつけたまま自動車から降ろされるところを、目撃されている。
 りりとダメちゃんの出自は全く分からないが、生まれた時は飼い猫であったという可能性はある。
 あるいは、リトルキャッツさんでの飼い猫教育が、ことさら秀逸だったということだろうか。
 
 
 玉音はおそらく、私を怖がってはいない、と思う。
 ご飯のときは平気で近寄って来るし、触ることもできる。膝に乗せることもできる。
 猫のご飯の時間になると、玉音はどこからともなく颯爽と現れて、自分のご飯場所に陣取り、大音声を張り上げて食事を要求する。こいつが鳴くと、アタゴロウの声がかき消されそうになるくらいだ。
 そこにいる間の玉音は、撫でることができる。なので、私は、ご飯を出す前と、玉音が自分のご飯に食らいついている間に、彼女の背中や尻の辺りを撫でて、束の間のスキンシップを図っている。
 まあ、彼女にしてみれば、メシのために我慢をしている、というところだろうけれど。
 で。
 ご飯が終わると、玉音はすぐに小走りで立ち去って行く。それから、少し離れたところでグルーミングを始めたりするので、近寄ってまた撫でようとすると、今度は全速力で逃げて行ってしまう。
 食うもんさえ食ってしまえば、あとは人間なんかに用はないのである。
 このところ、冷え込むので、夜はヒーターをつけている。ヒーターの前には、ビーズクッションを置いて、猫たちが寝られるようにしてあるのだが、野良娘も、このヒーターが熱源であるということに気付いたらしい。ヒーターをつけるようになってからは、他の猫と一緒にクッションの上で寝るようになった。
 このときも、触ることができる。寝ぼけているからであろう。
 私が玉音に触れることができるタイミングは、ほぼこの二種類しかない。
 なるべくスキンシップの機会を増やした方が、玉音も人間の手に慣れるだろう。だが、逃げる子を追いかけて触っていたのでは逆効果ではないか。
 そう考えると、なかなか手も出しにくい。悩ましいところではある。
 
 

  
  
 ある日、ご飯を食べに来た玉音を抱き上げてみた。
 その瞬間——。
 擬音を書きたかったのだが見つからない。グエーでもグワーでもギャーでもない、何やら激しくドスの効いた、この世のものとも思えぬ叫び声を、私は聞いた。
「何、今の。」
 怒ったダメちゃんにだって、あんな凄い声、出せやしない。
 私はただ呆然と、玉音の白い尻が消え去ったテーブルの陰を見つめていた。
 野良って凄い。
 玉音の血統の正しさを、深く認識した瞬間だった。
 
 
 ま、いいか…。
 ウチ三匹もいるんだから。一匹くらい家庭内野良だって。
 医者に連れて行けないとか、触るなキケンのレベルだとか、そういうわけじゃ、ないんだから。
 猫同士が仲良くさえしてくれれば、もうそれで、ノープロブレムということで。
 
 
 それにしたって、わが家は、人間一人に対して猫三匹である。
 ○庵サテライトでは、人間一人に対し、猫百匹くらいの計算だろう。
 三匹のうちの一匹であるわが家の玉音嬢が、いつまでの野良気質であるのに対し、リトルキャッツさんの仔猫たちは、長くてもほんの二、三週間で、確実にスリベタに変身する。どの子も百匹の中の一匹であるにも関わらず。
 Yuuさん、あなたは、一体どんな魔法を使っているのです…?
 
 
 一昨日のこと。
 恒例のクリスマスパーティであった。会場は拙宅である。
「なるべくお友達やご家族に来てもらって、触ってもらってください。人間は怖くないということを教えてやらないと。」 
 獣医さんにはそう言われていたし、友人たちも、玉音に会うのを楽しみにしていたわけであるが。
 予想どおりの展開であった。
 玉音のやつ、どこかに隠れてしまって、出て来やしない。
「玉音ちゃん、どこに隠れちゃったのかね?」
「知らない。押入れじゃない?」
 正直なところ、私は最初からこんなことだろうと思って、全く気にしていなかった。探す気もない。
 一方、ダメちゃんは大好きなこっこに甘え、猫たちのクリスマスケーキ代わりに用意したささみのほぐし身を、さくらとこっこから代わる代わる貰って、すっかりご満悦であった。アタゴロウもそれなりにリラックスした様子で、二匹とも、さくらからのクリスマスプレゼントのおもちゃに盛り上がり、要するに、そこにいた全員が、ほぼ玉音の存在を忘れて楽しく過ごしていた。
 ——と。
 思いがけないことが、起こった。
「あ」
「あ…」
「え!?」
「見た?」
「見た見た。」
「どっち行った?」
「押入れ。あ、今入った。」
 そう。
 三人で足を入れて温まっていたこたつの中から、突然、玉音が走りだしたのである。
 三人来るはずだった客のうち、一人が風邪で欠席した。このため、正方形のこたつは、一辺が空いていた。玉音はおそらく、その隅にいたのである。
 玉音にしてみれば、戦慄の時間であったろう。人間が怖くて隠れていたのに、よりによって、そのこたつの中に、人間の足が三組も入ってきたのだ。
 彼女は息を殺したまま、味噌汁一杯分にも満たないくらいの脳味噌で考えた。奴らはまだアタシに気付いていない。このままじっとなりを潜めていれば、そのうち、敵は去るだろう。
 しかし。
 彼女のこの読みは外れた。人間たちはこたつを囲んでどっかりと座り込んだまま、根が生えたように、動く気配もない。
 彼女は味噌汁が煮えたぎるほど熟考した。こいつらは、どうやら、ここから動く気はないらしい。(酒も入っているようだし)。まだアタシに気付いてはいないようだけど、もし気が付いたら、三人でアタシをつかまえにかかるに違いない。いつものエサヤリ一人だけなら、あいつはトロいし、何とかなる。だけど、三方から手を出されたら、さすがのアタシも、きっとひとたまりもないだろう。こいつらが油断している隙に、思い切ってここを飛び出して、一気に別の隠れ場所に飛び込んだ方がいいんじゃないかしら——。
 塹壕から塹壕に走る、前線部隊みたいなものである。
 彼女は実行した。
 今度は、彼女の読みが当たった。油断し切って、酒も入っている人間たちは、彼女が白い全身をさらして、遮るもののない平原を駆け抜けても、なすすべもなく、ただ、ただ、彼女を指さして狼狽するのみだったのである。
 こうして彼女は、残忍な人間の魔手を逃れた。
 彼女はこの出来事を、瞼の母に、どう報告したのであろうか。
(お母様、申し訳ありません——。)
 この危機は、明らかに彼女の気の緩みが招いたものだ。人間が仲間を呼ぶかもしれない。なぜ彼女は、その可能性に思い至らなかったのか。
 あるいは——。
(お母様、私は逃げおおせました。私はお母さまの娘ですから。)
 三人もの人間に、至近距離で取り囲まれながら、まんまと逃げおおせた自分の中に、野良の血統の正しさを認め、誇らしく母に語りかけたのだろうか。
 
 
 私には、前者が正解のように思える。
 なぜって——。
 
 
 その後、玉音の私に対する警戒態勢が、いちだんと厳しさを増したように思えるからである。
 友人たちが帰り、片付けも済んだ後。
 押入れから現れて和室の中を徘徊していた玉音を、私は和室の東側にある入口に座って、何気なく目で追っていた。
 すると——。
 玉音は、私の視線に気付き、和室からの脱出を試みた。
 特筆すべきはその経路である。和室の南側にいた玉音は、私から約1.5メートルの距離を保ったまま、部屋の中をぐるりと歩いて私の体を迂回し、入口の北側ぎりぎりから、目にもとまらぬ勢いで飛び出したものである。
 その迂回路の描く円弧の数学的な美しさ。それは、半径と円周から円周率が求められそうなほどの、正確なコンパルソリーであった。