ゴルゴは学習する。


 
  
 友人さくらとこっこは、玉音ちゃんの話になると、いまだに私を馬鹿にする。
「メール来た時、笑ったわよ。あんだけ大騒ぎしておいて、結局、拾ってやんの。バーカって。」
 三匹目を飼う・飼わないから始まって、どんな猫を貰うか、どの猫を貰うか、私が半年、いや、アタゴロウを迎えてすぐだから、二年近くも悩み続けたのは事実である。それが、玉音ちゃんの登場によって、事態はおのずから解決したのだった。
 だが。
 彼女たちは根本から間違っている。
 玉音ちゃんは断じて、「偶然拾った猫」などではない。
 神様が、悩める私のために、選んで遣わしてくれた猫なのだ。何が証拠って、こんなに我が家にぴったりの猫なんて、そうざらにいるもんじゃない。それに、私のこれまでの人生で、段ボール箱に入って捨てられている仔猫なんて、後にも先にも見たことがない。しかも、場所と時間から推察するに、その段ボール箱は、私が通りかかる直前に置かれたものとしか思えないのだ。
 悩みまくる私を憐れんだ神様が、私に与えてくれた幸福と試練。それが玉音ちゃんなのである。
 そう。
 試練でもある。
 私が本物の猫飼いになるための――。
 
 
 金曜日は、職場の忘年会であった。
 それなのに。
「猫山ちゃん、何でそんなに荷物が多いの?」
「いやあ、実は、膝掛け毛布を持って帰ろうと思って――。」
「えっ!?そんなの別の日にすればいいじゃない。来週にすれば?」
「そうよ。何も今日持って帰らなくたって。」
 周囲から次々に湧き上がる非難の声。
「いやその、週末、使うんですよねー。」
「・・・・・・??」
 そりゃそうだろう。
 職場で使っている膝掛けを、敢えて持って帰らなければならない用事って、普通、ないよね。
「そのう、実は、玉音ちゃんの捕獲用でして…。」
「・・・・・・????」
 遡ること一週間。
 日曜日。玉音ちゃんを予防接種に連れて行くべく、捕獲を試みた。
 チャンスは二回あった。二回とも、あえなく敗退した。
 その後、友人と待ち合わせがあったのでその日は断念し、待ち合わせ場所に向かう電車の中で、「飼い猫 捕獲」と、インターネット検索し、世間様のお知恵を拝借することにした。
 結果、「洗濯ネット」と「膝掛け毛布」なら可能ではないか、と考えたのである。
 猫の隙をついて布の袋などを被せ、さっと持ち上げて生け獲りにする、という方法は、そういえば、以前、さくらから教わったことがあった。(さくらは座布団カバーを使ったそうである。)
 我が家には毛布洗い用の大きな洗濯ネットがあるから、それでいけるかもしれない。そういえば、ミミさんの皮下補液のときにも、そのネットを使っている。
 ただ、洗濯ネットの場合、瞬時にして野良返りした玉音ちゃんの、必死の爪による反撃という危険がある。
 できれば、一瞬にして目の前を塞ぎ、間髪を入れずに爪の通らない厚手の布でくるんで、そのままキャリーバッグに投げ込みたいものである。
 もちろん、家にも毛布はある。だが、寝具の毛布は大きすぎて、さっと被せるには機動性が悪そうだし、だいいち、それでくるんだのでは、キャリーバッグに入らない。
 そのせいだろう、ネットの投稿者は敢えて「膝掛け毛布など」と書いていた。家には残念ながら、膝掛けのような小さな毛布はない。バスタオルでは少々心許ないし、だからといって、そのために膝掛けを購入するのも(成功するか分からないのに)、ちょっとどうかな、ということで、職場の膝掛けを持ち帰ることにしたのだった。
「土曜日に洗濯ネットでチャレンジして、駄目だったら、日曜日に毛布を使ってみます。それでも駄目なら、最終的にタモ網という手もあるらしいんですけど。」
 職場の皆さんに語りながら、我ながら悲しくなった。
 何故、自分の飼い猫に対して、タモ網なんか振るわなきゃならないんだろう。
 それも、生後二ヶ月足らずから、親代わりになって育ててきた子なのに。
 まあ、実際には、狭い家だから、タモ網はむしろ無理である。以前、猫カフェ荒らしのSさんからも、その方法は提案されていたのだが、却下していた。むしろ、捕獲器の使用を本気で検討していたのであるが、
「でもねえ。中に餌なんか置いたら、間違いなく、他の猫を捕獲しちゃうと思うのよね。」
「なるほど。確かに。」
 そんなわけで。
 忘年会の会場に大荷物を持ち込むのは、ちょっとした迷惑行為だとは思うのだが、一応、職場の皆さんも、納得してくれたらしい。
 その夜。ちょっとお洒落をしてパーティー会場に向かう女性陣に混じって、一人、大荷物を抱え、どこから見ても「これから田舎に帰る人」にしか見えない私がいたのだった。
 
 

 ハイ、おっしゃるとおりで…。
 
 
 玉音ちゃんの捕獲の難しさは、彼女が日中、見えるところにいない点にある。
 朝ご飯が終わると、玉音ちゃんは早々に姿を消す。壁に立てかけたマットレスの陰、押入れの中、冬はコタツの中にいることもある。
 それでも最近は、すぐに潜らずにその辺をうろうろしていることも増えてはきたのだが、他の二匹のように、日なたでくつろいでいたり、クッションの上で昼寝していたりすることはない。彼女がリビングでいくらかでも落ち着いたそぶりを見せるのは、ほとんど夜である。
 であるから。
 玉音ちゃんを病院に連れて行くとなると、捕獲のタイミングは、私が朝起きてから、猫たちの朝食が終わるまでの間しかない。いや、事実上、朝食時を狙うしかないのだ。何しろ、冬場は私の掛け布団の上で寝ているくせに、私が起き出したと見るや、はるか彼方に逃走して、私が猫飯の準備を始めるまで帰ってこない猫なのだから。
 私は当然、食事中の玉音ちゃんを狙うつもりであった。これまでは曲がりなりにも、その方法で成功していた。食べているところを、背後からさっと抱き上げる。まあ、一度では成功せず、結局、捕物になることも、ままあるのだが。
 ところが。
 数ヶ月前から、どうやら今年はその方法が使えないことが明らかになってきた。
 以前も書いたことがあるが、今年の春くらいからであろうか。彼女は何故か、椅子の下だの卓袱台の下だのに潜ってご飯を食べるようになっていたのである。
 最初は気にしていなかったが、途中で、これはまずいと気がついた。
 これでは、「食べているところを、さっと」というわけにいかない。
 そこで、少しずつ、ご飯の皿を卓袱台の外に引きだしてみたりして、やがて、彼女も元どおり、他の二匹と一緒に、洗面所と台所の間の廊下でご飯を食べるようになった。
 ああよかった、と、その時は思ったのだが。
 玉音ちゃんの予防接種の時期が近付き、捕獲問題が現実味を帯びるにつれ、どうやら問題は解決していないらしいことに、私は気付き始めた。
 どうも、体勢が整わないのだ。
 玉音ちゃんは食べている時、私の方に頭を向けている。一見、一心不乱に食べているように見えるが、私が近くを通ったりすると、途端に食べるのをやめ、椅子の下に避難する。あるいは、ご飯を放棄して遠くに逃げてしまう。
 別に、私が近くにいるのが嫌なわけではないと思う。私が食べている彼女の目の前に座って眺めていても、一向に気にする様子はなく、むしろ、皿の底に残ったご飯を掻き寄せてやるのを待っていたりするのだから。
 これまでの「食べているところを、さっと」は、背後から捕まえるのが前提であった。やってみれば分かる。猫を前方から捕まえるのは至難の業なのだ。
 皿の位置を動かしてみたりと、工夫もしてみた。しかし、問題は解決しなかった。
 つまり。
 私は食べている彼女の背後に回り込むことができない。となると、前方から無理矢理捕まえるしかないのだ。
 それを試みたのが、先週である。見事に逃げられた。
 その後、籐の猫ベッドに入った玉音ちゃんを掴んで引っ張り出そうとしてみたが、これも上手くいかなかった。二戦二敗である。
 そして、昨日に至る――。
 
 
 結論から言えば、昨日の第三戦は、私の不戦敗であった。
 玉音ちゃんが朝食に現れなかったのである。
 朝方は確かに、私の布団の周囲にいた。そして、他の二匹と一緒に、メシくれアピールを繰り返していた。
 それなのに。
 私がご飯をよそってみると、足元に猫は二匹しかいなかった。
「玉音ちゃん、ごはんだよ。」
 呼んでも出て来ない。(いつものことだが。)
 彼女はマットレスの後ろにいた。私はやむなく、朝ご飯の皿をマットレスの後ろに押し込んだ。
 彼女は何のためらいもなく、ご飯をぱくぱくと平らげた。食欲はバッチリあったのである。
 ふと、思いだした。
(そういえば、水曜日も…。)
 実は私は、水曜日、体調を崩して仕事を休んでいた。思い返せば、その日も、玉音ちゃんは朝ご飯に現れず、私が押入れまで、朝ご飯をデリバリーしたのである。
(何故…?)
 そこで、ハタと気がついた。
 玉音ちゃんは、朝食時にご飯場所に行くと、また狙われることを予見していたのである。
 しかも、憎らしいことに、それが休日の朝限定であることまで、見抜いていたのだ。
 何という、無駄な学習能力の高さであろう。
 そこで、さらに気がついた。
 食事時には私に尻を向けないという、玉音ちゃんの奇妙な性癖。
 これは要するに、昨年の捕獲劇からの学習だったのではないか――。
 
 
 何と。
 野良娘、恐るべし。
 
 

 お前はゴルゴ13か!!!
 
 
 私には夢がある。
 将来、仕事を定年退職したら、預かりさんをやるのだ。
 そうして、チビネコを育てる。いや、チビネコは私みたいな大雑把な人間には無理かもしれない。
 あるいは、人間と暮らすことに慣れていない野良上がりの子を気長に慣らして、家猫修行させる。最初は人間を警戒していた子が、徐々に心を開いていく、その過程を見るのは、本当に感動的で、さぞかしやりがいのある仕事に違いない。
 が。
 ここにきて、一挙に自信喪失に至る。
 自分の飼い猫さえ捕獲できないのに、どの口でそれを言うか。
 その預かりの野良さんを病院に連れて行くことになったら、一体、どうするつもりなんだ。
 私は将来に絶望した。
 ついでに、目先の問題にも絶望した。
 三匹いる室内飼いの猫のうち、一匹だけ予防接種を受けさせなかった場合、他の二匹にどんな影響があるのだろうか。真剣に調べ始めている私がいた。
 
 
 神様。
 これが私に与えられた試練なのでしょうか。
 あなたが遣わしてくれた玉音ちゃんは、私には難易度が高すぎます…。
 
 
 今朝、目覚めた時、私は内心、すでに戦いを放棄していた。
 朝ご飯に出て来ないなら、捕獲のしようがないではないか。
 動物病院に行く気なんか、さらさらなかった。今日は外出せずに家事をやろうと思っていた。
 二度寝の間に寝がえりを打った。うつ伏せになった背中に心地よい重みを感じた。
 玉音ちゃんだ。
 可愛いね、玉音ちゃん。本当は私が好きなくせに。
 その時。
 ひらめいた。
 
 
「降りて、玉音ちゃん。」
 なかなか背中から降りない玉音ちゃんを、そっと背中を動かして降ろし、例によって遠くに走り去る彼女を眺めながら、布団の上に起き上がった。
 心張棒をした方がいいかな。
 でも、ちょうどいい棒がなかったかも。
 ま、とりあえず襖を閉めておけば、そんなに簡単には開かないだろう。
 もそもそと起き出して布団を片付け、押入れの襖をぴったりと閉めてから、猫たちの朝ご飯の仕度にかかる。
 先週と昨日は、すぐに動物病院に出発することを前提に、猫ご飯の前に歯を磨いたのだが、今日はそんなことはしない。
(もしかしたら、先に歯を磨くことで勘付かれたのかもね。)
 その用心は、無用だったかもしれない。そもそも、彼女はその場に現れなかったのだから。
 三つの皿にご飯をよそい、ダメとアタに出してやる。
「玉音ちゃん、ごはんだよ。」
 呼ぶだけ呼んでおいて、そこで余裕を見せ、いつものように歯を磨いた。
「玉音ちゃん。」
 その後、玉音の皿を持って和室に行ってみると、案の定、玉音ちゃんは壁に立てかけたマットレスの陰にいた。
「はい、ごはん。」
 マットレスの陰に皿を押し込み、部屋を出る時に、さりげなく、リビング側に置いてあったキャリーバッグを和室側に動かした。
 ここから先が、勝負だ。
 洗面所に戻り、洗濯ネットと膝掛け毛布を掴むと、これまたさりげなく和室に入り、今度は、和室とリビングの間の襖をぴったりと閉める。
 準備完了。
 マットレスをばたんと倒すと、目にも止まらぬスピードで、白い塊が飛び出した。
 
 

 
  
 洗濯ネットを投げる。膝掛け毛布を投げる。しかし敵のスピードが早すぎて、そんなものでは間に合わない。
 さらに誤算だったのが、敵が押入れの襖を開ける技に熟達していたこと。
 いとも簡単に襖を開け、そのまま押入れの下段に駆け込んだ。
(やっぱり、心張棒が必要だったな。)
 後悔しても遅い。だが、ここで負けるわけにはいかない。
 押入れの中の布団や来客用の枕を次々に引っ張り出し、衣裳ケースを動かして、隠れるところをなくし、押入れに半身を突っ込んで逃げまどう猫を追い回す。
 ついに、敵は押入れから飛び出した。
 再び押入れの襖を閉め、部屋のあちこちに散らばった毛布だのベッドパットだの、手当たり次第に投げつける。敵は一度、出口の襖に向かったが、この襖はさすがに重くて、そう簡単には開かない。諦めて再び押入れの襖を開けて飛び込み、以下同文。
 再び飛び出したところを、今度は、押入れの襖の前に布団を積んで開けにくくする。迫害の乙女は部屋の中をぐるぐると逃げ回った末、三たび、押入れの襖を開けようとして、積んである布団に戸惑い、ひるんだところを、キング・コングの両手にがっしりと押さえつけられた。
 意外なことに、爪は出なかった。
 胴体を必死に掴み、キャリーバッグに押し込んでファスナーを閉めたところで、私はマットレスに座り込んで放心した。
 敵も放心していたらしい。
 キャリーバッグの中からは、唸り声はおろか、物音ひとつ聞こえなかった。
 私は勝ったのだ。
 
 

 心配そうにキャリーバッグを遠巻きに眺める親分と、
 

 あちらの方で、こぼれたご飯を拾い食いしている夫。
 
 
 いや、誤解しないでほしい。
 私が写真を撮る直前まで、夫はキャリーの前に付き添っていたことを、彼の名誉のために申し添えておく。
 
 
 ここから先は、言わずもがなであろう。
 動物病院で、激しい抵抗の末、キャリーバッグから引っ張り出された玉音嬢に、先生は、
「ネットを掛けましょう。」
 いや、その配慮はちょっと遅かったんだけどね。その直前に、彼女は診察台の上から逃亡したのだから。
 それでも何とか、洗濯ネットに押し込められ、診察台に戻された玉音ちゃんは、
「まず、爪を切りましょう。」
 何と、洗濯ネットの上から手足を掴まれて爪を切られ、ネット越しに注射を打たれるという、立派な野良待遇を受けたのだった。
「すみません。その子、爪が切れないもんで。」
「いやいや、切らないと、私の方もグサっとやられるかもしれませんし。」
 先生は事もなげに、そう言って玉音ちゃんの爪を切った後、ぼそりと、
リストカットと間違われるんですよね。」
 獣医さんって、大変だなあ。
 
 
 今年の玉音ちゃんの捕獲物語は、これで終わりである。
 無事、家に帰り、キャリーバッグから飛び出した玉音ちゃんは、まず、マットレスの陰に駆け込んだが、二、三歩入ったところで思い直してUターンし、押入れに向かった。そして、私が彼女のために積んでおいたクッションを足場に、迷わず押入れの上段に飛びこんだ。
 見事な学習能力である。
 辛くも勝利を手にした今、私は彼女の卓抜したそれに、心からの敬意を捧げる。
 勝ったとはいえ、私の勝利は、単に「追いかけ回して捕まえた」に過ぎないのだから。
 結局、洗濯ネットも膝掛け毛布も、役には立たなかった。
 そういえば、「飼い猫 捕獲」で検索した時も、「狭い部屋に入れて追い詰めるのが一番です」と書いている人がいたっけ。
 そう。
 何を使おうと、最終的には捕物になるのだから、まずは、決戦の地を定めることが肝要なのだ。私はそれを学んだ。
(来年は、心張棒だな。)
 こう見えても、私にだって、学習能力はあるのだ。