器用な男


 
 
 前回の更新の後、友人さくらからもらったメールの一文。
「しかし、休診日を狙い撃ちって、アタ坊は器用だね。」
 いや、そんな冗談を言っている場合じゃない、と言うべきところであろうが、しかし、彼女の指摘は正鵠を射ている。
 なぜって。
 その通院が十八日の祝日月曜日。それから三日と置かず、彼はまたオシッコを詰まらせたのだ。
 二十一日木曜日。かかりつけ病院の定期休診日に。
 
 
 今回の詰まりは軽かった。
 朝、トイレで空振り一回。その後、いくらか排尿した様子はあったが、量が少なそうだったのと、空振りの後の様子(トイレを凝視してしっぽをぷるぷるさせる・やたらと股間を舐める)を見て、ああこれは詰まってるな、と、判断した。
 その程度でカテーテルを入れるべきかは疑問であったが、放置すれば早晩、本格的に詰まるだろうし、また、別の意味で、病院に行く機会を探っていたためでもある。
 別の意味、とは。
 これまでの経緯を読んで下さっている方ならもう察しがついているかもしれない。手術の相談である。
 月曜日の通院の後、翌火曜日に、かかりつけの先生に電話して経過を報告した。ただ報告でも良かったのだが、差し当たりの「口実」として、
「先生のところに、s/dの缶はありませんか?」
と、訊いてみたものである。
 何しろ、s/d缶は、大抵の猫が敬遠するシロモノらしい。できればネットでまとめ買いする前に、一缶で試してみたかった。
「缶は取り寄せになっちゃいますけど…。でも、どのみち、そんなに長くは食べさせられませんよ、腎臓をやられてしまう。」
 という会話の後、実はこれこれこういう次第で、と、前日のことを話し、
「これで詰まったら、手術を検討した方がいいって言われました。」
 と、いうところで、もう無理じゃないの?という話になっていたのである。
「あまり何度もカテーテルを入れていると、尿道がボロボロになっちゃいますよ。もう既に、相当入れにくくなっているんじゃないかな。」
 そうか…。
 先日のアタゴロウの尿には、膿が混じっていたという。血も出ていたと聞いた。もしかしたら、そのせいもあったのかもしれない。
 かかりつけの病院で、カテーテルを入れる場面を二度、目撃していたから、素人考えながら、内心、そんな気はしていたのだ。だが、件の猫専門病院では、処置の場面に飼い主は立ち会わないし、院長先生もおそらくかかりつけの先生に遠慮して、治療方針的なことはあまりおっしゃらないので、常に「応急処置」、後は何となく成り行き任せの流れになってしまっていた。
 もう、手術に踏み切った方が、アタゴロウのためかもしれない。
「実は、何故手術をためらっているかなんですけど――。」
 私は気心が知れているのをいいことに、先生に自分の疑問をぶつけてみた。
「術後、傷の上がりが遅いって、先生おっしゃってたでしょ。そうなると、退院後に清潔を保ってやれる自信がないんです。私、昼間家に居ないし、排泄の後、拭いてやってりする必要があるんだったら、とても無理ですもん。場所が場所だけに、細菌感染とか怖いですよね。」
「いや、それはないんじゃないかな。感染は抗生物質で防ぐし。特に拭いてやったりはないと思いますよ。」
「じゃあ、普通に生活させて大丈夫なんですか?」
「ええ。特別なことはないですね。通常は。」
 そうなのか。
 早く訊いてみれば良かったな。
 電話を切ってから、思った。
 だが、こうやってざっくばらんに訊けたのも、かかりつけの先生だからだし、それに――。
 ここが小さな町医者の良い所なのだ。何か分からないことがあって電話をすると、直接先生が出る。「猫山です」と名乗っただけで、その場で話が通じる。先生も私の家庭事情や生活状況を知っているから、具体的な話ができる。
 だが。
 大きな病院は、そういうわけにはいかない。
 じゃあ、手術を受けさせよう、と、ココロは決まったものの、次の手順が分からない。手術の申し込みは電話で良いのか。手術前に、改めて一度、連れて行くべきなのか。すでに三回、院長先生の診察は受けているし、手術の必要は、院長先生自ら口にしたことでもあるのだけれど。
 まずは電話だろうか。だが、受付のお姉さんが「じゃあ連れてきてください。」などの判断ができるのだろうか。
 などと逡巡していた矢先、かかりつけ病院の休診日を待っていたかのように、アタゴロウ自身が病院に行く理由を作ってくれたものである。
  
 
 予想どおり、今回は、
「完全には詰まってないですね。ポタポタ出ている感じでしょう。」
 それに、器用なアタゴロウは、今回も律儀に、前回は夫唱婦随に忙しくて忘れていた芸当を披露していたのである。
「すみません。また診察室を汚しました。」
「ああ、いいですよ。」
 院長先生はもはや、顔色一つ変えない。いや、そのくらいで顔色を変えていたら、猫専門病院の院長なんぞ務まらないか。
「でもまあ、抜いておいた方がいいでしょう。」
 と、いうことで、またしてもカテーテル処置をお願いすることになったわけだが、それでは、と、アタゴロウを預かろうとする院長先生に追いすがるように、
「もう手術にします!お願いします!」
と、叫んでいる私がいた。
 院長先生はやはり、顔色一つ変えなかった。私の考えていることなんか、最初から手に取るように分かっていたのだ、と言わんばかりに。
「ところで、」先生はゆっくりとした口調で私に尋ねた。「あのs/dというフードは食べましたか?」
「食べましたが…あまり好きじゃないみたいです。」
「やっぱり、そうでしたか。」
 院長先生は淡々とした口調で、それだけ答えた。だが、その静かな瞳の奥に、微かな笑いの影が走るのを、私は見逃さなかった。
 先生は、多分、まだお気付きではない。だが、先日のアタちゃん呼び以来、私の中で、院長先生を敬い奉る気持ちは、推定七十パーセント程度は目減りしているのである。
 
 
 処置が終わったところで一度、診察室に呼ばれ、
「s/dが効いているみたいですね。かなり砂は減ってましたよ。どうしますか?」
「いえ。手術します。お願いします。」
 かかりつけの先生がおっしゃったとおり、s/dは半年程度しか使えないのだ。
「それでは、外科医の予定と手術室の空きを確認しますから、少し待っていてください。」
 というわけで、先に会計を済ませ、再び呼ばれて診察室に入ると、
「二十九日の金曜日はいかがでしょうか。」
「二十九日ですか。」
 私はなるべく顔色を変えないようにして、頭の中で自分の予定を確認しているふりをしながら、だが、実は内心、瞠目していた。
 アタゴロウのやつ!!
 ピンポイントでそこを当ててくるとは。
 実は、九月二十九日金曜日は、私がもともと休暇を入れている日だったのである。それも、用事があるのは午後だけ。午前中は、単なる夏休みの消化である。午後の用事だって、白状すれば遊びに属するもので、いくらでも変更可能である。
 ついでに言うなら、その日の朝、私は仕事の方で当番が当たっていたのだが、休暇を取るために、前日担当の先輩と交代までしていたのだ。
 完璧である。
「じゃあ、そこでお願いします。」
 アタゴロウ。キミは何と器用な男なんだ。
 院長先生は少しほっとなさった表情で、
「後は――それまでの間に、詰まらないでいてくれればいいのですが。」
 まあ、それは大丈夫でしょう。少なくとも、次の木曜日まではね。
 
 
 正直、私も手術が決まって、少し気が緩んだところはあるのだ。
 翌日、かかりつけの先生に報告しなくちゃ、と思いながら、電話するのを失念した。
 土曜・日曜は診察しているが、間違いなく立て込む日である。次々に患者さんがやってくるから、先生も、電話に出ている暇はないだろう。
 そんなわけで、報告は月曜日に延期になった。
 そして、今日、月曜日である。
 実は今日は、私自身の健康診断で、朝から会社指定の医療機関に出掛けていた。健診が終わって帰り道、地下鉄に乗ろうとしたところで、動物病院に電話しなければならないことを、奇跡的に思いだした。
 とはいえ、出先である。どこで電話しようかしら。
 考えているうちに、ふと気が付いた。
 かかりつけの動物病院は、ここから家に帰る途中の駅から歩ける所にある。だったら、電話ではなく、直接行って話せば良いのだ。このところ電話ばかりで失礼しているし、ご挨拶がてら、顔を出してこよう。
 行ってみると、さすがに月曜日の午前中、患者さんは誰もいなかった。先生が一人で診察室にいたので、手術が決まったことを報告すると、先生は、素人にはなかなか刺激的な、写真や細密画のたくさん載っている本を何冊か出してきて、手術について細かく説明してくれた。
「で、どのくらい入院するって?」
「一週間くらいだそうです。」
「やっぱりね。前は一泊くらいで帰しちゃうところも多かったんだけど、おそらく、傷が治ってから帰すってことでしょう。」
 そこで、私が再び、術後の不安を話すと、
「手術の前に、傷が完全に治ってから退院なのか、舐めても大丈夫なくらい回復してからなのか、訊いてみた方がいいですよ。場合によっては、事情を話して、入院を延長してもらいなさい。」
 と、アドバイスしてくれた。
 その後、玉音のしこりの話と、ダメちゃんの健康診断の相談をしたところで、他の患者さんが来院したので、今日の話はそこまでとなった。
 
 
 病院を出たところで、何気なく振り返ると、入口の横の窓に、来た時には気付かなかった貼り紙があるのが目に入った。
 何だろう、と読んでみると、そこには驚くべきことが書かれていたのである。 
 
 
「休診のお知らせ
 9月29日(金)
 午前:休診
 午後:予約診療のみ」
 
 
 何と。
 九月二十九日は、臨時休診日だったのだ!!
 
 
 アタゴロウ。
 キミという奴は――
 一体どこまで、器用な男なんだ!!!
 
 
 

(おまけ。イケメン過ぎる男)